« 2006年9月10日 - 2006年9月16日 | トップページ | 2006年10月1日 - 2006年10月7日 »

2006年9月24日 - 2006年9月30日

2006年9月27日 (水)

仲尾次清彦のこと

ハンストは‘hunger-strike’の略で、『広辞苑(第四版)』によると「要求を通すための闘争手段として絶食によって行う示威行為。消極的な抵抗の仕方の一」とある。

最近起こったある事件のため、私はまた消化しきれないふたつの大きな問題をかかえてしまった。その一つは、その事件その者とその後の一連の動きその者に対する憤りの気持ち。そして、もう一つは、その事件について自分なりにどのような行動をおこすべきなのかということだ。自分なりにというのは、沖縄のキリスト教史を学ぶ研究者として、ということだが、その何とも持って行きようのない気持ちを、自分の胸の内に静めるために、仲尾次清彦の文章を再読した。

仲尾次清彦について、あるいは、よく御存じのかたもあるかもしれない。彼は、数年前の「日本基督教団沖縄教区住所録」によると、「無任所教師」となっている。が、今でも教区総会などには出てこられて、演説をして帰るのだとどなたかに聞いたことがある。ある資料には、1935年大阪市生まれとある。ということは現在71歳ということになる。1965年3月、関西学院大大学院神学研究科を修了。まだ、お元気であれば、お話をうかがいたい方である。

さて、仲尾次の文章。それは、仲尾次清彦「わがハンストの記」(沖縄教区『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、1971年初版発行、2000年再版発行)である。(以下、ご存命の方の敬称を略すことは失礼は承知しているが、歴史的事実を記すためにあえて敬称を略させていただく。)

沖縄キリスト教団が日本基督教団と正式に合同した1969年の11月15日から12日間、仲尾次は「沖縄返還」交渉のための佐藤栄作首相の訪米に反対するためハンストを行った。文面から察するに、その行動は苦渋と熟慮と、そして、逡巡によって行われたようだ。医師や断食道場で適切なアドバイスを受けつつ、同僚の牧師や恩師と充分意見の交換をしながら行われた。

しかし、実際にそのハンストを行動に移すと、彼のj健康を心配するあまりに感情的に行動の中止を懇願する信徒や、はっきりとは記述されないけれど、教会内部の批判的な視線、そして、マスコミや世間の好奇のまなざしにさらされながら、12日間を終えた。

ハンストの途中、ある事件が起こる。脱走した米軍兵士がハンストのテントがやを訪れて、かくまってくれるよう懇願したという。そこに会わせた「沖縄キリスト者平和の会」のメンバーは、その兵士の意に添うように必死に道を模索する。しかし、結局、その兵士は軍当局に拘束されてしまう。占領下の沖縄で、平和活動をするキリスト者が、他の沖縄の住民と同様に大きな限界をもっていることをかくすことなく表現するが故に、仲尾次の論考にある記述のひとつひとつが真実に近いことをわたしは信じる。

そのような彼は、今日に比べると決して十分な支援を受けたわけではなかった。四面楚歌というわけではないものの、その記述からはある種の孤独感さえ感じてしまう。そして、これは、沖縄で起こったことでもあるのだ。だから、本土からの支援など皆無であった。

1969年。わたしはまだ教会の存在すら知らず、小学生であった。だから、知らなくて当然ということでも決してないだろうと思っている。仲尾次や当時の沖縄のキリスト者、住民たちが直面している現状(そして、それは現在の現状ともつながっているのだが)に対して、全く責任がないというわけではない。そして、知らなかったから行動に移せなかったことでもない。現に、わたしは今回の一連の「事件」を知ってもなお、結局行動を起こすことができなかった。

さて、彼の行動は、果たして何をもたらしたのだろうか。「60年安保」の意義について「壮大な0(ゼロ)」という表現がなされることがある。それらの運動は結局何ももたらさなかったが、壮大な何かを確かにもたらしたのではなかっただろうか。

さて、わたしは、現実の沖縄できょうも起こっていることについて、何もできないでいる。そんな自分にショックを受けながらも、しかし、自分に何ができるのかを考えている。

答えは出ない。しかし、こうして、仲尾次のことをブログに書いていると、それが見えてくる気もする。歴史にしっかりと足跡を残しながらも、その足跡が風化し、消え去ろうとしているとき、それを消さまいと、これからも調査を続けて、それを発表していきたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年9月10日 - 2006年9月16日 | トップページ | 2006年10月1日 - 2006年10月7日 »