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2006年3月19日 - 2006年3月25日

2006年3月21日 (火)

戦後沖縄キリスト教史の原点としての「石川市」

きょう、午前中文書を見せて頂いた仲里家を辞し、くだんのG藤牧師と合流し、北部の石川をめざした。石川は昨年4月まで「石川市」だったが、周辺の具志川市、勝連町、与那城町と合併して「うるま市」になった。「うるま」は沖縄=琉球の雅名、「珊瑚礁の島」の意味であるともいわれる。実はこの石川、米軍の占領初期にも別の意味で「市」といわれていた。正確には‘Ishikawa City’。

沖縄を占領した米軍は、避難民に混じって逃亡を図る日本兵、それに中国や朝鮮半島からやってきた人を隔離するために沖縄島各地に捕虜収容所をつくり、それらのひとつひとつを‘City’と読んだ。そして、この‘Ishikawa City’には一時期5万人を超える避難民が収容されていた。それだけではない、石川には沖縄各地から新沖縄の指導者にふさわしいと米軍が判断した地域の有力者が集められ、一時期占領沖縄の政治的中心になっていた。

その石川に150名余りの有力者が集められ、1945年8月15日(つまり本土で終戦の玉音放送が流されていた、まさにその同時日)に組織されたのが「沖縄諮詢会」(「沖縄諮詢委員会」とも)であった。

20060321

そこがつくづく沖縄だと思うのだが、沖縄では沖縄戦ですべてのものが破壊され尽くしたにもかかわらず、60年以上前にその諮詢会で使用された民家がいまだに使用されていて、人が住んでいることである。
場所は、http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=26.25.26.173&el=127.49.44.701&la=1&sc=2&skey=%A4%A6%A4%EB%A4%DE%BB%D4%C0%D0%C0%EE&prem=0&CE.x=255&CE.y=261
国道329号線沿いの琉球銀行の駐車場を通りぬけた向かい側。
わずかに文化財の看板が掛かっている。

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後ろ姿が、G藤牧師。右の写真は占領軍の諮詢会担当者と諮詢会の各部長勢揃いの記念撮
影である。が、この内、安谷屋正量商工部長と当山正堅文化部長は戦前からの旧日基の那覇教会の信徒であり、山城篤男社会部長はクリスチャンではなかったが、1950年代には沖縄キリスト教会の役員をつづけていた。

細かいことはわかっていないのもかかわらず、いろいろなところで強調されていることだが、当山文化部長は芸能人やキリスト教の伝道者を文化部の職員として採用し、俸給を与えて芸能活動や伝道活動をさせていた。

つまり、石川は諮詢会を生みだし、諮詢会は沖縄の戦後キリスト教にとての原点のひとつになった。

時間は前後するが、諮詢会の跡に行く前に宮森小学校にいった。場所は、
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=26.25.37.099&el=127.49.43.601&fi=1&skey=%b5%dc%bf%b9%be%ae%b3%d8%b9%bb&pref=&kind=
ここには、米軍をめぐる悲惨な事件の跡がある。1959年6月30日、 嘉手納

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基地所属のジェット戦闘機が訓練飛行中に事故をおこし午前10:30頃に授業中の旧石川市立宮森小学校に墜落炎上した。死者17名(うち児童11名)、負傷者210名(うち児童156名)、住家17棟と公民館1棟、小学校の3教室が全焼し、 住家8棟、小学校2教室を半焼するなどの大惨事になった。その大事故の慰霊碑がある。以前、沖縄県公文書館で1960年代の『沖縄タイムス』を閲覧していたときに、この事件の被害者・遺族が補償のために琉球政府に直接掛け合っていた記事があった。米軍は非を認めて補償を約束しているにもかかわらず、事故後約1年たっても一向に具体的な補償がないとのこと。関係者は必死に訴えているのに琉球政府も動こうとしていないようだった。

さて、この宮森小学校は戦後沖縄キリスト教にとって第二の原点である。収容所に入れられていたキリスト教徒たちはそれぞれの収容所のなかで集まりはじめていたが、石川では従軍牧師(チャプレン)と占領軍の物心両面の援助を得て木の実や森小学校を使用して礼拝が行われる。1945年末には宮森小学校の児童を使ってクリスマスの聖劇が行われたという。また、占領軍の関係者やチャプレン、それに諮詢会のメンバー(諮詢会の初代知事であった志喜屋孝信は広島高師の学生時代に無教会の集会に通っていた)が集まって礼拝が行われていたという。

これは、現在の日本キリスト教団石川教会のはじまりである。

沖縄に来るたびに史料の発掘・発見を行い、それを丁寧に検討し、フィールドワークをするたびに、新しい発見がある。今回の調査は明日の午前中で終わるが、また、実り多いものであった。

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仲里朝章による戦後復興の試み

午前中、仲里朝章氏のご遺族を訪ねた。また、新しい発見があった。仲里氏がまだ宜野座で校長をされていたとき、つまり、1940年代後半「北中頭」の適当なところに「母の村(または「母之村」)」を作って、農業を中心にいわゆる「戦争未亡人」の授産を図ろうとした文章が見つかった。

相違いえば、思い当たることがあった。かえって昔つくった新聞記事のデータベースにあたると、1952年10月に「在ペルー沖縄戦争未亡人救援会長」の援助で授産所と託児所の計画が持ち上がり(『琉球新報』1952.10.8)、わたしのメモには「戦災未亡人救済に/キリスト教連が保育所計画/在ペルー沖縄戦争未亡人救援会長からの援助は沖縄のキリスト教婦人会と沖縄キリスト教連盟理事長比嘉善雄氏の要請によるもの。救援金で安里八幡の敷地に保育所計画。沖縄キリスト教婦人会長山城ミサ子。在沖軍牧師夫人達も援助」(同、10.12)とある。

そして約一年以上たって、1954年初頭には「母の友会」という組織がキリスト教婦人会を中心に作られ、くだんの在ペルー「県系人」組織の募金約70万円で名古屋コーチンを購入、約50名で養鶏に従事しているとある(『沖縄タイムス』1954.1.7,1.11)。

きょう、仲里家で発見した史料で、この2つの出来事が結びついた。仲里朝章氏の残された手記を読んでいると、米軍や米国に頼らずに沖縄人によって戦後復興をしようとする強い意志がうかがえる。アイディアもある。しかし、資金はほとんどない。時間はかかったが資金の援助を沖縄人から得られるめどがつくと、それが実現していく。

またひとつ貴重な発見をした。そして、現地にいて、改めて史料を丹念に読みなおすと、これまでの疑問が氷解していくようだ。いつかこの1940年代の沖縄教会のことを書きたいと思っている。そのためには、最低限、もうひとりの重要人物である当山正堅の史料を発掘する必要がある。とにかくがんばる。

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2006年3月20日 (月)

会いに行く。

200603202夕方、O先生に会いに沖縄キリスト教学院大学(通称「キリ短」)を訪れた。

97番(琉大線)のバスに乗り、キリスト教短大入口というバス停で降りた。しばらく坂を登っていると、二機の戦闘機がかなり低空を飛んでいく。時刻は午後5時前。きっと太平洋上での演習を終えて、嘉手納基地に帰るのであろう。一昨年、2004年8月13日沖縄国際大学に普天間基地所属のヘリが墜落した。キリ短は西原町翁長の丘の上にある。回りに米軍基地はなく、農村というか、都市近郊のベッドタウンといったこころだが、しかし、沖国大と同じようなことが起きないとも限らない。こちらの方は戦闘機なので、被害は沖国大の比ではないだろうが………。

さて、キリ短は一昨年から4年生の学院大学を併設している。
http://www.ocjc.ac.jp/index.html
この学院は沖縄がまだ米軍の占領下にあった1957年4月9日に、沖縄キリスト教団首里教会内に創設された。現在の位置に移転したのは1989年のことだ。

初代学長は仲里朝章。彼の名前は学院のチャペルの名に残されている。図書館に名前を刻むのはウォルター・クライダー。IBC派遣の宣教師である。明日は、その仲里朝章氏の遺族に会いに行く。

仲里朝章氏には、お会いしたことはないが、志の高い、大きい人である。会ったことはないが、このキリ短に来て、チャペル前の彼の名前を見るたびに、彼に会いに来たような気持ちになる。不思議なことです。

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2006年3月19日 (日)

時間がない。

きょう、午後、久しぶりに沖縄に調査のため来た。

さっそく情報収集のために友人で牧師で、社会福祉施設の施設長で、大学院生のG藤氏に会って、日本キリスト教団沖縄教区のことを聞いた。教区について、わたしは、もう、既に、じゅうぶん深入りをしているので、気にかかることは多かった。

しかし、一番ショックだったのは、今年の1月に、以前聞き取りをした那覇中央教会のO氏が亡くなったことを知ったことだ。O氏は実に温厚な人柄だったが、沖縄戦では北部に疎開しており、その後、戦後の沖縄の沖縄のキリスト教の出発にまさにかかわった人物であった。もっと話を聞きたかった。以前会ったとき、仕事も辞めてこれから時間があるので、一度家に来てゆっくり話して行きなさいといわれていたのに………。昨夏訪れたとき。多忙をいいわけに会いに行かなかった。「そのうちに………」と、思っていた。 まさに痛恨の極みです。

昨年には沖縄諮詢会の文化部長をしていた当山正堅氏のご子息が亡くなられた。まだ、一度もお会いしたことはなかったが、これも本当に痛恨の出来事であった。

時間がない。そして、O氏の手元にあるだろう資料が破棄・散逸するのも恐れています。

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