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2006年8月13日 - 2006年8月19日

2006年8月19日 (土)

さまざまな「国境」を“根室”から考えてみる。

数年前まで沖縄の調査と平行して北海道の遠軽という街のある施設で史料調査をしていた。そのため、年に2,3回北海道を訪ね、毎年あわせて1か月程度滞在していた。遠軽への往復はなるべく同一のルートを通らないようにしたので、道内のさまざまなところに立ち寄った。道南、道央、道北、道東………。特に道東はよくまわった。ある時は鉄道で、またあるときはバスで。

まわっているうちにこの国の北の辺境である北海道の歴史や地域性について次第に興味がわいてきた。時間があれば各地の図書館をまわり、博物館に足を運んだ。

根室はそのなかでも最も印象の深かった地である。いまから10年ぐらい前だろうか、8月のはじめ根室駅近くのホテルに2泊したことがある。8月だというのにとっても寒く、スーパーマーケットを探して長袖の上着を買った。この根室という街には、根室市のHP(http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/dcitynd.nsf/doc/2C702E51C73F8338492571BF0000371D?OpenDocument )によると、1882年からわずか4年の間ではあったが、「根室県」がおかれていた。この根室県は現在の道東と十勝地方あたりを管轄としていたが、その他に千島もそれ含まれていた。その後この根室は千島と北海道・内地の中継地になる。こうした歴史の蓄積の結果、根室の街は、のちに北海道庁がおかれる札幌や近世から日本人が定住していた釧路、監獄が開かれた網走・標茶などとは違った雰囲気の街になっている。

その根室で、今月16日未明、根室の漁船が拿捕され、銃撃を受ける事件があった。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060816k0000e040018000c.html
この不幸な事件が、わたしのその北の(正しくは東の)国境での体験を甦らせた。それは、まさに国境をある種の皮膚感覚を伴って認識し、体験した出来事であった。

その日は釧路を早朝に発って根室に午前中に到着した。そしてホテルに荷物を置くと、バスで納沙布岬を目指した。バスは太平洋岸を行く。寒々とした風景のなかに、時に神社の鳥居や開拓記念碑が時折見える。乗客はまばらだ。ところが、納沙布岬に近付くにしたがって、沿道の様相が次第に変わってきた。小銃を構えた戦闘服姿の人形が数100mおきに沿道に立っている。その間には、北方領土返還を叫ぶ政治的スローガンが至る所に立てられている。その禍々しい兵士の小銃は一体誰に向けられているというのだ。そのナショナリスティックで、戦闘的で、扇情的なスローガンを繰り返しみせられるうちに、息苦しさを感じ始めていた。

そんな複雑な感情を抱えたまま納沙布岬に到着した。しばらく、燈台や「望郷の家」などを見て回ったが、着くなり気になっていた高塔に登ってみた。塔の名前は「平和の塔」。高さ97m。そして、塔の名称の前には「笹川記念」の文字が………。そう、あの笹川良一の日本船舶振興会(通称日本財団)(「日本船舶振興会の笹川良一が」ではなく)が建てた塔である。入場料を払って塔の最上階まで登った。

その日は曇っていたのだが、かろうじて歯舞群島と色丹島は見ることができた。まさに国境の風景であった。そのどこに国境があるかは見過ごせない問題ではある。しかし、それ以上にわたしの印象に残っているのは、その岬に到達するまでの道々に見た風景であった。そこでわたしの脳裏に刻まれた想念は、国境はすでにここから築かれつつあり、国境が近いことに伴う一種の緊張感がすでにそこからはじまっているということであった。

翌日、野付半島からは遙かに国後島が霞んで見えた。しかし、そこには、国境(これがないと主張する者もいるが、実質的にはそこから国後に続く根室海峡のどこかにそれがある)の緊張感は全く感じられなかった。別の機会に羅臼によった時、食堂のテレビでは羅臼の漁船がロシアに拿捕されたというニュースを伝えていた。その場にいた漁師や食堂の主人はあからさまに敵意と不快感を表していたが、それは国境そのものに対するそれではなくて、要するにやり方に対する不満の鬱積であったのではなかったか。北の国境の街・稚内にも二度ほど行ったことがある。二度目にホテルで紹介された場末の居酒屋に入った時のこと、地元の商売人らしき男性が店の主人としゃべりながら何度も何度も「ロ○ケ、ロス○」ということばを口にしていた。しかし、聞くとはなしに聞いていた話の内容はといえば、単に仕事上ロシア人に出し抜かれ、一杯喰わされたといういであった。そこには国境の緊張感などなく、ロシア人との間の交流や定期航路という形でしか可視化されていなかった。しかし、野寒布(ノシャップ)岬(稚内市街地の北西にあり、利尻・礼文島をのぞむ)を訪れた時、観光バスガイドが岬後方の丘の上にある自衛隊のレーダーをさして「1983年9月1日の「大韓航空機撃墜事件」の際にこのレーダーが………」と話し始めた時、こうした言説のなかで国境の緊張感が捏造・再生産されていくのであって、それは人間の想念でしかないことを思い知った。同時に、宗谷岬からは2度とも北方四〇㎞先のサハリンをはっきり見ることができたが、そこでもその事件の際に遺品が流れ着き、それを地元の人が心を込めて回収したということがガイドの口から語られたが、実際に見る風景はそこにあるといわれている国境で隔てられた“こっち側”と“あっち側”の間に音もなく静かに介入していく流氷の白い影ばかりであった。

国境はどこにあるのだろうか。そして、国境はどのようにして引かれたのであろうか。先の漁船銃撃事件の報道を見聞きしながら我が政府やその尻馬に乗っている評論家、少なくとも当事者性を全く有していない東京の通行人たちが声高にさけぶロシア政府への非難と「北方領土」に対するナショナリスティックな主張。それらと銃撃され死亡した若者の肉親や同僚、同級生たちの主張との間に微かではあるが明白な差異をわたしはしっかりと感じた。それは、当事者性から来る冷静さとナショナリズムという虚偽意識(イデオロギー)に依存する者からは一種の「諦観」としか受け取ることのできない優れて現実的で実利的な発想であると思う。そして、彼らこそ実際の国境の存在を折にふれ感じている。

その発想こそ、「辺境の思考」とも呼べるものではなかったか。そう考えて、もう一方の国境を有する沖縄はこの事件をどうとらえているかを知りたくなって、以下の記事を読んでみた。

『琉球新報』:http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-16394-storytopic-11.html
『沖縄タイムス』:http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20060817.html#no_2

沖縄には3つの国境がある。ひとつは与那国島と台湾の間にあり、尖閣諸島をめぐって論じられ、東シナ海の海底資源をめぐって議論されているそれである(海底資源の問題は、正確には「国境」ではなく「排他的経済水域(EEZ)」と呼ばれるものであるが)。また、もうひとつの国境は沖縄島のなかにある。それを象徴するのは有刺鉄線で防御されたフェンスとその内側に植わっている夾竹桃である。いずれも日本政府が国民の税金で外国を守るために作った。そして、それは沖縄各地にまるで島のように存在する米軍基地・関連施設(住宅や病院、大学まで含む)を取り囲むように設定された国境線である。その国境線と外側(もしくは内側)には狂気と冷静により支配されている異様な空間が国家によって存在させられている。そして、3つ目の国境は以前にも沖縄を再占領していると指摘した一方の当事者である日本と沖縄、日本政府と沖縄、日本人と沖縄人との間にあるインビジブルであっても、決してバーチャルなものではないリアルな国境である。

与那国近海でも台湾当局との間に漁業権の見解の相違があり、軍事演習も漁場の近くで行われている。が、本土ではそれがほとんど報じられることはない。それは、人が死んでいないからでは決してない。しかし、尖閣諸島や島根県(沖)の竹島をめぐっては事情が違ってくる。ナショナリスティックな主張があればそれは煽られて拡大していく。しかし、実際に利害関係のある丸腰の漁民を守るために国家・政府はねばり強く交渉し、説得し、対話を求めて欲しいという主張はどういうわけか日本と沖縄の間に現に存在している「国境」を越えると失速してしまう。

また、沖縄のなかにある《外国=米軍基地》から「国境」を越えて“出撃”し、「国境」の外側(内側)で犯罪行為を行う兵士がいる。彼らは法律上国境を侵犯したわけではないが、しかし、政治的越境をして不法行為に及んでいるのだ。そして、人命や財産が毀損されている。それにもかかわらず、政府やマスコミだけではなく、国境の外側の「日本」は、今回の根室の一見では憤慨するが、沖縄のそれには全く関心がない。

先の第二、第三の「国境」は、実は複雑な構造で互いに連携し、絡み合っている。が、それは、巧みに隠蔽されていて、容易に可視化されない。一方根室の「国境」はそれ自体たぶんに虚偽意識によって構築されたものでありながら、あるいはそうであるからこそ意図的に顕在化し、可視化されていく。

国境は、わたしの外側にあるのではない。むしろ、それは我が身のうちにある。常に存在している。そのことに気がつくことは、とてもひとりの人命が失われることと交換できることではない。しかし、そのことにまず自分のなかでそのことを意識化することからはじめなければならないのではないか。

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2006年8月17日 (木)

9月、沖縄へ

大学の教員をはじめてからずっとある夢を持っていました。それは、いつか自分のゼミ学生を連れて・フィールドワーク・見学旅行に行くことでした。これまで、日帰りで神戸(旧居留地や南京町、北野異人館)や大阪・大正区などをフィールドワークしたことはありました。しかし、宿泊を伴う遠出はできずにいました(理由はいろいろあります)。それが、今度かないます。

参加者は、我がゼミの9名(含わたし)です。本当は全員(15名)で行きたかったのですが、費用の関係で残念ながら約半数です。また、参加者の内5名は留学生(中国(大陸)2名、韓国3名)です。つまり過半数。これは、我がゼミ全体の比率とほぼ同じ。

9月4日那覇11時40着、9月7日那覇18時25分発で、3泊4日の予定です。 日程は、一応次のように考えています。

  • 9月4日:ホテルに荷物をいて昼食後、首里城等を見学。
  • 9月5日:中部、北部の米軍基地、街、城(グスク)等を見学。
  • 9月6日:自由行動。
  • 9月7日:南部戦跡を見学後、直接空港へ。

今度21日に学生と話し合って、最終的に行き先を決めたいと思っています。

それにしても、我が学生たち。一人のリーダーをー(4回生)中心にして、自分たちで旅行をつくろうとしています。終わったら、思いっきり褒めたいと思います。

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2006年8月16日 (水)

歴史の「事実」について

昨日朝の小泉純一郎首相の靖国神社参拝前後から事の可否のついて議論が喧しい。その上、同じ自由民主党に属しながら首相の敗戦の日の靖国神社参拝に批判的な言論を展開していた加藤紘一衆議院議員の山形の自宅が放火と見られる火災で全焼した。詳細は分からないが、この事件の一報を聞いたときに加藤氏の言論と事件を結びつけて考えた人は多かったのではなろうか。そして、その中のさらに多くは世論の右傾化に伴ってテロが横行し、ファシズム化していく予感を抱いているのではないだろうか。

今回の一連の事件とそれを取りまく言論の歴史的評価はもう少しじっくりとしなければならないと思っている。しかし、わたしは自分のキリスト者としての立場、つまり、人が神となり、それを政治的に利用することを使命とし、可能たらしめてきた靖国神社の存在そのものを否定するという立場を引き続き堅持したいと思っている。この決意を、今回の出来事で新たにした。

さて、夜のNHKテレビの「日本の、これから〜アジアの中の日本〜」(19:30〜8:45,10:00〜11:30)でのこと。参加者の若者の一人が次のような発言をしていた。その若者、彼は大学生のように思われた。

戦前の政治家もその当時国民が選んだんだから、その当時の国民にも責任がある。だから戦争責任をA級戦犯に押しつけるのは、当時の民主主義を自ら否定することになる。

わたしは一瞬彼が何を言おうとしているのかわからなかった。おそらく、出席していた左右のコメンテーターたちの大半もわたしと同じではなかったか。その後しばらくして、そのコメンテーターの一人(たぶん保阪正康氏だと思う)が、それは事実ではないと諭していた。しかし、彼はその指摘を理解していないと思う。つまり、その若者のまったく間違った歴史的理解は、彼のなかでは依然として「事実」のままであるだろうと思う。保阪氏もその他の参加者も、もっと厳しく、しつこく事実でないことは事実でないと指摘すべきだったと思う。

しかし、ひるがえって考えると、歴史の「うそ」はこのような些細な誤解が蓄積することで「事実」として認識されるようになるのだと思った。「うそ」でも、間違った理解でも、それがくり返し語られ、訂正する声が小さければ、その「うそ」や間違いがいつしか「事実」となっていくのだ。

沖縄の場合はどうか。沖縄については、日本本土(以下「日本」)人がそれを理解するという行為自体に、たとえ、悪意がなく、善意で理解しようとしても、事実を歪曲したり、見落としたり、過剰に意識したりすることという「沖縄理解」の構造的な問題を含んでいる。しかも、それらの歪曲や誤解、うそ、見落としと付け足しについて、沖縄人自らが日本人に訂正を求めたり、学習を求めたりする機会はほとんどない。したがって、自戒も含めていっているのだが、日本人の大半は沖縄をほとんど理解しないまま理解したと錯覚し、それを帰って言ったり、書いたりする。そして、それが沖縄の“日本側から見た”「事実」として定着していく。

だから、これからもわたしはもっと翌沖縄のことを知るべきだし、知ったことがらが自分の日本人としてのフィルターを通してではなく、沖縄の「事実」であるかどうかを丁寧に、丹念に、注意深く検証しながら、そこで得た「知」を、あらゆる機会を捉えて、声高に、しつこくくり返して、主張しなければならないと思っている。

このブログの使命も、そこにある。

そして、来月9月29日〜30日に神戸海星女子学院大学で開催される「キリスト教史学会第57回大会」での報告は上記の日本の沖縄理解に関することである。わたしの研究発表は、二日目9:30〜10:00(予定)、「キリスト教メディアから見た本土教団の沖縄教会観形成」と題して行う。わたしのひとつ前の発表は高井ヘラー由紀氏(国際基督教大学キリスト教と文化研究所)「日本統治下台湾における日本人教会による台湾人伝道─日本基督教会と日本組合教会を中心に─」である。若手で、今後植民地の日本キリスト教研究の潮流をつくるであろう俊英の発表で、自分の発表を準備しながらも期待を高めている。

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2006年8月13日 (日)

2004年8月の13日は金曜日だった。

2004年の8月13日は、金曜日だった。いわゆる「13日の金曜日」。その日、わたしは数日後に沖縄行きを控えて、準備をはじめていた。2時過ぎ、テレビのニュース速報で宜野湾の沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落したらしいということを知った。

その時に、わたしは何を感じたのか。いまとなっては思い出せないが、その時の暑さと、神戸の太陽の眩さははっきりと記憶している。だから、いろんな意味で衝撃を受けたことは確かであった。

それから、数日後、わたしは那覇空港に降り立ち、更に数日後、友人に連れられて「事故」現場に行った。現場はまだきな臭さが残り、ヘリのローターが激突した校舎の壁はその痕跡が黒々と鮮やかに残っていた。そして、そのまま普天間基地前の抗議集会に合流した。

その後、那覇に滞在中に新聞・テレビ等の報道で次々知らされる新たな情報に触れ、考えながら、わたしは沖縄が「本土復帰」31年を経て今度は日本と米国により再占領されているのではないかと思うようになった。沖国大の「事件」はそのことを白日のもとに知らせたのだと。

一年後、8月14日の日曜日、わたしは再び沖国大にいた。午前中、首里教会での礼拝後、ある方に聞き取り調査をして、その方とは別の教会員(沖縄の調査ではいつもお世話になっているN氏)につれられて、沖国大での「事件」後一周年のシンポジウムに出席するためであった。一年前のあの日、ヘリのローターの破片が自宅に飛び込み、寝ていた赤ちゃんのすぐそばに突きたった問うことを経験した若いお母さんが、専門家に混じって、一生懸命安全な生活を保障して欲しいと訴えていた。米軍基地である普天間が日本の航空法の適用を受けないことを逆手にとって、沖国大の校舎の屋上に49(?)mのアドバルーンを上げて戦闘機等の離発着を妨害しようという手段には笑ってしまったが、いかにも沖縄らしい抵抗のしかただと感心した。その他、色々教えられたことが多く、有意義な時間を過ごした。

と思ったが、ここでも議論の至る所で出て来る話を聞きながら、一年前に感じた“日米両国による沖縄再占領”という事実を再認識した。

さらに一年後のきょう。日曜日。沖縄の教会ではこの事件のことがどう語られたのであろうか。そして、日本の教会では語られたのか、語られなかったのか。

「13日の金曜日」はキリストが処刑された日というのは、どうやら迷信らしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/13%E6%97%A5%E3%81%AE%E9%87%91%E6%9B%9C%E6%97%A5

が、キリスト教との性か、わたしはこの日の意味を過剰に受け取ってしまっている。そして、「8月13日」は新たな沖縄を思う一種の“祈念日”のひとつとなった。そのうち、沖縄は“祈念日”だらけになってしまうのではないか。その日の意味や背景をひとつひとつ正確に理解し、記憶し、それをもとに発言することは決せいて容易なことではない。

しかし、考えてみよう。それら、ひとつひとつがわたしたち日本本土に暮らす者にとっての一種の警告や示唆になっている。そして、沖縄の人々はそれらの“祈念日”ひとつひとつを、ユーモアや機転、永遠の知恵で意味あるものに変えていこうとするしなやかな意志をもっているように思う。わたしは、その姿勢に、これからも真摯に学んでいきたいと思う。

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