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2006年11月26日 - 2006年12月2日

2006年11月30日 (木)

「愛はすべての罪を覆う」

きょうは、前期に続き、K女学院大学のチャペルアワーで奨励の日。以下の、本日のわたしの奨励の内容を掲載致します。

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「ヤコブの手紙」第5章第19-20節

わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる、と知るべきです。

わたしは10代の最後の2年間と20代のすべてを広島で過ごしました。広島で青年時代をすごす中で、多くの出会いがあり、たくさんの経験をしました。それは、その後のわたしの人生に大きな影響を与える貴重な学びの時間でした。そして、広島で過ごすうち、いくつかの忘れられない体験をしました。きょうは、そのうちのある「祈り」の体験のお話しをしたいと思います。

わたしは、ほぼ毎年広島への原子爆弾投下の日に当たる8月6日の平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)に参加していました。わたしは、当時大学のグリークラブに属していたので合唱団用の特等席で式典を見守ることができ、歴代広島市長の「平和宣言」や、首相など国内外の来賓の式辞と献花の様子を間近に見聞きしてきました。

式典の途中、原爆投下時間の8時15分から1分間続く黙祷のときには、会場の数千人がつくりだす独特の不思議な沈黙と、鳴りやまぬ蝉時雨、刺すような日差し、そして、遠くから新左翼系の団体の「式典反対」のシュプレヒコールが微かに聞こえてきました。

毎年、広島の8月は、この原爆記念日をめざして騒々しくはじまります。全世界から何万人という人が広島に集まり、街中にはさまざまな政党や労働団体、市民団体、それに、宗教団体の色とりどりの旗やノボリがあふれています。そして、そこには平和に対するそれぞれの思いのこもったスローガンが掲げられています。しかし、そのような人波も8月6日夕刻からはじまる「灯籠流し」の前後を境に急になくなります。みな、次の「長崎」めざして広島を離れるのです。

年に1度だけ、8月6日前後に広島を訪れて平和の誓いをし、向こう一年間それぞれの場所で平和を創っていこうという意志を確認して帰っていくことは、とても大切なことです。しかし、「広島そのものが原爆の碑であり、慰霊碑である」。また、「広島では1年365日の1日、1日が慰霊の日である」。自ら広島に暮らし、そのような被爆者の方々のお話を聞いてから、どうしてもこの喧噪の中の広島が本来の広島ではないと思うようになっていました。

さて、わたしは、広島時代の最後の5年間、平和公園まで歩いて5分のところに住んでいました。ある年の8月6日、どうしても寝付けなかったわたしは、午前4時頃、アパートを出て近くを流れる元安川の土手に出ました。すると、ひとりの年老いた女性が、薄暗い中でしゃがみ込み、川面のほうに向かって身じろぎもせずに手を合わせている光景に出くわしました。その光景を見たわたしは動けなくなり、しばらくその場に立ちつくしてしまいました。

わたしは、かつてこのような敬虔な祈りを見たことがありません。彼女は恐らくクリスチャンではないでしょうが、その祈りの姿にはたとえようもない悲しみと同時に、触れることがはばかられるような峻厳さとはかなさが同居していました。

「愛はすべての罪を覆う」。これは、本日の聖書の箇所の元になった旧約聖書「箴言」(第10章第12節)のことばです。

  憎しみはいさかいを引き起こす。
  愛はすべての罪を覆う。

わたしは、当時所属していた教会の会員の被爆者の方から、「本当に原爆で死んだ人のことを思っている人は祈念式典には行かない。式典がはじまるずっと前、早朝に、そっと慰霊碑にお参りしてくるのだ」ということを聞いたことがありました。また、その方は、「被爆者は自分だけ生き残ったことを罪と感じ、助けを求める人を見捨てて逃げたことをいまでも、ずっと後悔しつづけている」ともおっしゃっていました。

その生き残った罪悪感や後悔があるから、その方々が一生自らの罪を懺悔し、祈りつづけなければならないのだとしたら、それはどういうことなのでしょう。きょうの聖書は、一般的には神への献身を忘れて、世俗の生き方に埋没してしまうことに対する警告だといわれています。しかし、わたしは次のように思うのです。

あの日のことは忘れようとしても、忘れることはできない。そこにいたあの日の自分を何度も何度も自分の心に刻みつけ、いまの自分にとって許されないことをしてしまったあの日の自分を、いまの自分が「真理へ連れ戻」そうとしている。それが、あの川岸の女性の敬虔な祈りではなかったかと思うのです。

自分が背負っている重荷が重すぎて、「それはあなたのせいではないですよ」という表面的な慰めのことばでは容易におろせないものだとしたら、それを背負ったままおろさないで歩く他はない。そのためには、許せないことをした自分をいまの自分が真理のところまで引き戻す。そうすることで、いつの日か、愛が自分の罪を覆うことを信じて歩き続けるしかない。そうすることで、いつの日か、自分の魂が死の恐怖から救われるのではないかと信じて歩き続けるほかはない。

そして、担いきれないような重荷を負って、絶えず自らを真理に引き戻そうすること。それは新しい希望や確信に続いて行く記憶の仕方、心への刻み付け方ではないかと思います。そして、それは、わたしたちにも希望を与えるのではないでしょうか。わたしは、先に述べた女性の祈りを記憶し、心に刻み、その意味を問い続けています。先ほどの『箴言』のことばをもう一度くり返します。

  憎しみはいさかいを引き起こす。
  愛はすべての罪を覆う。

憎しみに駆られた魂はいつか同じような憎しみで我が身を刺し貫かれるのではないかという死への恐怖におののき、周囲といさかいを引き起こす。隣国が核兵器を持ったからそれに憎しみで応じるために、自らも核武装をすべきだと叫ぶ人々がいます。そして、それに呼応する人々がいます。そのような人々の魂は「死」に対する恐怖に縛られており、そこから逃れようともがけばもがくほどさらに縛られているように、わたしには見えるのです。

きょうの聖書の最後の部分に「罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる」ということばがあります。これは、「覆った」でもなければ、「覆うべきだ」でもありません。つまり、完了でも、義務でもないのです。「愛がすべてを覆う」出来事は、まだ終わっていないのです。まだ終わっていない、未完であるということは、そこに希望があるということだと思います。聖書がいわんとしているのは、「自分も含めたさまざまな人の中にある迷いや憎しみを、絶えず神が示した真理へと引き戻すよう努めなさい」、という勧めです。自分の命の終わりの日まで、尽きることのない「祈り」はあると思うのです。しかし、そこには絶望だけしかないのではありません。背負った悲しみはあまりにも大きく、後悔はとても深く、憎しみが強すぎたとしたら、それは容易に去るものではありませんが、いつか、きっと、愛が多く罪を覆い、やがてすべてを覆っていくだろうと信じる希望を持ち続けること。それを聖書が勧めているように思います。

それでは、きのうや今までの自分のことを思い起こしながら、それぞれ、自分のことばでお祈り下さい。

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2006年11月27日 (月)

訃報:元沖縄キリスト教会宣教師・C・ハロルド・リカードさん

きょう、沖縄の友人から、リカード元沖縄キリスト教会宣教師(Carleton Harold Rickard)の訃報を知らされた。手元の資料(ジャン・W・クランメル編「来日メソジスト宣教師事典1873-1993年』教文館、1996年)によると、1918年5月17日生まれ。だから、今年で89歳ということになる。1951年9月8日、沖縄キリスト教会に宣教師として赴任。33歳の時であった。前年の50年3月15日にはベル(Otis Wilson Bell,赴任当時やはり33歳)と比嘉善雄が宣教師として赴任。リカード赴任の翌年52年9月4日、バーベリー宣教師夫妻(Mario Charles Jr. Barberi and Joy Ruth Barberi, 赴任時共に26歳)が赴任した。わたしが沖縄での聞き取りの過程でうかがったところ、戦後沖縄に最初に赴任したこの3人のアメリカ人宣教師が沖縄の教会のなかで最も強く、深く、長く記憶されてきた。それだけ、愛されていたのだろう。

手元の資料には次のように続く。

 来日以前はトロイ年会の牧師。1950年から1951年までカリフォルニア州バークレイで日本語を学ぶ。1951年から1956年まで沖縄で農村伝道に従事、その間、沖縄キリスト教連合委員会の現地財務となり、戦争中に破壊された教会や牧師館の再建を支援し、また移動診療車を用いたキリスト教医療事務を開始。1956年から1967年まで石垣島の八重山(ママ)で地方農村センターを指導し、与那原(与那国?)及び西表島にはじめて福音伝道を開始。沖縄における米陸軍の土地占領に起因する諸問題の解決にも尽力。

その後、岡山に移ったが、

阿波根昌鴻制作のドキュメンタリー写真『人間の住んでいる島─沖縄、伊江島土地闘争の記録』を英訳(香港、アジア・キリスト教協議会出版社、1989年)。

リカード元宣教師は、日本キリスト教団沖縄教区編纂の『戦さ場と廃墟の中から─戦中・戦後の沖縄に生きた人々─』(同教区、2004年)に「わたしたちの戦中戦後体験」という一文を寄せている。

その中で師は沖縄の戦跡や米軍の基地の実態、移動病院での働き、伊江島での阿波根昌鴻さんとの出会い、プライス調査団公聴会でのダウンズ宣教師の発言、八重山での働き、そして、沖縄を離れ岡山に赴任し、帰国するまでのことを記している。

なかでも、「一九五五年の沖縄キリスト教団における『信条』論争について思い出すのは痛みを覚えます。しかし、そのことに深く関わった方々も、わたしが問題についての発言の態度をお詫びしたことを、寛大に許して下さいました」(沖縄教区前掲書、p282)とあるのは、1955年の沖縄キリスト教会におけるいわゆる「信仰告白論争」に関してである。この時、リカード夫妻、バーベリー夫妻、それに、フロイメナ・ナティビダード宣教師(フィリピン出身)の5名は沖縄キリスト教会宣教師団として、前年に制定された「沖縄キリスト教会信仰告白」を一方的に異端と決めつけ、経済援助の打ち切りをちらつかせて、その破棄を同教会理事会に迫ったのである。

今となっては、真相は全く藪の中である。この時の高圧的な態度と、例えば記録映画『教えられなかった戦争・沖縄編』(映像文化協会、高岩仁監督)のなかで静かに阿波根さんや伊江島でのことを語るリカード氏の姿はどうにも重ならないのである。できることなら、お話をうかがいたかった方の一人ではある。

なお、「うさぎの部屋 」の「リカードさんの部屋 」では、リカード氏がとった沖縄の写真が閲覧できる。

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