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2006年6月25日 - 2006年7月1日

2006年6月30日 (金)

大丈夫か、日本基督教団

昨日のK女学院での非常勤の帰り、同大学の図書館で久しぶりに『教団新報』を閲覧した。日本基督教団が発行している機関誌だ(隔週刊?)。№4598(2006.3.18)〜№4605(2006.6.24)。ちょうど各教区の教区総会の記事が順次載っている時期だった。

大学(某国立大学。キリスト教と関係なし)時代の知り合いで現在牧師をしている友人が某教区の教団総会議員に選出されていたり(出世したもんだ。皮肉ではありません。わたしは、ずっとあなたの言動を見ています)、わたしに授洗した牧師がC県の教会を辞してF県の教会に移っていたり(これは以前から知っていた)、その牧師のお連れ合いのお父様(超有名な牧師)が亡くなっていたこと(とても驚きました)などを知った。

普段、教会を離れていると、こんな情報にもとってもうとくなる。というか、信徒は教団中央の動静情報からだいぶん、もともと疎外されているが………。

それで、気になったことがいくつかあった。このブログや自分の研究に関係のある沖縄関係のことは今回はちょっとおくことにする。

実はすでに在沖縄の友人「いなむどぅち」さんの[mixi]日記でそんなことがあったことは知っていたのだが、そして、そのことを知りたいと思って昨日は図書館に行ったのだが、やはり、『教団新報』の記事を見ると、考え込んでしまった。

その一。東海教区の「石田元会計(※)」による¥69,305,134横領「事件」(『教団新報』№4604、2006.6.10)。

※ もうすでに『教団新報』で公開されているので、その範囲で殊更に匿名にすることはしません。以下同じ。

原文では、縦書き漢字だったので金額がよく分からなかったのだが、要するに教区の会計が約7,000万円の公金を横領し、その金額を教区総会で「損金」として処理することが総会で議論されたという。いや、それしか議論されなかったのではないだろうか、記事を読んで判断する限り。そんなことでいいのか、東海教区。

それにしても7,000万円。何に使ったのだろう。100万円とか200万円だったら、家族が病気でしかたがなく、とか想像つくのだが。少なくとも、東海教区の当事者たちには事実関係を明らかにすべきだと思うのだが、それがなされているのだろうか。

そして、教区総会の閉会祈祷で山本将信副議長は「元会計のために執り成しの祈りをした」とあるが、この副議長は本気なのだろうか。やはり、教区の副議長ともなると上しか向いていないのだろうか。

同じ『教団新報』に兵庫教区総会の記事もあって、同教区クリスチャン・センターの「嘱託職員による会計不正流用問題」の記事もあった。教会では、一般社会では犯罪であるこことをやってしまっても、「この世の法・秩序と教会の法・秩序のどちらが優先するか」ということに議論があり、逡巡もあって、結局「教会の法・秩序」が優越する。熊本のとあるでかい教会のでセクハラ事件とその後処理の問題もそうである。それはひとつの考え方だろうが、実は教団ではそれが一貫していない。

かつて、1970年3月、東京神学大学(教団立の神学校)は学生紛争に対して警察機動隊の導入を容認した。つまり、神学校の教授会は学生を国家権力に売り渡したのだ。教区の役員をしていたり、大教会の牧師先生であったら訴追されず、神学生なら警察に逮捕させて問題を解決する。この点については、先の「いなむどぅち」さんも日記で憤っておられたが、まったく同感である。

それにして、件の『教団新報』の冒頭の編集者によるコメントに次のような行がある。

東海教区で起こった横領事件を報告しなければならない。兵庫教区総会の報告の不正流用問題に触れている。…(中略)…ことがらには背景もあるし、軽々な論評は避けたいが、教団が『死の陰の谷を行く」ような重大な危機にあることは、誰も否定できないだろう。

なんと呑気なことだろうと思う。わたしは、教会での出来事はなんでも警察に委ねていいと思っているのではない。むしろその反対である。問題は、教区や教団の指導者は聖書やイエスを持ち出して、責任逃れをして、“仲間”を免責しようとしているのではないかと思うからだ。

本当に、大丈夫か、日本基督教団!!!!!!!!!!!

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2006年6月29日 (木)

隣人とは誰か

きょうは、週に一度のK女学院の非常勤の日です。ここでは、キリスト教学担当の講師は半期に一度午前中のチャペルアワーで奨励をすることが義務づけられています。きょうは、その当番の日でした。以下の、本日のわたしの奨励の内容を掲載致します。

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ルカによる福音書 10章29節
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』といった」。

強盗に襲われて瀕死の重傷を負っている人を手当てし、宿まで送り届ける。そればかりか、宿屋の主人にそのけが人の宿泊や治療に必要なお金をわたし、「足りなかったら帰りに届ける」といって立ち去る。そんなことは、なかなかできるものではありません。しかし、聖書のこの個所では、強盗やけが人を見捨てて通り過ぎた司祭やレビ人ではなく、このような「良いサマリア人」こそがそのけが人の「隣人」になったのであり、キリストは「行って、あなたも同じようにしなさい」(同37節)というのです。律法の専門家といわれる人は自分が愛すべき隣人は誰かと問うているのに、イエスは「あなたが誰かの隣人になることのほうが重要です」と答えているのです。

この物語は、いくつもの解釈が可能です。この物語をキリスト教の「隣人愛」を象徴として理解することもできます。また、このサマリア人はユダヤの人々からは「異邦人」であると見られていたので、異邦人・異民族でも「分け隔てなく」、平等に、親切にして、誰かの「隣人」になりなさいとイエスがすすめているという風にも理解できます。このほか、このサマリア人のように人を最後まで助けることができないのなら安易にその人に手を貸すべきではない、ともとれます。

教会の礼拝や聖書研究会では、この個所がしばしば採り上げられます。そして、この話を聞いたあとしばらくは知らない人に親切にしようと思うのですが、なかなか長続きしません。それから、自分がまだキリスト教の信者ではなかったときには、この話を聞いて、キリスト教の信者はみんなこんな風に振る舞っているだと思っていたので、みんな偉いんだなぁと思っていました。しかし、いざ自分がキリスト教の信者になってみると、それがなかなかできないので罪悪感ばかりが募っています。

ですが、わたしが現在の研究をはじめてからこの「よいサマリア人」のたとえ話に
ついて少し違った感想をもつようになりました。わたしは、いま、沖縄がまだ米軍の占領下にあった頃のキリスト教の歴史を研究しています。そのためにしばしば沖縄に訪れるのですが、わたしがそのように沖縄を訪れるようになった1990年代の半ばから、沖縄ではこの「隣人」という言葉がたくさん使われるようになりました。ちょうど、米兵による凶悪な事件が立て続けておこっていて、それに対する沖縄の人たちの反発が高まった頃のことでした。

その頃、沖縄にいる米軍の司令部は米兵に対して「良き隣人」であるようにという命令を発しています。つまり、司令部は米兵に沖縄人に対して親切に、紳士的に接し、積極的にヴォランティアにも参加して、その人たちの役に立つような存在になるようにということを命じたのです。きっと、米軍は、これ以上沖縄にいる米軍に対する評判が悪くなれば、沖縄にいることができなくなることを恐れていたのでしょう。このようなやりかたは、米軍のなかでは「良き隣人」政策とか「良き隣人」作戦とか呼ばれているそうで、米軍が駐留している韓国でも、イランでも実行されているようです。さて、そう命令する方とっても、命令される米兵にとっても、「良き隣人」、‘good neighbor’という言葉は、きょう一緒に読んだ聖書の「良いサマリア人」「良きサマリア人」のたとえ話が念頭にあったことは間違いないと思います。

沖縄にいる米兵の多数は沖縄に対して特別な好奇心を持っていますし、沖縄を離れたあとも彼らの沖縄での体験は特別なものになっているようです。それから、沖縄で聞き取り調査をしていても米軍の駐留そのものには厳しい意見が多いのですが、米兵個人に対しては沖縄の人たちのなかにはいい印象を持っている方もいるようです。だから、ある意味で、この「良き隣人」作戦が行われる前もあとも、米兵は沖縄人にとってある意味で「良き隣人」だったのでしょう。

しかし、それでもなお、わたしはこの「良き隣人」という言葉に強い違和感を覚えています。そして、その違和感がどこから来るのか、しだいにわかってきたような気がします。

この強盗に襲われた人を助けて、最後まで面倒を見ようとしたものが、実はその強盗本人だとしたら、助けられた人はどう思うのだろうか。自分を助けたことで強盗を許すことができるのだろうか。皆さんは、どう思われるでしょうか。答えはひとつではありません。いくつもあると思います。

右手に武器を持ちながら、左手で人を助け起こす「隣人」であっていいのか。人を殴り倒して、戻ってきて、その人を助け起こすことで、殴り倒した罪や殴り倒された人の痛みがなくなるのか。助ける人間になる以前に、傷つける人間には決してなってはいけないのではないか。左手で「隣人」を助ける前に自分の右手でしたことを正さなければいけない。ましてや、左手で人を助け起こす行為を、自分が右手で人を殴っていることを隠すために使ってはならない。こうして人を助けるという行為を目的ではなく、何か別の目的に向かう手段として利用すること。それに、私は、強い違和感を持ったのです。

さて、このたとえ話の登場人物のうち、自分はどの人物なのでしょうか。そして、なにより、イエス様はどの人物とご自分を重ねておられるのでしょうか。日頃、ユダヤの人たちからは蔑まれていたのに、けが人を徹底的に助けたサマリア人なのでしょうか。それとも、強盗に襲われて傷ついた人なのでしょうか。
聖書はとても奥深い読み物です。そして、読み手に応える書物です。さまざまな読み方ができるものです。深く問えばその分深く応えてくれるし、適当な気分で求めれば適当な答えしか帰ってこないような気がします。

だれかの「隣人」になるということは容易なことではないように思います。しかし、こうしていろいろ想像しながら聖書を読んでいくと、みなさんなら、きっと、自分がどうすればだれかの「隣人」になれか、考えて頂けるとわたしは思っています。

それでは、それぞれがどうすれば誰かの隣人になれるのか、考えながら、それぞれのことばでしばらくお祈りをいたしましょう。

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