2008年5月15日 (木)

〔遅報・学会発表要旨〕一九四〇年代後半の沖縄教会〜新たに発見した史料から見る〜

本発表は、二〇〇八年九月のキリスト教史学会大会で行う研究発表のための予備的な報告である。

一九四〇年代後半の沖縄キリスト教史を叙述するとき、二次文献をもとになされる傾向にある。そして、それらの叙述は史料批判や複数の文献による検証作業がじゅうぶんになされないまま、通説化している。

ところで、当該期の史料については一次史料で現存しているのは以下の三種類が考えられる。

①政府・行政文書(米占領軍や沖縄人民政府組織の公式文書)。
②新聞・雑誌・パンフレット類。
③当事者の手記、日記、メモ類。

この内、報告者は②については沖縄の諸新聞と断片的ながら米軍やハワイ移民社会等で発行されている新聞も調査した。また、①についても、沖縄諮詢会・沖縄民政府等の文献、占領軍政関係文書の調査を継続中である。今回分析の対象としたのは、新たに発見した③の史料である。報告者はすでに複数の人物の手になる手記・メモ類についてアプローチをしている。また、公刊されている沖縄系米国人(主に、ハワイやロスアンジェルス在住者)や沖縄戦に従軍した米兵の手記等をいくつか発見し、なお調査を継続しながら、既発見史料の分析を行っている。

それら新史料で、いくつかの新しい事実が判明した。その一つは、沖縄戦の最中からはじまった初期占領体制におけるチャプレン(従軍牧師)の役割である。米軍の「第十軍行動報告」によると沖縄戦時に派遣されたチャプレンはハワイ等で充分な教育と訓練を受けた上で、太平洋の諸群島で経験を積んで派遣されたこと分かる。彼らは沖縄戦に参加し、一九四五年五月頃から米軍の占領地の民間人捕虜収容所で集会を開き、六月には洗礼式を行っている。沖縄キリスト教の「戦後」は、この頃すでにはじまっていたといえる。

同年八月の沖縄諮詢会発足により、沖縄教会やキリスト者と占領軍、あるいは、チャプレンとの関係も変化する。当時の沖縄人関係者の手記には、クリスチャン米兵やチャプレン、「宣教師」などとの交流が好意的に描かれており、以後の沖縄教会と米国のキリスト教との関係の原型が形成されていたことが示唆される。

また、この時期の伝道者は沖縄諮詢会・沖縄民政府の文化部職員として準「公務員」的な待遇で伝道活動をしていたということが定説になっている。ところが、当事者の手記によると、当時の牧師・伝道師の生活は貧しく、信徒からの寄附(食料等の現物支給)の記事が頻繁にある。また、四八年頃には沖縄キリスト聯盟(以下、「聯盟」)理事会で伝道者の給与についての予算審議が確認され、聯盟理事長の秘書には俸給の支払いがなされている。このことから、上記の説は今後詳細な検討がなされなければならない。

それから、聯盟の性格や活動についても実態の解明が進んだ。まず、その創立年月日は、従来、四七年二月六日とされてきた。しかし、今回発見した史料によると四六年には聯盟の活動記録がないが、四七年になると三月二〇日に総会が開かれて以降、ほぼ一年に一度総会が開催され、二か月に一度理事会が開催されていることから、四七年一月九日結成説の信憑性が高いように思われる。また、その組織についても従来は教派・教団ではなく、伝道者の互助会的組織であるといわれているが、上記の総会・理事会の内容からして不完全ながらすでに教団としての体裁を整えていたのではないかと思わせる。

こうした定説化(神話化?)が行われてきた背景には、沖縄教会の内部に米軍の占領体制に対してスタンスや距離の取り方に違いがあり、それにより各々の歴史的評価も違うこと挙げられる。それに加えて、研究者自身に、「沖縄戦を経験し日本の教団から切り離された沖縄教会が戦争直後に独自の教会形成をできる訳がない」といったような先入観もあり、結果的に沖縄教会の独自性に対する評価が低く見積もられてきたことがなかったか。そのことについても、自戒の念を込めながら、中止していきたい。

その他、教役者会や「YMWCA」等の組織についても次第にその活動の輪郭がつかめてきた。こうした「事実」をひとつひとつ検証していくと、従来、公的な文書やキリスト教内部の公式文書に記載されてきた一九四〇年代の沖縄教会の実態とは違った歴史像が浮かび上がってきた。今後、更にそれらの史料を精査し、この時期の沖縄キリスト教史の全体像の把握に努めたい。

(「キリスト教史学会 第2回関西支部会」(2008年 3月 8日、於関西学院大学梅田キャンパス)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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〔遅報・学会発表要旨〕国家、地域、教会〜沖縄キリスト教をめぐる二つの国家と地域社会〜

沖縄キリスト教史において「国家とキリスト教」という問題を措定すると、日本本土(以下「日本」)の他地域のそれとは異なった課題が生じる。近代以降も、沖縄は日本とは違った経験してきた。また、日米の二つの国家に挟撃される沖縄の位置を考慮すると、そのキリスト教史を自立的に論ずるならば、国家とキリスト教、あるいは、国家と教会との間に、地域社会を中間項に設定しなければ、そこで生じた歴史的事象をとらえきれない。

それを前提に米軍占領下の沖縄キリスト教史を粗描するならば、その構成要素は、①沖縄人(地域住民、キリスト者)、②米国人(米軍人・軍属とその家族、チャプレン(従軍牧師)、米国人宣教師)、③日本人(国民、日本の教会関係者)の三者が考えられる。そして、それぞれがそれぞれの思惑で思考し、行動する過程で、国家意思がどう実行され、貫徹されていったか、その解明が課題となる。

ここに沖縄における教会形成と国家の関わりを示す興味深い資料がある。『キリスト教年鑑』二〇〇七年度版によると、沖縄県の教会は三三〇余り、信徒数は約三九,〇〇〇名で、県人口の二.八二%が教会員となり、日本の他の地域に比べて三倍近くになる。さらに各地域別に教会数・信徒数・対人口信徒比を見ていくと、沖縄キリスト教のある特徴が鮮明になる。教会と信徒は人口分布通り、約九割が沖縄島に集中している。ところが、沖縄島でも米軍基地が集中している中部地区には、県都・那覇を含む南部よりも人口が少ないにもか拘わらず沖縄全体の四三.二〇%の教会が集中し、信徒の割合は三.七六%にもなる。これは全国平均の四倍弱である。さらに、中部地区の教会はペンテコステ系やいわゆる「福音派」系の教会が多いことがわかる。

これは、単なる偶然ではない。発表者の聞き取りによると、中部地区の「福音派」系諸教会のいくつかは、米軍基地に頻繁に出入りでき、基地内の信徒やチャペルで交流をもっているという。また、このような「福音派」系諸教会には積極的に平和運動を行っている教会もあるが、それでも米軍批判の言動はあまり聞こえてこない。沖縄におけるキリスト教人口と教会の偏在は、米軍の駐留との関連を想起させる。そして、そのような関係は、日米両国の圧力により歴史や政治の矛盾が沖縄地域社会に収斂した結果でもある。このように、駐留軍が、国家意思に基づき牧師や信者、教会を通して沖縄地域社会に自らの有用性や友好的姿勢を顕示するとき、沖縄の教会は自ずと二分されていく。

本報告では、そのような沖縄教会の現状をふまえて上で、沖縄教会と国家の関わりを省察するために、チャプレン(米軍従軍牧師)と宣教師(団)の実態とその役割について考察した。

その結果、以下のことが明らかになった。まず、一九五〇年代に本格化する米国人宣教師による沖縄伝道は沖縄占領軍や東京のGHQの奨励と支援の元で実現された。そのような宣教師は、多くの場合、米軍の沖縄駐留には肯定的で、なかには沖縄の基地外で「英語教会」と称する米国人の教会をつくり、それらを背景に沖縄のキリスト教界に大きな影響力を及ぼそうとした宣教師もいた。

また、一九六〇年から七〇年にかけて、在沖米軍基地には二〇余りのチャペルがあったが、そこで牧会にあたっているチャプレンは、牧師であると同時に現役の将校でもあった。彼らは、時に、兵士たちを軍の意向にそって教導し、監視したりもした。また、チャプレンは最寄りの教会の牧師や信徒を通じて沖縄の地域情勢に関する情報を入手し、占領軍当局の意向をそれとなく地域住民に伝えるように促した形跡がみられる。

このように、沖縄在住の米国人のキリスト者、つまり、宣教師やチャプレンたちは程度の差はあれ米国の立場を擁護する役割を担っていた。そのため、沖縄の地域住民にとっては、キリスト教は米国の宗教であり、米軍の宗教であるという認識が強く、沖縄教会は地域社会で伝道する際に米国や米軍の動向に配慮せざるを得なかったのである。

米軍基地の駐留を巡りつねに分裂を余儀なくされている沖縄地域社会と、伝道する際に地域社会の亀裂を無視できない沖縄教会の「現況」は、こうした環境下で形成されているといえる。

(「キリスト教史学会第58回大会」(2005年 9月15日、於恵泉女学園大学)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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4つ、それぞれの「返還」、そして、「復帰」

以下は、戦後米軍の占領下から日本に「返還」(それぞれから見れば「本土復帰」)された4つの地域(諸島)である。

(1)1952年 2月10日
(2)1953年12月25日
(3)1968年 6月16日
(4)1972年 5月15日

これらに先だって、1952年4月28日、「日本本土」は独立を回復した。因みにこの日は沖縄にとって、そして、恐らく他の3つの地域でも日本本土から切り離され、日本に切り捨てられた日として記憶されている。

さて、(4)は36年前のきょう。沖縄が「日本本土」に「復帰」した日だが、他の3つの日は人びとに36年前のきょうほど記憶されているだろうか。

(1) トカラ諸島
(2) 奄美群島
(3) 小笠原諸島

奄美では激しい復帰運動があった。小笠原では戦時中一般の住民は強制的に退去させられていたが、戦後しばらくして欧米系の島民(100数十名程度)に限り帰島が米軍より許可された。しかし、他の住民は「復帰」まで帰島が許されなかった。

最近、「芸域」を広げるため、また、軽度の「島フェチ」のため、小笠原のことを調べはじめている。小笠原になぜ欧米系の住民がいるのかについては話せば長いことになるので、ここでは省略するが、小笠原には他にも「南洋系」の住民もいる(いた)。

さて、「5・15」を記憶している人、そして、この日がどんな日かを知っている人は沖縄でも減っていると聞く。しかし、「2・10」や「12・25」、「6・16」について知っている人が、当事者以外にどれぐらいいるだろうか。そして、それまでの過程でどのような苦闘があったのか。それも、恐らく忘却されつつある。

「島フェチ」・「辺境人」として、沖縄に限らず、これらの地域についてもこれから少しずつ調べて行きたい。また、その先に、旧植民地等に視野を広げて行けたらと考えている。

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2008年5月 3日 (土)

歓迎!! 「2ch」御一行様

きのうから以上にアクセス数が増えています。
アクセス分析の「生ログ」の「リンク元」をたどると「2ch」のスレッドにわたしのブログのURLが貼られている模様。

そこからご新規さんがたくさん来てくれています。
どうかゆっくりしていって下さい。
なんのおかまいもできませんが。

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ディープ・オーサカ・フィールドワーク(1)

※ 「(1)」ですから、(2)や(3)があると思うのですが、乞うご期待。

5月1日。我が勤務校は創立記念日で休校。

午前中のK女学院大学でのチャペルアワーの奉仕の後、昼過ぎに学生と西宮北口で待ち合わせて、本年度初めての、フィールドワーク、題して「ディープ・オーサカ・フィールドワーク」に出かけました。参加者は、わたしと韓国・釜山からきている短期留学生4名と日本人学生1名。これは、諸般の事情で休講にしたり、これから休講にしなければならなくなったりしている留学生の日本理解のための講義(「○○語・○○事情Ⅳ」)の補講でした。

前の講義の時間に事前のレクチャーを1時間ほどしていました。

コースは、だいたい以下の通り。

西宮北口から阪急で梅田 → JR大阪駅から環状線で鶴橋 → 鶴橋「国際マーケット」 → 猪飼野・御幸森神社 → 御幸森商店街・コリアタウン → 平野運河 → 今里新地 → 近鉄今里駅から鶴橋 → 鶴橋でお買い物 → JR環状線で大阪へ → 解散

ご存じの通り、生野区は人口約135,000人のうち、約33,000人は外国人(外国人登録者数)で、そのうち約31,000人が在日韓国・朝鮮人であるといわれている。いわゆる「在日」といわれている人の中には日本国籍を取得している人もいるので、この区の4分の1は「在日」である。

鶴橋近辺を学生を連れてフィールドワークするのは4,5年ぶりか。それでも、街のたたずまいはそれほど変わっていないように思えた。高架下あたりの「国際マーケット」も以前のままで、キムチを売る店が並んでいる通りの角にある婦人服の店のちょっと太めのおばさんのマネキンも昔のままであった。猪飼野のコリアタウンも神戸の南京町風にアレンジされてから1,2度いったので、わたし自身は驚くこともなかった。

今里新地は、今から10年近く前、今里に住んでいた留学生を訪ねて訪れて以来であった。当日、曇り(“フィールドワーク日和”)であったせいか(前回もそうであったような)、街全体は霞んでいるようでもあり、くすんでいるようでもあった。きっと夜になると、全く別の街になるのであろう。しかし、大学院時代の恩師である杉原達氏の著書『越境する民─近代大阪の朝鮮人史研究─』(新幹社、1998年)にある通り、街を歩くとヘップ・サンダルを作るときの圧着機の音や段ボール工場、それに「韓国の主要都市がぐるりと一回りできるほどに、朝鮮・韓国にまつわる店」([杉原 1998]p23)が立ち並んでいた。済州島特有の「トルハルバン」とう石像も至る所にみられる。

鶴橋や猪飼野、今里には日本人のとっての「外国人」である「在日」や中国人などが多く住んでいる。しかし、「在日」といっても、それぞれ一様ではない。1920年代になって盛んになった朝鮮人の日本内地への渡航の時期にわたってきたいわゆる「一世」とその子孫である「二世」、「三世」………。それに、近年日本に渡ってきたいわゆる「ニューカマー」の人々。その国籍も「韓国籍」、「朝鮮籍」、そして、正確には「在日」ではないが「日本国籍」を取得した人々と、一様ではない。

そのような事実はおおむね事前学習で伝えてはおいたが、今回同行した韓国人留学生と日本人学生はどのようなことを感じたのだろうか。

以前に比べて、いくぶん観光客らしき人が増えていた生野の街。でも、きょろきょろしながらそぞろ歩きする「外来者」への住民の視線は、必ずしも暖かいものばかりではない。日本人の学生は今里新地を歩いているときから、少し顔が青ざめていたような気がしたが、かえって感想を聞くと「怖かった。もう行きたくない」といった。韓国人の留学生は、「街の人の言葉(韓国・朝鮮語)が済州島の訛があって、釜山から出身の自分にとっては懐かしかった」という感想を述べる一方で、「店の人に韓国語で話しかけたのだけれど、いやな顔をされた」と驚いていた。また、商店街で話をしていた店番の年配のご婦人5,6人は、それまで日本語で話をされていたのに、我々の姿を見とがめると急に韓国語で話しをし始めたりした。

このように、フィールドワークをするわたしたちに対する視線を自覚することは、それでも、有意義なことであったと思う。

さらに旧猪飼野の入り口にある御幸森神社(御幸森天神宮)には、至る所に天皇系の紋章である「菊花紋」があり、境内の隅には「遙拝所」があった。その説明書きには「遠く遙かふるさとを思いながら………」というような文面があり、当世風の粉飾がなされてはいるが、天皇家と天皇信仰にまつわるものがコリアタウンの直近にある。そして、そこでは年に何回か「日本式」のお祭りがあり、それには近隣に住む「在日」の方々も参加や寄進をされていいる由。もともとこのあたりには百済から移住者が多いといわれていてる。多民族・多文化環境での「共生」のあり方はとは、どのようなことなのかを、自分自身も身をもって知り、留学生や日本人学生にも知ってもらいたかった。

さて、次回は、どこへ?

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2008年5月 1日 (木)

キリストに出会う。

K女学院大学チャペルアワーでの奨励

奨励題:キリストに出会う。

讃美歌:讃美歌21 399番 1,2節

1 さすらいの民よ、荒れた大地に
  いつまで空しい 夢を追うのか。
  「神に立ち帰り いのちを受けよ」
  きびしいみ声が 天からひびく。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
2 なぜつぶやくのか、さすらいの民、
  果てない旅路の 重荷にあえぎ。
  イェスを待ち望め、十字架のイェスを、
  闇路をみちびく 復活の光を。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
3 われらは主の民、日々の歩みが
  明日への希望に 続くようにと、
  愛の聖霊に ひたすら頼み
  あらたな賜物 この日も求め、
  われらはいま立つ、主の民として。 

聖 書:新約 マタイによる福音書 第27章第32節

「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(マタイ 27:32)

 わたしは、日本のキリスト教史の研究をしています。なぜ、この研究をはじめた動機はいくつかありますが、そのうちのひとつは、明治時代になって、生まれて初めて教会に行った人たちは、どうやってキリスト教に出会ったのだろうかということを知りたいと思ったからです。わたしは、20代の半ばになってふとしたことから近くにある教会の礼拝に出席しました。なぜ、わたしがそのとき教会に行こうと思ったのか。それさえ思い出せないほど些細な動機で教会に通いはじめたわけなのですが、その些細な出来事がその後のわたしの人生を大きく変えました。

私がキリスト教史の研究をはじめようとしたのは、その教会で洗礼受けた前後です。洗礼を受けてクリスチャンになったのにもかかわらず、それでも、「人はどのようにキリストと出会ったのか」ということに関心があったのか。それは、それまでに様々な教会員やクリスチャンに出会い、礼拝の説教もメモをとりながら聴き、聖書もたくさん読み、讃美歌も覚えましたが、この時点でもなお、イエス・キリストに出会ったという実感というか、確信が持てなかったからだと、いま思い返して考えると、そう思います。

 さて、きょう読んでいただいた聖書の箇所を「イエスとの出会い」の文脈で繙いてみたいと思います。「シモンという名前のキレネ人」がどんな人物であるのか、聖書では詳しく述べられていません。キレネというのは北アフリカの一都市の名前です。同じ新約聖書の「マルコによる福音書」(「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ 15:21))や「ルカによる福音書」(「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ 23:26))にもこの場面が描かれていますが、それらの福音書では、シモンは「田舎から出て来た」とあります。とにかく、このシモンが巡礼か何かの目的でエルサレムにやっていた時に、イエスの処刑の場面に出くわすのです。

 聖書によると、すでに死刑の判決を受けて自ら十字架を背負って処刑場であるゴルゴダの丘に向かっていたイエスは、途中で力尽きます。するとローマの兵士たちは、偶然その場に居合わせたキレネ人・シモンに無理矢理その十字架を担がせて、イエスの後を歩かせたのです。このときシモンは自分が担いでいる十字架にやがてつけられるイエスがキリスト、つまり、救世主であることは知る由もなかったのではないでしょうか。それどころか、恐らく、彼はイエスとは初対面だったでしょう。たまたま通りがかったばっかりに、シモンは、運の悪いことに全くの赤の他人を処刑するための十字架を担がされてしまいます。

 もし、シモンがそれを断ることができれば、他の誰かがそれをすることになったでしょう。要するに、それは、だれでもよかったのです。だれでもよかったのだけれど、よりによって、こうした最悪かたちでキレネ人のシモンはイエス・キリストと出会ったのです。このキレネ人のシモンのほかにも、このときにイエス・キリストと衝撃的な出会いをした人物が幾人か描かれています。例えば、極悪人の強盗でイエスと一緒に処刑されるはずであったバラバという人物は、ユダヤの祭りの風習により、釈放されてしまいます。その後この人物がどうなったかについて聖書は全く触れていないのですが、釈放されてからもその場にいてイエスの処刑の場面をバラバが見届けたとすると、バラバもこうして、普通にはありえないかたちでキリストであるイエスに出会ったのです。

 スウェーデンの作家・ラーゲルクヴィストの『バラバ』(岩波文庫)という小説があります。そこでは、バラバは、この後、一旦強盗団に戻りますが、最後はキリスト教徒とともにローマで殉教しています。また、キレネ人のシモンも後にキリスト教徒になったのではないかと思わせる記述が聖書のなかにあります(マルコ 15:21)

 彼らはどのようにしてキリスト教徒になったのか。それを詳しく知る手がかりは、現在、全く残っていません。ただ、「たまたまイエスの処刑の場面に出くわし、そこで不思議な光景を見て、イエスが救世主であることを悟り、感化され、後にキリスト教徒になった」というような単純なお話しではないように、わたしは思うのです。

 シモンは、イエスがキリストであったことを知った時に、「自分はなぜ、あのとき、イエス様の十字架を担ぐことになったのだろう」、「こんな事なら、強引にでも断るべきだった」、「それにしても、神様は、なぜ、あのような仕方で、わたしをイエス様に会わせられたのだろうか」等とずいぶん悩んだのではないでしょうか。バラバも同じです。「なぜ、全く無実であったキリストが処刑され、極悪人であった自分が許されてしまったのだろうか」。

 これは、二人にとってとても大きな「問い」ではなかったのでしょうか。イエスに出会うということは、物理的に出会うだけではなく、こうして、聖書を読み、イエスに物語に触れ、イエスの弟子たちや其の他の人物の生き様をたどることで、自分が抱えている困難や課題に呼応するように、自分だけの、大きな「問い」を持つこと。これが、イエスと出会うことではないかとわたしは思います。そして、そのような「問い」を持つことで、今度は、その「問い」に対する「答え」を探すという全く新しい人生がはじまるのではないでしょうか。

 翻って、みなさんにとっての「問い」はなんでしょうか。例えば、わたしの「問い」は、こうです。聖書には、大層為になることが書かれているし、その通りのことがこの世の中に実現すれば、とてもすばらしい世界になるはずなのに、現実はそうではない。だから、聖書は、所詮現実に対しては無力なのだ。──これでは「問い」になりません。聖書の教えに忠実なはずのクリスチャンやキリスト教国が、それを実行できないのは「なぜ」か。ここから「問い」がはじまるのです。

自分がたてたその「問い」に対する「答え」はなかなか見つかりません。しかし、その「問い」に対する「答え」を真摯に見つけようとする過程で、きっと、わたしたちは理想の社会を実現するための方法を幾つも考えつくことになると思うのです。

そのような「問い」を生み出すきっかけは、みなさん自身やみなさんの周辺、そして、この地球上にあふれています。「人は人を傷つけないと生きていけないのか」。「いくら努力しても、報われない人がいるのはなぜか」。「真実の愛なんて、あるのだろうか」。………

 さて、みなさんは、現在どんな「問い」をお持ちですか。そして、これからどんな「問い」をご自分で立てて行かれるのでしょうか。その「問い」が大きければ大きいほどそれに対する「答え」も大きくなり、それが深ければ深いほど「答え」も豊かになるのではないでしょうか。聖書には、みなさんが、そうした大きくて深い「問い」にたどり着くための糸口がちりばめられています。

 それでは、静かに目を閉じて、それぞれ、自分の言葉でお祈りをしてください。

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2008年4月26日 (土)

次回の学会発表

「宗教と社会」学会第16回学術大会(於南山大学、2008年6月14日、15日)で、下記の研究発表をします。

その他にも、新設学会へのお誘いもあり、その他にもう一つ学会に入ろうと思っています(これは、わたしにとっては初めて「日本」という国家名がついた学会です)。可能であれば、どちらかの学会で研究発表をしたいし、9月のキリスト教史学会でも研究発表をしたいと思います。

他にもいろいろ多忙ですが、何とか頑張ろうと思います。

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【発表趣意書】「軍事占領とキリスト教
       ─1940年代後半の沖縄における教会形成史の研究─」

 『キリスト教年鑑』(2007年版)によると、沖縄県の教会数は338(教派等の本部を含む)。信徒数は38,678人、県全体の人口の2.82%を占めている。沖縄県のキリスト教徒の割合が他よりも高いことはすでに知られている。しかし、教会、および、信徒の地域分布をみると、以下のように興味深いことが分かる。沖縄県の教会と信徒の9割以上は沖縄島に集中しており、これは沖縄県の人口分布とほぼ一致している。ところが、沖縄島では、人口の多い県都・那覇市を含む南部地区よりも、中部地区の方が教会数・信徒数とも多くなっている。また、信徒の対人口比でいうと、南部地区2.39%、中部地区3.76%で、中部地区の方が約1.5%も多い。

 一方、信徒対人口比では、宮古諸島でも1.89%、八重山諸島でも2.08%といずれも日本の他地域よりも高率である。これらの地域は、沖縄島の都市部よりも沖縄独自の宗教性が色濃く残っている。したがって、沖縄のキリスト教徒の割合が高いのは沖縄人の独特の宗教性によるという説は一定の合理性を持っている。しかし、それだけでは、都市化が進んでいる沖縄島南部地区に教会や信徒が集中しており、それ以上に中部地区に集中が見られることの説明がつかない。中部地区には多くの米軍基地が集中している (同地区の全面積の25.82%は米軍基地によって占められている)。このことは、戦後、再開された沖縄のキリスト教伝道が絶対的支配者である米軍の影響を強く受けており、現在でもそれが持続していることを物語っている。そこで、本報告では、沖縄のキリスト教に対する米軍や米国のキリスト教の影響に着目し、その原点である1940年代後半の沖縄のキリスト教や教会形成を分析の対象とする。

 これまで、1940年代後半の沖縄キリスト教史に関する文献史料はほとんどないとされてきた。しかし、当時の関係者が記した手記は未発表のものを含めていくつも存在するし、聞き取り調査も辛うじて可能な状態にある。加えて、占領軍と沖縄人の統治機構内の文書、新聞等々にキリスト教会に関する記述は散見でき、沖縄占領に参加した米軍兵士(沖縄系米国人等々)の手記も存在する。このように従来の研究で触れられてこなかった史料を活用すると、以下のような軍事占領下沖縄のキリスト教の実態が明らかになる。

 沖縄のキリスト教の戦後は、1945年の5月頃にはじまる。この時期、日本本土(以下、「日本」と表記)では空襲が相次ぎ、沖縄では嘉数高地や前田高地で日米両軍による死闘が続いていた。しかし、米軍の占領地であった北中城の島袋の民間人捕虜収容所では米軍のチャプレン(従軍牧師)によるキリスト教の伝道が開始され、6月には洗礼式が執行されたとの記録が残っている。こうして、沖縄戦で生き残った沖縄人信徒と米軍チャプレンやクリスチャンの米兵との出会いがはじまり、キリスト教の集会が形成された。そして、そこに未信者が集まるようになり、次第に教会が形成され、戦争により一時中断していたキリスト教伝道が再開される。

 当時、生き残った沖縄の地域住民は「集団自決」や日本軍による虐待を体験し、戦後は解放軍であったはずの米占領軍の暴虐に曝され、「戦果」や「体当たり」で糊口をしのぐ者もいた。この沖縄キリスト教の再出発を、あるキリスト者は「戦火によって焼きつくされた島における、砲火の洗礼を受け、国から見はなされ、異民族による軍事支配下に生きねばならない人たちの新しい、しかし希望を否定された歴史の始まりであった」と評した。本報告では、その含意をくみとりつつ、新しい史料を読み解くことで、従来の研究や通説化しつつある伝承について批判を加えながら、軍事占領というある種の例外状況下でキリスト教が果たした役割について明らかにしたいと考えている。

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承前:日本のキリスト教が抱える欠落、続報

前の記事(「日本のキリスト教が抱える欠落〜わたしたちは、だれに、“寄り添う”のか。〜」)について、『CHRISTIAN TODAY』の記事です。

アエラ『教会の性犯罪』報道 24時間体制の窓口設置で対応など

ここには、日本ホーリネス教団と日本キリスト教団九州教区の対応が掲載されています。日本キリスト教団は、教団としての声明等は出していないのでしょうか。これは未確認です。教団内の教会・信徒向けの声明等も、未確認です。御存知の方があれば、お知らせ下さい。

それにしても、「伝道する教会」・日本キリスト教団はこれでいいのでしょうか。以前も、「公開 「殉教」ではない。あなたたちは「迫害」されているのではない。〜「教師退任勧告」と「東海教区詐欺・横領事件」のこれから〜」等で指摘しましたが、黙殺は次の“犯罪”を生みます。そのなかには、防げるはずの“被害者”を生み、“加害者”も生みます。

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2008年4月10日 (木)

日本のキリスト教が抱える欠落〜わたしたちは、だれに、“寄り添う”のか。〜

数日前、戦後沖縄のキリスト教史の生き証人である方の訃報が届いた。その方には、以前、2時間ほどお話をうかがったことがある。この件については、後日、詳しく論じてみたい。

さて、『AERA』(vol.21-№16、2008年4月14日)に掲載されている「キリスト教会の『性犯罪』」(AERA編集部 田村栄治)を読んだ。ここには、日本の3つの教会で起こった「性犯罪」について紹介されている。日本聖公会高田基督教会(奈良県大和高田市)、日本ホーリネス教団平塚教会(神奈川県平塚市、現在は廃止)、日本基督教団熊本白川教会(熊本市)、それに、カトリックの教会について触れられている。

そして、某SNSなどでは、この件について議論されている。それらの議論のなかに、この一連の事件に対する日本のキリスト教が抱えている問題が垣間見える。

これを発表した雑誌が「左寄り」の朝日新聞だからキリスト教を攻撃しているのだろうという暴論はさておき(共産主義を掲げている中国は信徒数だけでいうと世界最大のキリスト教国になろうとしている。だから、共産主義や社会主義はキリスト教をはじめとする宗教を弾圧しているというのはまった現実に即していないということを、この人はきっと知らないのだろう)、議論の中心は「今、なぜ、この時期に」ということと、うちの(教会の、もしくは、教派の)牧師はやっているのかやっていないのかに終始しており、結論的には、「他の宗教も同種の事件があるのになぜキリスト教だけが採り上げられているのか」といったものや、「困った話だけれど、一部の教会の、おかしな牧師のことでしょう」等々で終わっている。

以前、このブログでも述べたことなのだが、日本のキリスト教は、明治以降、「迫害伝説」というのを構築してきた。これは、一部の教派や信徒、牧師等々がかつて泊がされたという事実を、キリスト教全体に敷衍し、恰も自らが迫害されてきたかのような虚構に基づいているのが特徴である。実際、部分的には教会や信徒、牧師、あるいは、キリスト教主義の諸学校が国家による監視の対象になり、暴力を伴う弾圧に曝されたことは事実である。しかし、一方で、日本のキリスト教界は権力と癒着したり、権力に積極的に協力することで、活動の自由を保障されてきたのも事実である。

そして、この「迫害伝説」は、自分たちを国家による弾圧や迫害による被害者として位置づけることで、その教義から「自分たちが正しいが故に、世の中から迫害される」というように、自らの好意を正当化する手段になっている。また、そうだから、「“わたしたち”少数のキリスト者は団結しなければならない」というふうに、教会・教派の組織固めに利用されてきた。そして、その副作用として、日本のキリスト者は絶えず日本社会を外部と捉えて、そこからの被害妄想に悩まされてきたのである。

さて、上記のようなやりとりの中で、完全に欠落しているのは、被害者に対する想いであろう。日本のキリスト者はこのような事件に際して、概して、「自分たちの代表者たる牧師がそのようなことをするはずがない」と強弁することで、暗に被害者とされている女性が虚偽の申告をしていると推定している節がある。または、被害者に全く想いが至っていない。

わたしは、イエスの教えの本質は、“寄り添うこと”であると解している。そして、“寄り添う”相手は権力を持っている者ではない。自らの同様であるが、力も富も持たない、弱くて不安定な立場に立っている者のなかにこそイエスが存在していると感じて、その人たちにこころを寄せ生きていくことがその含意にある。

ありもしない「迫害」の虚構におびえ、ひたすらに自らの保身しか考えていたところに、この問題の本質がある。そして、そのことに想いが至らず、したがって、自らを正そうとも、代えようともしないが故に、同種の事件は今後も続くであろうところに、日本のキリスト教の非力と悲劇がある。

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2008年4月 5日 (土)

尊厳について〜4人の新入生に〜

みなさん、ご入学おめでとうございます。

みなさんは、入学式に出てびっくりされたではないかと思いますが、みなさんの同級生は4名です。たった4名。ではありますが、それをふまえた上で、なお、わたしはこのような事態をわたしたち教員や大学にとっても、無論、あなたたち新入生にとっても幸いなことであると思い、祝意を表したいと思います。

みなさんは人間の尊厳について考えたことがあるでしょうか。これは、難しいことではありません。みなさんが、これまで家庭で、若しくは、学校で、或いは、社会で大事にされてきたかどうか。また、みなさんが、それぞれの場で、他者を思いやり大切にしてきたかということです。人間は、それまでに自分がじゅうぶんに大事にされ、尊重された記憶があれば、多少の辛いことや悲しいことは乗り切ることができます。しかし、そのような経験や記憶がないと、自分を守れなくなったり、他者に対して暴力的に接するようになってしまうのではないかと思うのです。

さて、新入生4名に、教員が6名。これは、お互いにお互いのことをよく知り、励まし合い、尊重し合うのに最善の環境ではないでしょうか。わたしたちは、入学式で、早速みなさん全員の名前と顔を覚えることができました。これからも、みなさん方が、仲良く、ともに励み、ともに尊重し合うことを、わたしたちは望んでいます。そして、そのためにともに力を合わせたいと思っています。

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