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2006年5月7日 - 2006年5月13日

2006年5月10日 (水)

転轍—1960年代の沖縄地域社会とキリスト教—

(※ 「キリスト教史学会」第56回大会(2005.9.19、於関東学院関内メディアセンター)における研究発表の要旨です。以後、順次改訂の予定あり。また、次回発行の『キリスト教史学』に掲載予定のものをベースにしています。時間があったら、)

 発表者は、これまで一九四五年から五〇年代の米軍占領下沖縄のキリスト教について論じてきた。本発表は、引き続き六〇年代の研究を新たに開始するための方法と研究課題を論じたものである。
 一九六〇年代の沖縄は、ベトナム戦争の泥沼化による占領体制の変質と、反基地闘争や「本土復帰」運動の高揚に直面していった。沖縄の諸教会は、その激動のただ中にあって、米国のキリスト教への依存からの脱却と日本教団への「合同」を模索しはじめる。
 発表者は、沖縄キリスト教史の六〇年代を論じるにあたり「転轍」という方法を新たに提起した。「転轍」とは、軌道を変えることである。この方法を採ることで、沖縄キリスト教史をより立体的に論じることがはじめて可能となると発表者は考えている。その理由は以下の通りである。
 六〇年代の沖縄キリスト教史のキーワードは、“変容”と“ズレ”である。“変容”とは、国際関係を含めた複雑で輻輳した連鎖反応により現状が大きく変化することである。現状を変えること、つまり「転轍」にはある種の「力」が必要であるが、その“変容”の方向性はいくつもの「力」の相互作用としての「合力」で決定されていく。これが「転轍の力学」である。
 そして、それが働く場では現状を変更しようとする力、させない力、また、傍観する力が複雑に変化しつつ離合することで時流が形成されていく。そして、それぞれの「力」を詳細に分析することでその時流に存在した“ズレ”を確認することができる。
 この「転轍」という方法を用いて六〇年代のキリスト教史を概観すると、以下の解決すべき課題が発見できる。
 一九五七年三月、沖縄キリスト教会は沖縄キリスト教団(以下「沖縄教団」)となる。本報告では、この年をもって沖縄キリスト教史の「六〇年代」が実質的にはじまったものとする。この年、沖縄教団機関誌『道標』(のち『道しるべ』)が発刊され、沖縄キリスト教学院が設立された。また、沖縄に伝道中の諸教派による沖縄キリスト教協議会が発足したのもこの年である。ところで、この時期、沖縄は「いつわりの繁栄(新崎盛輝)」の時代を迎えていた。米軍は占領下における沖縄人受益者層の積極的育成に努め、経済的繁栄の幻想をもって政治的矛盾を隠蔽しようとしたのである。一方、沖縄教団は財政的に安定し、久米島・西表島など離島への開拓伝道が行われ、宮古教会が教団に編入された。つまり、沖縄教団が上記の受益者層にあたるのか否かが今後の研究課題となる。
 また、この時期、日本教団と沖縄教団との人的交流が盛んになってくる。以前からの若者の「日留(日本への留学)」だけではなく、沖縄の教職者・信徒代表者は日本や海外での会議や研究会等に積極的に参加するようになった。また、日本からは伝道者や講師が来琉し、沖縄キャラバンと称される学生団体や学校、各個教会・教区単位での来訪者も相次いだ。来訪者たちは帰日後『教団新報』や『福音と世界』等々に手記や所感を寄稿し、それが日本の信徒にも読まれるようになる。こうして、人を介して広まっていった沖縄の教会・キリスト教情報が果たして正確なものであったかどうか、また、このような日本教団の動きが日米両政府の「沖縄返還」交渉と軌を一にするものであるかどうかもも今後の研究課題となる。
 ところが、一九六六年、沖縄教団は決定的な転機を迎える。これが六〇年代における第一の「転轍」である。この年、第一七回日本教団夏期教師講習会において沖縄より招待された山里勝一牧師によっていわゆる「沖縄問題」が提起された。また、一一月には平良修・沖縄キリスト教短期大学学長(当時)による「アンガー高等弁務官就任式における祈祷」事件がおこっている。これによって沖縄教団の米占領体制に対する旗幟は鮮明となり、沖縄教団では「本土復帰」と歩調を合わせるように日本教団との「合同」へと傾斜した。ところが、日本教団では、沖縄教団とはまったく違う動機で沖縄教団との「合同」が模索されていたのである。この時期、日本教団では「体質改善」、「伝道圏伝道」、「戦責告白」、韓国・台湾の諸教会との関係改善等々が行われていたが、それと並行して沖縄教団との合同が論じられている。
 先の「山里提起」や「平良祈祷」事件、それに日本教団での「合同」論議の推移など、事実を丁寧に追っていく必要はもちろんある。しかし、沖・日両教団はまったく違うといえば余りにも似ているし、同じといえばずいぶん違っている。その微妙な関係性をこれから解明していきたい。
 さて、両教団のその後の歩みはまさに互いに分かり合おうとする意思をもち「共生」を願いつつも、実際にはその意思を放棄しながら単なる「共棲」に陥って行く過程であったのではないか。それを象徴するのが一九七三年の第三回「沖縄問題セミナー」中止である。これをもって沖縄教団にとっての「一九六〇年代」は終わると発表者は考えている。これが第二の「転轍」である。この時期、日本教団は沖縄教団と同様に大きく変容してきたが、双方の変容の様態や速度派にずいぶん“ズレ”があった。また、双方の「転轍」のタイミングは明らかにずれていた。こうして、おたがいに理解しようと積極的に努力しているにもかかわらず、互いに理解されないというもどかしさと“ミゾ”だけが深くなり、「復帰」や「合同」の熱や期待は急速に冷めていった。

(※ 以上は、次回発行の『キリスト教史学』に掲載予定のものをベースにしています。時間があったらこの場で原稿化していきたいと思いますので、乞うご期待。)

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