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2007年3月18日 (日)

「先行研究」について〜若い研究者への接し方〜

新設の小規模私立大学で、しかも、キリスト教にも宗教にも余りかかわりのないところに勤務していると、文献へのアクセスが難しくなる。ことに学術雑誌については、非常勤先を利用したりはしているが、まったく不十分だ。勢い、細心の研究動向の把握が甘くなる。そんなことを痛感した出来事があった。

この一種のハンディを克服する手段として、NDL-OPAC (国立国会図書館 蔵書検索・申込システム)というインターネットによる雑誌記事索引と文献の複写サービスはとても有効である。そのサービスを使っていくつか文献をまとめて取り寄せたときのこと。

以前学会で軽くあいさつした程度の院生(おそらく博士後期課程)が2006年8月に公刊した論文を先日はじめて読んだ。その論文のテーマは、2003年に学会誌の発表したのと全く同じテーマであった。にもかかわらず、「2.先行研究について」で「この問題について直接論じられた研究はない」と断言されてしまった。そして、その直後にわたしの名前を出して、彼が参考にした日本基督教団沖縄教区資料室の史料をわたしが整理したかのような全くの虚偽の記述があった。

そのことはともかく、わたしの名前が中途半端に出て来るものだから、この著者はわたしのことやわたしの仕事のことを知ったうえで、先の拙稿(「わたしの論文」)が全くの「拙稿(拙い論文)」であると判断したのだろうと考えた。わたしはわたしなりに調査をし、かなり力を入れてその拙稿を書いたつもりだったのでとても心外であった。

それで、ほかにもこれはどうしてもおかしいだろうと思うけれど、知らない人が読んだら本気にしそうなところがいくつもあった。沖縄キリスト教史については、確かに先行研究が少ない。だからこそ、間違ったことを論文にしてしまうと、それが「事実」として一人歩きしてしまう危険がある。だから、細かいことでも、きちんと「事実」を詰めていかなくてはならないと思う。

加えてくだんの論文が掲載されたのはある大学の神学部の紀要で、研究者というよりもその神学部を卒業した牧師等がそれを読み、それぞれの教会で彼が記述した内容が「事実」であるとして語られる機会があるかもしれない。

それで、とりあえず著者と連絡を取ってみた。昨日までに何度かメールのやりとりをしたが、結局、執筆段階でわたしの論文の存在を知らなかったとのこと。それもおかしな話で、彼の指導教員(だと思うのだが)には某学会でまさにこのテーマについて議論をし、拙稿の抜き刷りを送ったにもかかわらず、このようなことが公然と起こっている。先行研究を押さえないで論文を書くのは一義的にまったく本人の責任だが、それにしてもまだ院生なのだし、まわりの教員は誰ひとりとして注意しなかったのだろうか。

ともかく、非公開の場でいくらやりとりをしても余り生産的ではない。だから、なんとか方法を考えて、反論をしたいと思う。このブログもその一環で、本人とのやりとりに一区切りつき、本人の同意があれば、ここでも論点を出して、修正と反論を加えたいと思う。

でも、わたしのやり方は、子どもじみているだろうか。

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コメント

AIさん、こんにちは。

理不尽な出来事ですね。

その大学がわたしが知っている大学であるとするなら、指導教官は誰なのかなと勘ぐってしまいます。まあ、それはどうでもよい話ですが。わたしはその大学とは卒業後は縁なくすごしてきましたので。

その若い研究者が、職業として研究者を目指すというのであれば、AIさんがその人を「大人」にしてあげることは意味があるかと思います。決して、子どもじみていないと思います。

でも、その人がどうにか、論文を終えて、あとは職業としての学問は無縁で、せいぜい、職業としての学問消費者(つまり、わたしで言えば、荒井さんとか田川さんのプロダクトを楽しみにしている消費者と言えるかも知れません。商品をうまく使いこなしていませんが。)としてすごす程度なら、大人にしてあげる必要もないかと思います。

投稿: ぱすと~る | 2007年3月18日 (日) 08:42

ぱすと~るさん、コメントありがとうございます。

>その大学がわたしが知っている大学であるとするなら、指導教官は誰なのかなと勘ぐってしまいます。
その大学は私学なので「官」「教官」はいません。「その大学」は、恐らくぱすと~るさんの考えておられる「その大学(某神学校)」だと思います。

おっしゃる通りですが、わたしがその若い研究者が今後どのようなキャリアを希望しているのかについては、あまり関心がありません。

それより、先行研究のことだけではなくて、細かな事実の誤認があったりもします。また、註釈がとても少ない論文なので、細かな事実がどんな根拠に基づいているのかがはっきりしません。

それよりも何よりも、沖縄の教会の信徒の指導者で敬意をもって沖縄のクリスチャンのみなさんが接してこられた方を、根拠も挙げないで「○○主義者」と決めつけているところが、どうしても看過できないと思いました。

ですから、どこか適当な場所を見つけて、できれば同じ誌上で反論の機会が得られるようにしたいと思っています。

その結果、こちらがつぶされるか、相手がそうなるかは、歴史の“事実”が判断してくれると思います。

投稿: 管理人(one) | 2007年3月19日 (月) 12:51

なるほど。「教官」とは官学の教員のことでしたか。

問題は、沖縄キリスト教史の一場面について、根拠なしの言説が流布してしまうことなのですね。

それは、大問題だと思います。

AIさんがその言説を根拠をもって論駁することは非常に「大人の」行為だと思います。

投稿: ぱすと~る | 2007年3月19日 (月) 15:47

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