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2006年8月6日 - 2006年8月12日

2006年8月12日 (土)

1945年8月12日の礼拝

1945年の8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下された。そのことは、よく知られている。8月6日は月曜日。つまり、前日の5日は聖日礼拝が行われていた。9日は木曜日。ということは、12日は被爆後はじめてのの聖日ということになる。そして、15日は終戦。ということは、この12日の聖日は戦中最後のそれということになる。

1945年8月12日の聖日、広島や長崎で礼拝が果たして守られたのか否か。これは、被爆や戦争がその社会に与えた影響を考える上でけっこう重要なことではないかとわたしは考えている。また、キリスト教や教会、信徒とは何かを知るために、このような極限状況での事実はなんらかの示唆を与えると思われる。

手元にはあまり資料がないのだが、日本基督教団広島教会『広島教会 百二十年史』(同教会、2004年、以下『百二十年史』)、同『広島教会創立120周年記念誌 あの日・あの時〜被爆教会が語る被爆証言 戦争体験 平和への思い〜』(同教会、2003年、以下『あの日・あの時』)を見てみた。

それによると、当時広島市・鷹野橋にあった教会堂は同年5月頃から徴用され市の警防団が使用していたので、礼拝は牧師館の右折までささやかに守られていた。8月5日の聖日礼拝は牧師と牧師夫人を含めて5名の礼拝だったという(四竃一郎「あの日・広島・私」(『あの日・あの時』p2に所収=『福音と世界』1952年8月号の再掲))。米軍の空襲をまぬがれていた広島でも信徒たちは次々応召し、あるいは、疎開しており、信徒はすでに四散していたのである。週報はあったのだろうか。と思ったが、戦時下でのこと、物資に余裕はなかったので発行されていないのではないかと推測される。だから、被爆以前に、すでに事実上教会は自らの構成員の判断と決断で機能を停止していたと思われる。

8月6日、広島教会の四竃一郎牧師は広島市郊外の尾長にある逓信講習所で精神講話をしていたという。これも、一種の動員であろう。四竃牧師は夫人と長男にその日のうちに再会し、5日後に再会した長女(同年9月4日、原爆症により死去)と共に、先に二男、三男が疎開していた北備後にクリスチャン姉妹宅に批判した。被爆5日後、つまり8月11日土曜日のことであった。だから、翌12日の日曜日には広島教会としての礼拝は粉われていないということになる。

四竃牧師は、疎開先の盲学校の教師をしながら、農家の手伝いをして1年半ほどその地で過ごしていたという。その間、その疎開地で地元の信徒や求道者を集めて礼拝を守りつつ、

月に二回必ず広島に出て、焼き払われた砂漠のような市内を会員の消息を求めて歩き回った。私は永眠した二十四名の会員と、その家族である老人や子供を加えると四十名を越す人々の葬いを何一つできなかったことを、実に申し訳ないことだと思っている。自分の弱った肉体に鞭うちながら、会員宅を泊まり歩いて記念会のような会合を守った。これが牧師としてのせめてもの慰めでもあった。そして、教会の再建説を祈りつつ、ついに市外五日市の会員宅で七人の集まりをもって、聖日礼拝を再開できたのは翌年のペンテコステの前の日曜からであった(四竃前掲分、p.7)。

つまり、1945年8月5日以来広島教会は活動を停止し、その9ヶ月後、1976年5月12日日曜日午後10時、広島市外五日市町の玉垣作一長老宅で行われた聖日礼拝により活動を再開したことになる。そして、この間は礼拝はおろか、会員の葬儀さえも行えない状態が続いていたことになる。

もちろん、これは広島教会個別の事例であって、他の広島・長崎の諸教会では被爆後も礼拝が続けられていたのかもしれない。

広島教会出身の早水巌牧師は当時白島伝道所(現広島観音町教会)を担任していたが、彼は次のような手記を残している。

原爆の日以来お天気続き、十二日聖日の朝も快晴であった。午前十時、強い夏の太陽の下、白島教会の焼けあとの一角にひざまづいて礼拝を始めた。集まったのは三人、私と沢田姉と大谷姉、大谷姉の家も全焼だったが、小屋がけして白島に残っておられた。焼けあと、野天で三人が白島教会最後の礼拝を守った。私はこのために田総から百二十キロ離れた広島に引き返してきたのである。
…(中略)…
殊に、当分は礼拝を中断せねばならない事情にあったので、これを最後の礼拝としたい願いからである。礼拝だけはどんな弾圧にも貫こう、戦争にもつぶされてはならぬ、まして自分の都合によって左右されてはならぬと自戒してきたからである(『百二十年史』pp.86-87)。

実際にはこの礼拝に出席していたのは4名出会ったというが(『百二十年史』p87.)、広島で1945年8月12日に礼拝は行われていた。しかし、これは、この教会最後の礼拝であった。

ここまで書いて、広島教会の「百二十周年」のことを思う。この120年の間に戦争中、被爆以後1年半の中断が含まれている。この中断の前と後の教会は同一の教会といえるのだろうか。同じであるのであれば、それは、同じ牧師が引き続き牧会をしたからだろうか。それとも教会堂が同じ土地に再建されたからだろうか。それとも、戦前の信徒が帰ってきて教会を再開したからだろうか。それとも、………。

こうして、礼拝や週報等々、身近なことから、戦争とキリスト教の関係を考えると見えてくるものがいくつもある。戦争は、教会を形成する信仰共同体を解体していく。戦争は、教会の伝道基盤である地域社会を破壊する。そして、8月5日の礼拝、8月12の礼拝、それから、8月19日の礼拝で何が語られたのだろうか。

そして、沖縄の教会はどうなのだろう(これは、ある程度把握しているが)。世界の教会、例えば、ドイツの教会、フランスの教会、韓国や台湾の教会波動だったのだろうか。空論や理想論で、キリスト教と戦争のかかわりを語ることはできるだろう。しかし、そこで語られるキリスト教像や戦争像とこうして身近で細かな事実をひとつひとつ積み上げていって語られるそれぞれの像とは、きっと大きくずれているのだろう。

わたしたちキリスト者が来るべき戦争や核戦争を防がなければならないのは、どうしてなのか。どうすればそうすることができるのか。それらの答えは、きっとこのような歴史の細部にあると、わたしは思う。

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