2009年7月 8日 (水)

対話をしよう。〜「150周年派」の方々に〜

きょうから、くだんの「日本プロテスタント宣教150周年記念大会」がはじまった………らしい。それに併せて、わたしのブログのアクセスが増えています。そして、本日未明当たりからあるリンクからのたくさんのひとたちが来るようになっています。

このリンクですが、どうやら山梨県在住の牧師がかいた[mixi]の日記らしいのです。「らしい」というのは、そこにアクセスしても、日記がブロックされているようで、わたしにはみることができません。その日記が既に削除されている可能性もありますが、わたしが閲覧を試みてしっぱつしてからも、そのリンクから訪れる人があるので、おそらく、この時点ではまだ削除されていないのでしょう。その牧師が書いたその他の日記はわたしにも読むことができるので、おそらく、その日記だけなんらかの制限をかけていて、一定の人々しか読めないようになっていることが推察されます。

こういう行為は、意図が見えないだけに、なにか、とても不気味です。それよりも、わたしのブログに対してどのような見解を持っているのか、それをわたしはとても知りたいと思っています。そして、その牧師の日記からわたしのブログにやってきた人は、どのような感想を持っているのでしょう。それも、もても知りたいと思います。

だから、皆さん、対話をしませんか。
異論があるのならば、おっしゃって下さい。この場をよろこんで提供いたします。
記念大会のことを教えていただけるだけでも、その感想を寄せていただくだけでも結構です。

わたし自身、この件に関するいくつかの日記やブロブを拝見しました。そのほとんどは、わたしがこのブログで「150周年派」と呼んでいる方々です。そして、そのいくつかに非常にナショナリスティックな主張が「日本プロテスタント宣教」ということばにひいきつけられて主張されていることに、危惧を抱いています。これと同様の言説が明治初年の「基督教信徒大親睦会」等でも繰り返し強調されてきたことです。

そして、このような日本のキリスト教伝道に内在するナショナリスティックな側面は、「文明の宗教としてのキリスト教を、野蛮で非文明的な地方に宣教する」という西欧流の帝国主義的な文明観を日本のキリスト教の指導者のなかに育てます。そして、彼らは欧米人宣教師から自己に向けられたまなざしを内面化し、自らを文明の高みに立ったつもりになり、結果的に「地方」を見下し、「地方」で澎湃と起こったリヴァイヴァルを冷笑し、その灯を消していったのです。それは、キリスト教が日本社会に深く広く根をはる契機をつみ取ってしまったのです。

そして、今日、皮肉なことに、この西欧流の帝国主義的文明観によるキリスト教宣教を唱道してきた人々の「末裔」の方々が、この「150周年」を期にリヴァイヴァルを呼び起こそうと主張しているのです。また、彼らは「明治期以降、幾多の迫害にあった」と主張していますが、それは真実なのでしょうか。日本の主流派のキリスト教界は、内村鑑三の「不敬事件」や田村直臣に関する「日本の花嫁事件」などを経験し、迫害を恐れて時の権力に迎合的な伝道姿勢をとったが故に、延命してきたのではなかったのでしょうか。

これらは、いずれも、日本の民衆的キリスト教の体験や歴史の簒奪に他ならないとわたしは考えています。

わたしは、今回の出来事がわたしたち日本の教会の歴史を見つめ直す契機になればと、願ってやみません。ですから、対話をしませんか。

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2009年6月21日 (日)

「150周年」派と「地方伝道史観」批判〔一部改訂版〕〜新たな伝道と「地域教会」の確立に向けて〜

さて、さまざまな批判がありながら、「日本プロテスタント宣教150周年記念大会」が強行されようとしています。「強行され」ということばは、多分に主観的なことばです。しかし、批判を強引な論理で排除しながら、自己を正当化しなければならない事態は、やはり「強行」といわざるを得ないのではないでしょうか。そして、このような構図が、今日の、そして、それは、150年前、あるいは、163年前、あるいは、それ以前のキリシタンの時代から未だに克服されていない日本のキリスト教の問題点を、クリアに映し出しているのではないでしょうか。

大会主催者のHPやいくつかのブログ・日記等をみていると、論点は大体次の一点に尽きるでしょう。つまり、ベッテルハイムの琉球伝道を、「日本プロテスタント伝道」史のなかにどう位置づけるかということです。これをめぐって「150周年派」と「163周年派」は対立しています。

ところで、「150周年派」が作ったHPのなかのビデオ「日本プロテスタント宣教150年の流れ」 という文章のなかには、

既に1846年にベッテルハイムが沖縄(琉球)に来日し、聖書を琉球語に翻訳するなど、宣教活動に尽力しておりました

という一文が見えます。ここでは、「150周年派」の公式的見解として、ベッテルハイムは今から163年前の1846年に「来日」しているとの認識を示しています。つまり、「150周年派」は1846年の時点で琉球は日本であると彼らは考えているということです。そのうえで、ヘボン・フルベッキ(ヘップバーン・フェルベック)やウィリアムズよりも前にプロテスタント宣教師たるベッテルハイムが「日本」で伝道を開始しており、聖書の翻訳も手がけているという認識を、「150周年派」は公式に表明しているのです。

まあ、この時点で、「日本プロテスタント宣教150周年」という論理は、破綻しているわけです。しかし、わたしたちが汲みとみべきなのは、わたしたちの内部にある「琉球・沖縄観」なのではないでしょうか。ここには無意識のうちに、琉球、あるいは、沖縄を「日本」の範疇に併呑したり、排除したりする日本人固有の意識が現れており、残念ながら「150年派」の方々にもそれがあるということです。

(※ いらぬツッコミですが、今から150年前には、現在の日本につながる「日本」は存在しておりません。)

さて、この問題を考えるためにはベッテルハイムにとって沖縄伝道とは何だったのかや、沖縄にとってベッテルハイム伝道はどんな意味と影響を与えられたのかについて丁寧に考えなければならないと思っています。これは、この秋までのわたしの研究課題です。

ベッテルハイム来琉の100周年は1946年。つまり、敗戦の1年後。沖縄は戦後の混乱期で、米軍の占領統治がはじまりかけていましたが、まだ相当数の民間人が捕虜収容所で生活をしていた時代です。だから、沖縄では、ベッテルハイム来琉100周年記念など祝っておられる余裕もなかったと推察されます。

それでも、ベッテルハイム離琉の100周年記念である1954年に、100周年が沖縄全体で祝われています。琉球政府文教局ベ博士百年記念祭實行委員會『伯徳令−−ベッテルハイム博士滞琉百年記念誌』 (1954年)も出版されています。この資料は未見ですが、ベッテルハイムの「離琉」を祝ったわけではないと思います。

この件の詳細は、後日ということで。ここでは、これまでに余り触れられてこなかった論点について述べたいと思います。

先述の「日本プロテスタント宣教150年の流れ」というビデオでは、1859年に横浜にやってきた欧米の宣教師がその後信仰を得た日本人クリスチャンと共に「文明の宗教」たるキリスト教を地方に伝えていったというストーリーが述べられています。「文明の宗教」ということばはそのビデオには出てきませんので、わたしの解釈です。つまり、「150周年派」の人たちにとって、今回の「150周年」とは近代的なキリスト教が未開・半開の蛮地である「地方」への伝道」を開始したその起点としての意味ももっているということです。

明治初年の「地方」社会がどうなっていたかについては、さまざまな研究があります。

新政反対一揆、自由民権運動、地方三新法体制、松方デフレ、農民層分解………。

まさに急速な近代化に直面し、混沌としていて、狼狽えており、不安や不満の渦巻く「地方」に、キリスト教は伝えられたのです。そして、そこで伝えられ、地域の住民(民衆)に受容されたキリスト教は、欧米人宣教師やその感化をうけた日本人の指導的な牧師たちの伝えたキリスト教徒同一のものであったと言えるでしょうか。わたしは、かねてからそこに疑問を持ってきました。

さきのビデオのなかに今回の150周年の先駆けとして、50周年、100周年の時の集会と共に、明治初年3回にわたって東京・大阪・京都で開催された「基督信徒大親睦会(基督教信徒大親睦会、基督教徒大親睦会ともいう)」も挙げられていて、この大親睦会を起点として「リバイバル」が起きたと述べられていました。

これは、果たして事実なのでしょうか。確かに、1883年の東京での大親睦会とその前の横浜での初週祈禱会を起点として、同志社やわたしが以前調査した岡山県の高梁でもリヴァイヴァルが起こります。しかし、それは、東京や横浜といった当時のキリスト教の《中心=中央》でのリヴァイヴァルとは全く異質のものではなかったと思うのです。

同志社では下級生から上級生にリヴァイヴァルが伝播し、学生たちはついに期末試験を投擲して全国伝道に行かせよと日本人教師や宣教師に詰め寄りました。また、当時、「地方」で散発的・自然発火的に、そして、澎湃として起こったリヴァイヴァルは求道者が発火点になっていて、それが次第に信徒回想の底辺から頂点に伝播していきました。そして、ついには、未信者・求道者が神の御声を聴き、神の御姿をみたといって、そんな経験のない牧師に悔い改めを迫るという事態が至る所で起きます。

これは、キリスト教というよりも、この時代に近代化による地域社会の激変にともない全国各地で同時多発的に起こった丸山教や富士講などの民衆宗教におけるオルギア(オージー、Orgy)と共通点の多い、民衆的運動であったと思います。わたしは、それを社会の周辺・辺境で起こった苦境・難儀に対応する自然な対応として起こったリヴァイヴァルだとして、そのようなリヴァイヴァルを《フロンティア=辺境》型リヴァイヴァルと名付けました。そして、宣教師や指導的な日本人牧師が人為的に起こした《伝道集会=中央》型リヴァイヴァルと対置させたのです。

この時期に澎湃として「地方」でわき起こったリヴァイヴァルは、教会が建設される以前に起こったものもありました。「150周年派」のひとたちは、これらを自分たちの正史に組み込むために、その内容には敢えて触れず、自分たち(の直系の人々)が起こした「リバイバル」が全国に伝わり、それによって自分たちのキリスト教が根づく契機となったという一種の虚構を作り上げてきたのです。

しかし、実際には、こうした「地方」でおこった《フロンティア=辺境》型リヴァイヴァル対して、当時の教界中央の宣教師や日本人牧師たちは、冷笑したり、恐れを抱いたりして、結局、これらの動きを封殺しようとしたフシがあるのです。その意味で、「150周年派」の人々の主張は、「地方」に伝わった横浜から伝えられたキリスト教とそれを受容した人たち・教会の信仰の相違を無視しているし、各地でつくられた教会の設立史と発展史の自立性と多様性を認めていないように思うのです。

いまから150年前に横浜に伝えられたキリスト教は、横浜や東京のキリスト教の源流になったとは、かろうじて言えると思うのですが、それを「日本の源流」といってしまうと、それはとても政治的な色彩を帯びてきてしまうように思います。つまり、明治以降の日本のキリスト教会はそれが伝播する際の民衆的な契機を冷笑し、抑制することで、それらと切り離した形で「文明の宗教」としてのキリスト教を「地方」に移植していったということです。

そして、もう一歩踏み込んでいえば、今日の日本でのキリスト教の低迷(明治以来、何度かの「キリスト教ブーム」のとき以外はずっと続いていますが)は、まさに「150周年派」の直系の先輩たちが日本におけるキリスト教土着の民衆的契機を踏みにじったことに由来すのではないかとわたしは考えています。そのような意味で、「150周年派」の方々の脳髄にしみこんでいるこうした「地方伝道史観」を、彼らがいまだに放擲し得ないという事実が、今日の教界をも混乱させているのではないかと思うのです。

そうです、問題は沖縄の諸教会への伝道をどう考えるかでもありますが、それ以上に「地方」の教会の自立性や独自性の問題でもあります。だからこそ、それぞれが「150周年派」に簒奪された各個教会史を奪還し、それを糧に地域社会にいかに伝道していくかを考える契機にもなると考えますが、みなさんは、いかがお考えでしょうか。




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2009年6月 9日 (火)

宗教と苦闘~「宗教と社会」学会学術大会雑感~

そう。わたしは、多少、ヘソが迂って付いている。みんながいいというものを余りよく思わなかったり、反対に、みなが批判するものを応援したくなる。

さて、今回に学会で、わたしは研究発表をし、そのほかに3本の個人研究の報告を聞いた。二日目は、共同研究の成果を発表するテーマ・セッション(この学会の売り物!!)の発表を2本聞いた。

午前中の発表は、米国のSGIに関するもので、用意は周到、練り上げられた3本の基調報告は形式も美しく整っていて、発表者の呼吸もぴったり。正に、完璧なプレゼンテーション。漏れ聞くに、ずいぶん「予行演習」をやったそうだ。実に楽しそうな発表であった。

しかし、それを聞いていて、ついつい、論理やプレゼンに破綻がないことが気になってしまうのは、勿論わたしの悪い癖だ。いくら順調に布教が進んでいる団体でも(でも、全米で11万人の信者はちょっと微妙な数字だが)、学問的に批判すべきところはあるはずだ。SGIは、フランスでは一時期カルト扱いされたと聞く。ならば、米国でも同じような批判はあるはずで、そのような迫害を伴いそうな他者からの批判に対して、会員たちはどう思っているのだろうか。そんなこんなの小さな疑問があった。信者の「生」の声の紹介はあったが、それに対する顕彰は余り成されていないようで、多分にできごとが数量化されて語られていたように感じた。

この団体については、興味はあるがほとんど知識がなかったので、一つ一つの事実や分析は大変興味深く、勉強にもなった。しかし、不思議に、胸に響くものがなかった。

午後の発表は民衆宗教のなかのジェンダー・バイアスを主の扱ったもので、発表者4名中3名が男で、その男がなにやら必死にフェミニズムについて語っているものだった。このセッションは、レジュメもなんだか中途半端で、パワーポイントは使わないし、発表していることも呂律が回っていないような、なんせグダグダな内容だった。

しかし、わたしは、こっちの方が気に入っている。宗教は最終的に解脱や救済を目指すものだが、その過程には実に迷いや苦闘で、汗や涙にまみれているのものではあるまいか。信者がそうなら、聖職者はなおさらそうで、あるいは、そうでなければならないと思う。その聖職者が、自らの偏見に気づかされ、その資質のなさを突きつけられ、苦慮する。あるいは、信徒や他の聖職者の心ない言動に傷ついていたり、傷つく信徒を目の前に、彼ら/彼女らが立ち尽くしている姿が、それぞれの発表を通して、わたしにははっきりと見えたのだ。

実は、1日目にもそのような発表が1本あった。発表者はネット上では面識があり、何度かやりとりをしているが、リアルにあうのは初めての方だ。彼女は、多分キリスト教の牧師で、自らがずっと抱えておられる問題について、探求しておられる。そして、その解明のため、神学だけではなく、社会学の大学院に学ばれて、学位も取得しておられる。そして、この学会でも何度も報告をされているのだが、今回初めて発表を拝聴した。彼女はご自分の問題に対してあまりにも真摯に取り組むあまりに、そのすがたをみていると、わたしの胸まで苦しくなってくる。

いくつかの意味で、彼女の戦いや試みは成就・達成されていないと思う。そして、闘う場所がここでいいのかという疑問もある。しかし、彼女の50分間(発表25分、質疑応答25分)には、先行研究の整理だとか、分析のしかただとか、方法論だとかいうものを、超越したもっと重たいものがあるように感じた。

学会発表の善し悪しは、準備がじゅうぶんかどうかだけではないと思う。乗り越えられない課題に、いかに果敢に挑戦し、目を背けないで自身を見つめるかだ。

さて、今回の会場は創価大学。八王子があんなに東京から遠いとは思わなかったのだが、その八王子の市街地からさらに15分ほどバスに乗った。ここは、今日では、実質的に創価学会の「総本山」になっているという。キャンパスは緑の覆われており、数々の塑像や記念碑がそこかしこにある。また、いくつかの壮麗な建物は現在の名誉会長の権勢を物語る。そして、レセプションがあった本部棟の5階(傾斜地に建てられているので、5階が玄関です)の展示スペースは、現名誉会長にたいする個人崇拝の色彩が非常に濃く、わたしの認識である仏教のイメージとはほど遠かった。そもそも、宗旨の違うわたしには、個人崇拝や偶像崇拝が気になって仕方がない(つまり、嫌悪感を催したということです。でも、これって宗教研究者としては失格かも)。

――民の苦しみを救ってあげた。

このことはの主語は、教祖でも神でも仏でも当てはまるが、政治家を入れても当てはまる。わたしは、ともに苦しみ、涙を流し、悲しさのうちに、ともに歩き続ける神様の姿に、あこがれる。そして、自分も、願わくば。そうでありたいと思うのだ。

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2009年6月 5日 (金)

〔短信〕東京に来ました。

午後、東京に到着。明日から、東京・八王子にある創価大学で開催される「宗教と社会」学会に出席します。

今回は、開会直後の研究発表。表題は、「戦後政治のなかの沖縄キリスト聯盟─「新沖縄」建設をめぐる地域社会の対立と葛藤─」。これまでにやったことのない、複雑な問題に取り組みました。何とか苦心の末、レジュメも完成。積み残しの課題も明確になりました。

今年は、この後8月に2回、北海道で開催される学会で発表の予定です。東アジア宗教文化学会と日本基督教学会に発表エントリー済み。

さて、明日は、どんな出会いがあるでしょうか。精一杯やります。

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2009年5月 5日 (火)

研究会のご案内〜「社会的コンテキストのなかのキリスト教」研究会〜

来週末ですが、東京での研究会のご案内です。東京開催の研究会はずっとご無沙汰でしたが、今回は行けそうなので、案内をします。

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5月研究会のお知らせ

次回研究会を下記要領で実施いたします。どなたでも無料で参加できる研究会です。関心ある方はぜひごご参加いただければ幸いです。

日時:2009年5月16日(土) 14:00〜18:00

場所:立教大学池袋キャンパス太刀川記念館1階第1会議室
   (太刀川記念館は池袋キャンパスの西端にあります)

(1)
発表者:坂井悠佳氏(筑波大学大学院)
発表題目:明治前期における牧会活動と教会形成—熊本バンドと組合教会を中心に—
参考文献:霊南坂教会編『霊南坂教会100年史』霊南坂教会、1979年
     坂井悠佳「熊本洋学校におけるキリスト教受容とその展開」『史境』55号、2007年

(2)
発表者:松島公望氏(東京大学大学院総合文化研究科)
発表題目:プロテスタント・キリスト教に関わる日本人の宗教性発達に関する心理学的研究−ホーリネス系教会を対象にして−
参考文献:松島公望「プロテスタント・キリスト教に関わる日本人の宗教性発達に関する心理学的研究−ホーリネス系教会およびキリスト教主義学校を対象にして−」東京学芸大学博士論文、2007年。
     松島公望・宮下一博「ホーリネス系教会に関わる日本人クリスチャンの『キリスト教における宗教性』発達モデルの構成」『千葉大学教育学部研究紀要』56巻、2008年。
     松島公望・宮下一博「ホーリネス系教会に関わる日本人成人における『キリスト教における宗教性』発達モデルの検討」『千葉大学教育学部研究紀要』57巻、2009年。

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(1)の研究テーマに興味があったので、参考文献にあげてある論文のと、坂井悠佳「同志社大学神学部所蔵『小﨑弘道自筆集』の検討─近代日本プロテスタント史研究上の一史料─」(『近代史料研究』第6号、2006年10月)も国会図書館から取り寄せてみた。

筆者の坂井氏とは面識はないのだが、筑波大学の院生(人文社会科学研究科歴史・人類学専攻?)ということなので、お若い研究者かもしれない。しかし、同志社大学神学部に所蔵されている小﨑弘道の手稿を丹念に当たられた様子が垣間見える。このように原典に直接当たって分析を試みる手法は、日本キリスト教史研究では、継続的な研究会ならばあり得るが、最近の学会での研究発表では余り見られなくなっている。まさに、歴史や思想史の研究者ならではのものであろう。

さて、坂井氏の論文を精読したわけではないが(自ら原典に当たるなどして検証して読んだわけではない)、史料の探索の精密さに比べて論点のついては通説的な論述になっているきらいがあるようだ。先行研究の吟味もしっかりしていそうだが、坂井氏がそれらにどのような新しい論点を加えたのだろうか。近代史や思想史などでは小﨑弘道はマイナーな存在なので、このような研究分野での論述はこれで一応十分なのかもしれない。それに、同志社や熊本バンド、日本組合基督教会での小﨑弘道の位置の相対化が十分ではなく、その点で小﨑を過大に評価しすぎではないかとも思う。

さて、今度の研究会では、本人に直接その点をうかがえるのではないかと期待している。

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2009年4月30日 (木)

『波乱と激動の回想』〜松岡政保回顧録とキリスト教〜

探していた本を手に入れることができました。結局、大学図書館間の相互貸借の制度を使って琉球大学から借りることができました。最近は、図書館もネットを通してやりとりをしているそうで、先週の木曜日に申込をして、今週の月曜日には届いたそうです。

松岡政保『波乱と激動の回想─米国の沖縄統治二十五年─』(私家版、1972年)。著者よりの寄贈の印が押してありました。

一読して、いろいろなことがわかりました。松岡の戦前の歩みを読んでも、洗礼を受けたり、特定の教会に出入りしていたという記述はありませんでした。しかし、米国本土インディアナ州のトライステート大学に留学中にはYMCAを寄宿舎にしていたようです。また、それ以前にハワイにいた時には日本人の学校ではなく、亡命中の李承晩が設立した「朝鮮人学校」(「韓人寄宿学校」あるいは「 韓人中央学院」のことであろうか)に通っていたといいます。松岡によると同学校は、「当時の李承晩は四十四、五歳、米国の篤志家の庇護の下にハワイに亡命し、朝鮮独立運動をするかたわら、メソジスト教会の援助で、ホノルル市の中心部のミラー街に八年制の学校を設立して、朝鮮出身の教育をしていた」(p30)だということです。

戦前、戦中、戦後の政治過程のなかの沖縄・沖縄人とキリスト教について、そこから見えてくるのはどんな風景なのでしょうか。松岡は李承晩と面識があったのか。松岡が琉球政府の行政主席に就任した1964年には、李承晩はすでに失脚し、ハワイに亡命していた。また、1940年代、沖縄戦後の沖縄諮詢会・民政府時代の記述については、米軍の担当者の人物像がある程度明確に語られている。

ただ、諮詢会・民政府の指導者のうちに何人かのクリスチャンは教会に関係する一階たというだけでは、まだ、政治とキリスト教の関係を立証するためには根拠や蓋然性が薄い。もうひとつ考えているのはインドネシアルートだが、ともかく、占領体制の初期において、占領行政を進めるうえでキリスト教がキーポイントになっていたこと、また、占領行政に教会や沖縄人クリスチャンが果たした役割を立証するための証拠を、これから探していきたい。

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2009年4月27日 (月)

戦後沖縄キリスト教史研究の水準

沖縄のキリスト教史にかかわる先行研究は、極端に少ない。この研究に携わる研究者は、過去も含めてどんなに多く見積もっても10人前後ではないかと思っている。その中でも、これまで精力的に研究成果を発表してきたのが、日本大学文理学部哲学科准教授の小林紀由氏である。

彼のブログ「小林紀由研究室」に、最近、「沖縄の『復帰』とキリスト教」と題された論考が19回にわたって連載されている。中身は小林氏が1997年から続けてこられた戦後キリスト教史研究のための先行研究の網羅的な整理である。小林氏の研究の中心は「沖縄の『復帰』前後のキリスト教について」だということだが、ここでは琉球王国時代からのレビューがされており、対象地域も「沖縄」(このことばには、小林氏も指摘しているとおり、いくつもの重層的な意味が込められている)だけではなく、奄美に関する研究文献の紹介もある。

わたしが小林氏と直接お会いしてお話をしたことは数回しかない。しかし、その時、個人的には温厚な性格で、誠実に研究をされている方だという印象であった。また、沖縄でのフィールドワークの際にご一緒したことはないが、わたしの調査先でも何度か氏のお名前を聞く機会があり、特にバプテスト連盟の調査を精力的に行われていたようだ。

小林氏の研究は、宣教師に対する評価や米軍による軍事占領下の「米軍」のキリスト教に対する評価、沖縄地域社会における沖縄人キリスト者の思想や行動についての評価等の点で、わたしの研究とは視点やスタンスがちがうようだ。しかし、わたしにとって尊重すべき先行研究に他ならず、氏の存在はわたしの励みにもなっている。

さて、網羅的とはいえ、ここには多少の遺漏がある、ように思う。最初に自分のことをいうのは品のいいことではないが、わたしの研究については2000年と2001年に公刊された論文があげられているのみである。しかも、そのうちの1本は学会発表の要旨である。また、他の1本は学会誌の「研究ノート」である。わたしがそれ以降執筆した論文の関して、紹介すべき文献に値しないということであれば、今後も精進する外はない。

それはさておき、このように約26,000字におよぶ詳細なレビューだが、これが戦後沖縄キリスト教史の研究水準を表しているともいえる。小林氏は「沖縄のキリスト教史概観(つづき)」((3)〜(10))で戦後の概観を行っている。そして、そこでの記述は、主として厳密な身での一次文献ではなく二次文献に沿って記述されている。わたしは、すでに、特に1940年代後半の時期の当事者の手記、つまり一次文献を使用して研究を進めている。しかし、現行の沖縄キリスト教史研究の段階は、二次文献によりその概観が進められているに過ぎないのである。つまり、歴史研究の段階でいうとごく初期の段階に過ぎない。そのあと、二次文献の検証や一次文献の発掘。次に、それらの不足分を聞き取り調査などで補いながら、一次文献や統計資料の分析を行う。そして、歴史を多角的・立体的に検証・叙述していく。

沖縄キリスト教史研究は、現在、そこまでの研究の深まりや広がりをもっていない。それを克服するためには、厚みと広がりのある研究者層が必要であるが、現行の日本キリスト教史についてもそれが十分であるか、疑問がある。

フィールドワークをしていて、忘れられない出来事があった。ある沖縄出身でない沖縄の牧師と仲里朝章氏のことについて、メールでやりとりをしていた時のことである。わたしは、先日このブログで紹介したとおり、仲里朝章氏の文書を使って朝章氏の神学思想についての研究を公にする予定である。その内容をその牧師に話したところ、「仲里朝章に独自の神学などないと思う」との答が返ってきた。つまり、朝章氏に神学思想がないというわけではないが、それが独自のものであるはずがないということであろう。

朝章氏の思想が、日本本土の著名な神学者や欧米の神学者、また、韓国の神学者のそれと比肩しうるかどうかについてが彼我の情報の差がありすぎるので客観的に判断できる状況にはない。なにしろ、朝章氏の思想について学術的に研究している研究者はわたし以外にはほとんどいないだろう。確かに、彼の思考や行動は日本本土の植村正久や内村鑑三、そして、書物を通じて米国や西欧の大思想家の思想に影響を受けた。しかし、朝章氏の戦後の文章を通じて見えてくるのは、戦後沖縄の歴史過程の中で政治や国際関係、経済状態などの現実に直面しつつ試行錯誤をくり返して真摯に答えを見出そうとしている彼の姿勢であった。そこに、わたしは「思想」を見出したのである。そして、他の戦後沖縄キリスト教界の指導者たちにも、韓国で戦後産み出された「民衆神学」という独自の神学に比較対象可能な神学があったのではないかと予測している。

このように、当事者からの聞き取りを通して、第二世代の沖縄キリスト教界の牧師たちがおこなった「研究」を少しでも発展させ、それらを超える水準に研究をもっていくことが、わたしの喫緊の課題である。

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2009年4月20日 (月)

女性市長、誕生

わたしの勤務先は、兵庫県の宝塚市にある。そう、あの‘TAKARAZUKA’や「タカラヅカ」やら、手塚治虫やらの宝塚市である。その宝塚市で19日、市長選挙があり、女性市長が誕生した。この宝塚市では、実は、二代続けて市長が汚職事件で逮捕されているのだ。今回は、その「出直し選挙」。宝塚市は人口22万人余り。しかし、新市長は25,000票あまりで当選している。つまり、人口の10分の1。

さて、この選挙結果について、いろいろ問題はあるにしろ、わたしはそれを一応肯定的に捉えている。しかし、一部には、愚にもつかないことで、まだ何もしていない新市長を批判する輩もいる。新市長はもともと社民党の国会議員であった。いわゆる「土井チルドレン」。それで、震災のことを持ち出して(宝塚市にも「震度7の帯」が走っていた)、その時の社民党の首相の対応が遅れたので、新市長を許さないという。これは、全くの揚げ足取りである。しからば、市長が汚職事件で二代続けて逮捕され他市の市民は、その市長を選んだのだから兼で姿勢を私物化してもいいと考えているのだろうか。そんなことはない。まぁ、こんな輩の書いていることをよく読んでいると(それほど暇ではないのだが…)、けっこくじぶんが住んでいる市の市長が女だから気にくわないのだったりするのだ。

宝塚はそれほど民度が低いところではないと思う。しかし、宝塚市をよくしようという意欲には欠けているのではないだろうかと思うことがある。市民のうち、その大半は大阪か神戸で働いていたり、買い物も両脇の日本有数の大都市で用を済ますことが多いと聞く。彼等住民・市民と入れ替わるように観光客(宝塚歌劇の観劇のためが大半。その他、清荒神・中山寺か、植木を買いに来る客か)が宝塚に来る。従って、女性は子育て等があれば街の将来に積極的にかかわろうとする動機はあるが、大阪・神戸で働いていてる男性市民は何かのきっかけがない限り、宝塚市をよくすることに関心が薄いと推察される。この一種の無関心がくだんの汚職事件の土壌を培養してきたのではあるまいか。

──山深い西谷地区。宝塚が「寳塚」と表記されていた頃からの宿場町小浜地区。阪神競馬場のある住宅地旧良元村、そして、山中に開けてニュータウン。歌劇の街・宝塚駅周辺。武庫川沿いには沖縄人の集住地区もあった。

宝塚市はこのように混ざらないいくつもの地域で成り立っていて、中心というものがない街。これは、この周辺のいくつかの衛星都市でもありがちな光景である。新市長の前途は多難だろうが、ひとまず見守ってゆきたいと思う。

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国際学会の学会誌

先日、投稿をしていた『東アジア宗教文化研究』の編集委員会から便りがあり、わたしが投稿した仲里朝章論、「米軍占領下における沖縄キリスト者の思想形成─1940年代後半の仲里朝章を中心に─」の創刊号掲載が決まった。同誌は昨年8月釜山で設立総会があった(わたしも出席して発表をした)「東アジア宗教文化学会」の学会誌である。

仲里朝章という、宗教研究はおろか、キリスト教研究の研究者でもほとんど知らない人物の思想形成と占領下での葛藤についてのわたしの研究に対して、意義を認めていただいたことは、素直に嬉しいと思った。書簡には「仲里という傑出したキリスト者が」とあったが、それには少し違和感があったが、それでもわたしが本稿で意図した「戦前・戦後の世界・日本・沖縄と向きあったかを通じて、現代の宗教のあり方を根底から問い直すものとなって」いるという編集委員会の評価は、わたしだけのものではなく、沖縄の、徳に米軍占領下で教会を形成してきた沖縄の教会とキリスト者に対してなされたものと了解している。

なお、3点ほど修正意見(勧告的意見ではなくて、参照的意見であったが)があったので、期限までにできるだけいいものに仕上げて、世界に送り出したいと思っている。

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2009年4月19日 (日)

笑顔のままで

──歴史の中の人物像は、いつも眉間にしわを寄せて、困ったり、怒ったり、嘆いたり?

わたしが描く歴史の中の登場人物は、果たして笑うことがあったのだろうかということを、ふと考えはじめた。きっかけは、最近の自分のこと。

現在、わたしは、ちっとも笑えない情況にある。毎日、毎日、気がつけば、顰めっ面で歩いている自分がいる。鏡を見たら、きっと自分ではないような感じがするだろう。それに、始終奥歯を噛み締めているので、なんだか頭まで痛くなってきた。腕組みも多い。さらに、溜め息も。さらに、さらに、弱り目に祟り目とはこのことで、数日前から右足が腫れ上がっている。木製のゴミ箱に思いっきりぶつけたからだが、幸い骨折には至っていなかったが、それにしても、満足に歩行もできないでいる。

そんなわたしだが、でも、きっといつかは腹の底から笑える日が来ると信じている。

きっと本当に大変な情況にある過去・現在の人々は、わたしの直面している困難の何十倍、何百倍もの困難に耐えているのだろう。そんな人々が、笑顔でいるとはにわかに信じられないことであるが、ときに、史料を読みながらほほえみや笑顔を感じることがないわけではない。

──苦しい人は、笑わない。

は、実に先入観だと思う。また、

──笑っている人は、幸せな人だ。

も、先入観だと思う。

どんな情況でも、笑顔でいられること。そのことが、とっても必要で、かつ、努力や気力が必要なこと。そんなことを、考えさせられる、今日この頃のわたしの苦境である。

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