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2006年9月10日 - 2006年9月16日

2006年9月13日 (水)

慟哭する─歴史叙述と“自己”批判─

イエス・キリストは無謬であるが、だからといって、それを信じている人たちまでが絶対に正しいとは、絶対に限らない。

──これは、わたしがキリスト教史を研究するときの基本的なスタンスである。だから、俗な言い方だが、キリスト教の良いところも書くし、悪いところも遠慮せずに書くことにしている。が、どちらかというと、近年は悪いところ、あまり良くないことばかりを探して、書いているような感もある。

そのようなわたしのスタンスを端的に表す論考が、つい最近公刊された。

拙稿「戦時体制とキリスト教─日本基督教団の海外伝道と地方教会動員を中心に─」(天理大学おやさと研究所編『戦争と宗教』天理大学出版部、2006年、頒価¥700+税)。詳しい解説は、別の機会にするとして、その目次は以下の通り。

一 はじめに
二 近代日本キリスト教の構造と戦時体制
三 戦時下における地方教会の掌握と動員
四 戦時下における運動体としての日本基督教団
五 日本キリスト教界の帝国意識と海外伝道の戦略
六 戦時中の日本基督教団の海外伝道にみる派遣と開拓
七 おわりの─その後の日本基督教団─

本論で使っている史料等はすでに刊行されているものや二次文献の主であるから、そこにオリジナリティーがあるわけではない。また、戦時体制下の日本基督教団についての研究はいくつもあるし(これが決定的だというものはないと思うが)、近年日本基督教団やキリスト教界の戦時下における海外伝道の研究も進んでいる。本論のオリジナリティーはその両者を結びつけて論じているところにある。

それにしても、戦時下の日本基督教団。調べれば調べるほど、ひどいことをしている。そして、そのことを当時の指導者は全部とはいわないがよく知っていただろうに、それを上手に隠蔽してきたものだ。そういえば、こんなになりふり構わず戦争協力をし、まさに国家と一体化しながら戦争を推進していたのにもかかわらず、戦後当時の指導者は誰ひとりとしてパージされていないのではないか。

パージをする主体が国家や占領軍である必要はない。自らが自らの罪を見つめ直し、それぞれの教義理解や良心に従って身を処していく必要が、少なくともあったのではないだろうか。にもかかわらず、戦後の日本基督教団では、かなり早い時期から「先の戦争で、教団は不本意ながら国家の戦争遂行に協力させられた」という神話的言説が語られはじめている。本稿でも引用しているが、1945年8月15日の午前中の時点、つまりいわゆる「玉音放送」の前に、すでにそのような“転身(=転向)”がみられた。

こうして自分の属している宗教・団体を批判することは、心理的負担がとても大きい。その批判は、そのまま自分に返ってくると考えている。つまり、批判の矛先を鋭く研げば研ぐほど、自らの心身を深く傷つけることになる。しかし、わたしはそれをやめることは当分ないだろうと思う。

宗教の本質は、人を救うことにある。だから、時には、例え人や己を騙してでも、その行為が結果的に人を救うのであれば、わたしはそれを完全に否定することは出来ない。わたしがはじめてキリスト教に出会って、それを信じるようになっていったころ、わたしはその宗教が清廉で、正義に満ちていることに魅力を感じていた。しかし、実態は違っていた。歴史叙述の場ばかりではない。実際の教会での出来事も世俗の汚辱にまみれていることがある。それでも、それが誰かを救うのであれば、わたしはそれを肯定したい。

最初の問いかけに返ると、キリストは確かに清廉で正義であった。しかし、われわれは小狡くて、いじましく、世俗にまみれて生活をしている。聖書には、だからこそ、そんな人には福音が必要だと書かれているが、その逆説もわたしを救った。しかし、そのままではよくないと思っているから、わたしは最初に述べたスタンスでこれまでキリスト教の歴史を研究してきたし、これからも研究しつづけると思う。

そう、そのままではよくない。歴史のある時点で自らや他者を欺いて、不正義を行い、それに荷担することで自らの救いを求めたことがあった。そのことを否定しない前提として、後にそのことを誰でもない自らの信条や倫理に照らし合わせて、厳しく、激しく、徹底的に“自己”批判をすることは絶対に欠いてはならない、と思っている。

明治のキリスト教の地方伝道のことを研究し、社会事業とキリスト教の関係を探求し、沖縄を通して日本や米国のキリスト教の本質を求めて牛歩を続けているわたしは、その過程で、何度も何度も、慟哭する。自ら信じるもの、自分の愛する者、自分を大事にしてくれる者たちを、俎上に載せ切り刻みながら、わたしは慟哭する。

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