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2006年12月24日 - 2006年12月30日

2006年12月25日 (月)

沖縄のクリスマス

恵まれぬ ひとにとぞいい
         誰(た)がためぞ
   ヘリで飛来す  米兵サンタ

これは、ある人のもとめでその人の「日記」に投稿したものである。

わたしの沖縄の友人である社会福祉施設で施設長をしているG牧師(わたしに沖縄のことをいろいろ教えてくださるひとです)は沖縄のクリスマスについて以下のような話をしてくれた。毎年クリスマス近くになると米軍の関係者から多数「めぐまれない子どもたち」に何か贈りたいがという問い合わせがあるのだという。そこで、G牧師は「あんたたちが沖縄から出て行ってくれることが、わたしたちにとっての一番のクリスマスプレゼントだ」と言い返すのだそうだ。

わたしは、1945年から60年までの『琉球新報』(1951年以前は『ウルマ新報』『うるま新報』)と『沖縄タイムス』を読んだ。その中でも、イースターやクリスマスの時期になると、沖縄の「めぐまれないひとの施設」つまり、当時の孤児院の「厚生園」(現沖縄県立首里厚生園)や「愛隣園」、ハンセン病施設「愛楽園」、それに沖縄各地の児童施設・小学校等々に対して、在沖米軍の兵士や将校、そしてその婦人たちの個人や団体、基地内教会(チャペル)から贈り物が贈られたという「美談」が多数載せられている。

なかには、ヘリコプターで非番の兵士がサンタクロースに扮しておりてきたという記述もあった。「愛楽園へ空からサンタ 七五歩兵の友情」(『沖縄タイムス』    1955年 12月 17日)では、75歩兵戦闘連隊が軍公衛部福祉課リーバーメン少佐とともに愛楽園を訪問しプレゼントを渡したとある。また、「空からサンタ爺さん 与那原の愛隣園に」(『沖縄タイムス』    1956年 12月 24日)では、牧港にあるQM隊がヘリコプターに乗って愛隣園を訪れたとある。冒頭の短歌はこのことを思い出して詠んだものである。

「美談」は批判できない。『沖縄タイムス』は米軍占領下という言論統制下にありながら米軍の占領に対しては批判的な記事を載せていたのだが、このようなさすがに「美談」には抗することができず、結果的に米軍の宣撫工作の一端をになわされてきた(拙稿「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会−占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉   施設・愛隣園の研究」(『キリスト教史学』第55集、2001年7月、pp185-198)参照)。

そのような構図が、「沖縄返還」(沖縄側から見れば「本土復帰」)後、34回目のクリスマスにもなお存続しているのであろうか。さすがに今日『沖縄タイムス』や『琉球新報』でそのような「美談」が採りあげられることはないが、しかし、そのような米兵の「善意」はこの時期に最もあからさまになる。そして、そのような行為が、米軍が沖縄になお駐留し、日本政府と米国政府が「再占領」統治する沖縄の現状と問題点を「隠蔽」し続けているように思えてならない。

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「痛み」と「癒し」考〜「落差」の一件から考える〜

先日書いた「落差 」に対して、おふたりの方からコメントを頂いた。それぞれ、わたしがこれまで漠然と考えていたことを簡潔に明示して頂けたように思う。こうしてわたしの問いかけに応答し、支えて頂けることはとてもありがたい。

慰霊や追悼と、災害や戦争による犠牲、もしくは、被害には明らかに因果関係がある。しかし、今回のフィールドワークのトークセッション「『痛み』の臨床と精神文化の諸相を知る」で問題となった「痛み」と「癒し」については、その両者間に必ずしもそうした関係があるわけではない。

聖書には苦しみや困難、難儀、「痛み」に類する記述がしばしばでてくる。しかし、そこから逃れる道筋は必ずしも明確ではない。極言すれば、ひとは死によって「神の国」にはいること以外、苦悩や苦悩、「痛み」から救われることはない、と聖書は言う。だから、わたしはキリスト教とは「苦難に耐える力を養う宗教」だと考えている。

結局、キリスト教は、苦悩や苦悩、「痛み」を簡単に「癒し」たりはしはないのだ。むしろ、苦しんだり、「痛み」を感じたりしている過程にこそ、その信仰の真価が発揮されるのではないだろうか。適当に、簡単に癒されたり、解放されたりする「痛み」はたいしたことはない。エジプトとバビロニア、ペルシア等々の大国に挟まれた小国のエルサレムは歴史上何度も蹂躙され、そこに住む人びとは他国へ拉致されもした。そのような土地に生まれたこと自体、すでに大きな苦悩や苦悩、「痛み」を負っていることである。そうであれば、そこからの解放など簡単に望んでも望めないことだ。ひとは、自分自身の努力では克服できない巨大で、根深い問題に直面したときに、神、あるいは、仏に頼り、そこに信仰が芽吹いていくのではないだろうか。だからこそ、人びとはその苦悩や苦悩、「痛み」に耐えるために祈り、「死による解放」を夢みながら懸命に生きたのではなかったか。

今回のフィールドワークで何回か眼にしたことであるが、何か大きな、つまり、民族的な、あるいは、人類的な「痛み」を措定した上でそれを稀釈し、解消しようとする、あるいは、それらによって「痛み」を負わされているひとや自然を救済すべく祈祷をする型をとった宗教がある。それについて、どうもわたしたちは、「犠牲を慰霊する」のアナロジーで、「痛み」があるから「癒し」が行われる、もしく、行わなければならないと錯覚してきたのではないか。しかし、琉球民族の反映や世界平和への祈りは、それをかなえることを目ざしたそれではないのではないか、としばらくして思うようになった。そこで出会った宗教者は、祈ることで自らや直面するできごとや境遇を上手く利用し、理屈づけをしているようにみえた。それが予定調和的にも見えるし、「事後予言」的でもある。また、現実と願望の乖離が厳然と存在するとき、自らの宗教の教義や理屈を媒介にして、現実の解釈を願望に近づける。そうすることで、現実から来る「痛み」に積極的な意味づけをし、自らを肯定する知恵を、出会った宗教者の方々の発言から感じた。

そのようなに考えると、キリスト教も、今回出会った宗教も、「痛み」を身にうけることを神や仏によるめぐみであると受けとめて、「痛み」をなめ尽くす過程で、人間として、宗教者としての自己を確立して行くように見えた。そのような型の宗教は、キリスト教以外にも多数ある。そのような宗教にとって、「救済」や「癒し」は、「痛み」に対応するものでは決してない。極端にいえば、「救済」や「解放」を自らめざしはしていない宗教すらある。それに加えて、キリスト教の場合、「救済」されるか否かは、信者個人の信仰の篤さに規定されるものではないとされている。「救済」は神の主権の範囲なのであり、個々の人間が救われるか否かは神のみが神の基準に基づいて決定するとされている。キリスト者はそのことに同意をして信仰を告白しているの(はず)であり、それでを「天に宝を積む」ために日々の生活を律して信仰生活を送っているの(はず)である。

その点でいうと、沖縄での「救済」や「癒し」のあり方は、古くは薩摩による搾取や、先島(宮古・八重山)における「孤島苦=島ちゃび」(琉球王府と薩摩による二重の搾取、あるいは、在番の役人が私腹を肥やすための三重の搾取)、近代以降の内国植民地化や、苛烈な皇民化教育、それに反して増大するいわゆる「沖縄差別」等々、直接本人には起因しない「痛み」を背負わされてきた歴史がある。そして、それらが存在したままでそれらに耐える力を養い、それらにこころを折られないよう、自己を励ましてきた。その大きな力になったのは、「字」や「門中(ムンチュー)」の人間関係であり、それらを単位に行われずっと維持されてきた祭でもある。また、民謡(島唄)や踊りもそうだった。『チャンプルー・シングルズ VOL.2 〜平和の願い(戦争と移民)』(東芝EMI)というCDがある。そのなかの、沖縄戦をうたった「戦世ぬセンスル節」(平良万吉唄)や、戦後の民間人捕虜収容所の生活をうたった「PW無情〜PW節」(金城実唄)、「屋嘉節」(松田永忠・石原節子唄)を聴いていると、自分たちのおかれた境遇を島唄というかたちで表現し、それをたくさんの人びとがそれぞれの想いでうたうことによって、悲嘆や決意等々の感情を共有してきたのだと感じた。

「慰霊」や「追悼」、それに「痛み」と「癒し」についてのわたしの視野は、これでも今回ずいぶん広がったように思う。

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2006年12月24日 (日)

沖縄“再開発”

クリスマスイブの聖日。首里教会で礼拝をまもろうと、朝、今回のフィールドワークの参加者にあいさつをして、モノレールで首里に向かった。予定より1時間以上も早かったので、首里城近くの9月にゼミの学生たちといっていらだが、ずいぶん変わっていて、とても驚いた。

モノレール首里駅近くの上の毛公園からあがったのだが、首里城まで通り抜けるルートができていた。石垣も復元されており、その曲線がとても美しかった。かなり急な階段を下っていくと、円覚寺のもんの裏側が見えた。まだ、工事ははじまっていなかったが、近々復元工事が行われるのではないかと思わせるものがあった。

そういえば、9月に訪れた中城城跡もそうだった。今回訪れた斎場御嶽もそう。相当規模の大きい発掘作業や「復元工事」がされているようだった。

沖縄の“再開発”はすすんでいる。沖縄に行くたびに、それは感じる。沖縄の人たちには日本国民として他府県のものと同等の経済発展を享受する権利はある。他府県人と同じものを食べ、同じものを消費し、同じレベルの給与水準のもとで生活をする。だから、観光客のためのみに、われわれ他府県人たちがすでに歴史のなかで失ったものを沖縄自身が残すことを強制されてはならない。だから、沖縄に《むかしの=遅れた》姿を強要してはならないし、沖縄が本土と同じになっていくことを安易に嘆くことは間違っていると思う。

また、このように歴史的施設(世界文化遺産を中心とする)の「復元」的“再開発”の影には沖縄の方々の一種の「沖縄回帰(「沖縄ナショナリズム」とまでいえるかどうかは別にして)」があるのかもしれない。この点は、沖縄に住んでいないので、情報が少ないので何ともいえないが。

それから、最近訪れる機会がないが、宮古や八重山はどうなのだろうか。ひょとすると沖縄島の那覇周辺部分と北中部にかつて存在していたような地域間格差が、那覇周辺と離島との間で拡大しているのではないかという懸念もある。だとすれば、那覇周辺だけをまわって、沖縄を云々することはできない。

いずれにしろ、このところすすむ「復元」についても、“再開発”についても発現する権利は、わたしにはない。ただ、そのゆくえを相当な関心をもって、注視していくだけである。

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