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2006年9月3日 - 2006年9月9日

2006年9月 7日 (木)

闇と、この世の地獄と

沖縄戦の激戦地のひとつ糸数壕(アブチラガマ)の闇は深い。そして、光りは闇を忘れ、闇は光りを想起する。

学生たちと一緒に壕(ガマ)に入った。わたしは今回で4回目。いつの間にか入場料を取るようになり、管理事務所ができていて、懐中電灯(有料100円)やヘルメット(無料)を貸してくれるようになった。きょうもわたしたちの前1台、跡から2台、観光バスが乗りつけ中学生やら高校生やらが降りてきた。

でも、この壕の闇の深さは変わらない。

学生たちは初体験だった。壕の入口ぐらいから怖がっていたが、尻込みすることはなく、おぼつかない足取りで壕の中に入っていく。これまで3日間一緒に旅をしてきた仲間がいる安心感なのか。それでも、案内所で渡された懐中電灯が1個、2個と点かなくなる。そのたびにちょっとしたパニックになる。わたしの説明は上の空であまり聞いていない。そう、下手な説明を聞くより、この闇が多くのことを彼女たちに語りかけ、考えるきっかけを与えてくれると信じている。

さて、壕の中ほどの足場のいいところで、懐中電灯を消してみた。どの体験学習でもやることらしいが、この暗闇が学生たちの恐怖を誘う。この日は、前日周辺で大雨があったせいで、水滴が天井より間断なく落ちてくる。気温が外気が湿っぽく暑かったせいか、ひんやりするぐらいになっている。しかし、当時は5月。梅雨のまっただ中で、さぞ蒸し暑く、息苦しかったことだろう。その闇をわたしは何度か体験しているが、それでも懐中電灯を消した瞬間に胸が苦しくなってくる。きっと学生たちもそうだったに違いない。途中で堪えきれず、懐中電灯を点けてしまった者もいた。

それを追体験ということはできないだろう。しかし、わたしたちはそれに幾ばくかの言葉を補いながら想像力を鍛えていくしかない。学生たちも普通でない体験をしたので、観察力がいつもより研ぎ澄まされていたのであろう。爆発の衝撃で壕の天井に張りついたままになっているドラム缶の蓋(といわれるもの)をわたしより先に見つけた。それから、恐怖からでもあるのだろうが、隣の者と言葉を交わしながら当時の壕での生活について話をしている。そんな時間を体験した。

──光りは闇を忘れ、闇は光りを想起する。

冒頭のこと言葉は、壕を出るときにわたしの胸の中に浮かんだものだった。暗闇を仄明るいだけの頼りない懐中電灯の灯りだけで先を照らしながら進んできて、ようやくで口の薄明かりが見えた。その時、学生たちはほっとした顔をし、歓声を上げたのだった。わたしたちは壕の外が明るい世界であることを知っている。だから、ほっとしたのではなかったか。つまり、その時わたしたちの胸に去来した安堵と歓声は、光りが見えたからではない。戦争の「疑似体験」から平和な世界に戻れることの安堵であり、喚起であったのだと思う。

が、沖縄戦の最中のことをできるだけ想像してみよう。

壕の外は日中銃弾が飛び交い、火焔放射で焼かれ、炸裂した艦砲射撃の砲弾の破片が鋭いナイフのように骨肉を抉る「光り」のなかなのだ。だから戦場の陽射しは狂気の光りであり、剥き出しの暴力にその身を晒すことを意味した。だから、壕の中の人々にとって外の世界の「光り」は希望というよりも、死への恐怖であったのではないか。

出口近くに追いやられた住民は、その光りの中に人影が差すたびに米軍を疑い、体をこわばらせたのかもしれない。「殺される」。光りの中には狂気の世界からの攻撃があった。そこにわたしの想像が至るまでに、とても長い時間がかかってしまった。

平和な光り満つる世界から壕の中に入ったわたしたちは、壕の中の惨状を聞くたびにここが「この世の地獄」に違いないと思っていた。しかし、外の世界にもその地獄が間断なく、隙間なく存在している時に、この壕の闇はわたしたちにとっては「この世の地獄」であっても、戦火のなかの住民にとってはそうではなかったかもしれない。「身を潜める」ということはそのようなことではなかったか。地獄とも形容し得る状況が長期間続くことで、それが常態化し、さらに大きな地獄を回避するためにその地獄のような状況が選択された。そして、そこにある選択こそ、そこに息を潜めていつ来るか定かではない解放の時間を待つか、さもなくば、疲労し、衰弱し、蛆に肉を犯されるながら差して死を待つかという、いずれにしろ絶望的なものではなかったか。

20分あまりで、わたしは眩い夏の陽射しの下に出た。しかし、その「光り」のなかで、「闇」があることを決して忘れてはならない。その「闇」で必死で考え、言葉にしようとしたことも。

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2006年9月 6日 (水)

那覇の街で、号外

一昨日から那覇に来ている。着いた日は首里近辺を回った後、佐敷まで行った。昨日は中南部の城(グスク)や米軍基地関係のところを回った。そこでの出来事は、追々書いていきたいが、きょうは短く今朝のことを書いておく。

朝9時半ごろ那覇の県庁前のスクランブル交差点、パレット久茂地前で号外が配られていた。那覇で号外を受け取るのはこれで3度目。8月にくらべるとまばらになった人通りのなかで琉球新報の号外が配られていた。よく見れば4名、社員らしき人が要所要所で配っていた。

これから、また、憂鬱な日々が続く。このての話はどうにも体質に合わない。天皇やその一家に対して特別な感情はほとんどない。それは良くも悪くも全くないのだ。ただ、その回りで「皇室専門家」を自称しながらいろいろコメントをしているが、結局のところ憶測や推量でしかない情報をまことしやかに巧みに述べるコメンテーターと、そうした人間を呼んで予定調和の話を延々とくり返している報道というものが、わたしの体質には合わない。

子どもが生まれるということは、経験してみなければわからないことだ。しかし、経験すればすべてが分かる物でもない。わたしたちは自分の経験の範囲でしか普通ものを理解できないでいる。だから、わたしの経験はわたし固有の経験であり、それをすべて一般化できるもではない。その上でのことだが、わたしは自分の子どもの誕生を待つときに、子どもの母親(つまり、わたしの連れあい)と生まれる子どもの無事だけを祈っていた。その他のもの、例えば自分の両親や連れあいの両親、周囲の人間に気を遣う余裕などなかった。実際自然に気を遣っていたかもしれないが、それでも最優先は連れあいと子どものことだった。

しかし、今回の手術日程が早朝だったことをあれこれ詮索し、天皇の次男坊が天皇や病院関係者に気を使った結果だと、どのテレビも口をそろえて言うのだ。しかしそうだろうか。そんなはずはない。そして、その憶測に過ぎない私的見解が、テレビでくり返すうちに「事実」として定着していくようにみえる。それで、彼らは皇室の何を高めようとしているのだろうか。

憶測には憶測で対抗する。わたしの憶測では、そのように言っている人々は自分のなかのイデオロギーや美意識を表明するのに天皇一家を利用しているのではないだろうか。

那覇の街でも、わざわざ交差点のないかで車を止めてその号外を取りに来る人がいる。それは明らかに沖縄人だ。エレベーターのなかの会話も、抑えた口調ではあるが、そのことが話題になっている。そうした素朴な感情、つまり、なんにしろ無事にひとりの人間がこの世に生を受けたことに対するうれしさ。それを共有し、これからもそのような生が祝われる穏やかな世の中であって欲しいというささやかな願い。

それに対して、それらと乖離しながら、それらを煽って別の方向付けを与えようとするものもいる。そのようなセクシストやレイシストの口車にまんまと乗せられてはいけない。きょう誕生した生は、何千、何万あるだろうが、それはみなそれぞれにそれぞれの重さをもっていて、比べがたいのである。号外が配られるほどの生であってもその生が幸福な一生を送るとは限らない。ひっそりとだれにも祝われない生が、そのまま知られずに消えて行くとも限らない。

だから、わたしは、那覇の街で、その号外を受け取りながら、それをその場で破り捨て、踏みつけることはしなかった。その生は祝おう。ただし、どの生も同じように祝いたい。どれも、これから地球の仲間になるものだ。ただ、それらのそれぞれの生のことを知らない。だからこそ、一層強く、思うのだ。これからたくましく生きていって欲しいと。

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