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2007年4月 3日 (火)

初心、研究者としての出発に立ち戻り

はじめて研究目的で沖縄に渡ったときの心細さを、いまだに魘されるように、思い出すことがある。

すでに職を得て研究者としての歩みをはじめて1年目の夏(1998年)。その年偶然あたった科研費を手にして、無謀にも2週間ちょっとの予定で沖縄に渡った。ちょうど2度目の沖縄。ホテルについて、まず、途方に暮れてしまった。その時の行動録には次のようにある。

日本基督教団沖縄教区事務所に電話。

  • 那覇中央教会(〔電話番号、住所〕)に電話、教区事務所の所在確認。
  • 教区事務所=沖縄キリスト教センターは、〔電話番号〕、宜野湾市志真志。
  • 牧志・市外線バス停で、那覇交通25番線(石川線)、27番線(安ケ名)乗車。
  • 中部商業高校前下車、信号わたって琉大方面に250m。
  • 対応 → 〔K〕さん。
  • 教区資料の閲覧申し入れ。 → 書記に確認の上、明日9:00に電話。

それをみると、ホテルに着いてから、約2時間。考えあぐねていたことが判る。そして、この翌日から沖縄教区資料室の史料との格闘がはじまる。

一件整然と見える史料だが、すでに史料保存のために第一次の史料保存者以外の人の手がいくつも入っている形跡が見られる。そのため、史料群は原形をとどめていない。その上、すべてバインダーにとじられているので、パンチで穴が開けられており、そこから紙がちぎれて脱落しそうになっているものもある。この手の史料のハシッコには、会議の名前だとか、年月日、場所等の重要情報が記載されているが、それが判別できないものもある。また、バインダーで綴じられているとはいえ、縦置きになっているので、史料全体が反り繰り返りはじめていた。

そう、またしても、そこでわたしは途方に暮れてしまったのである。クーラーが効いた資料室のベランダの窓を開けると、眩しい陽射しと、湧き上がる雲、そして、体にまとわりつく熱気と湿気。ときおり、低く、高く飛ぶ米軍の戦闘機やヘリの爆音。

それらを全身に感じて、やらねばならないことを整理し、反芻し、そして、部屋に戻った。

バラバラになった史料群なら、それをどうにかして復元するしかない。そのためにデータベースづくりをはじめた。離ればなれになった史料のひとつひとつを目録にとっていけば、きっと同じ時期の史料に行きあたるに違いない。途方もなく回り道だけれど、それ以上に確実な方法はない。そう確信して、毎日毎日、那覇から宜野湾まで通い続け、来る日も来る日も、ときには昼飯もとらず史料と格闘し、データベースを構築していった。データの数は、その資料室の史料群のごく一部であったが、優に1,000を超えた。

そのデータベースづくりで得た人の名前や役職とそれぞれの関係、会議の名称や話し合われている内容、そのひとつひとつが、それ以降のわたしの糧になり、何度目下の沖縄行きで、戦後沖縄キリスト教史の概略が朧気に浮かび上がった。いまでもその時の作業とそこで得た知識と感覚(インスピレーション)、構図と構想は、わたしの研究の基盤になっている。

その後、沖縄県公文書館で1945年から60年代初めの『ウルマ新報』『うるま新報』『琉球新報』『沖縄タイムス』を“読破”した。そこには、やはり1,000を超える教会やキリスト者の記事があった。朝9時から5時まで数回トイレと水分補給をする以外はマイクロリーダーを離れず、ひたすらマイクロフィルムを見続けた。そして、関連記事を見ては興奮し、歴史的な出来事の記事を見てはついつい読みふけりながらもコピーを重ねた。そして、ホテルに帰ってその日コピーをしたものを深夜まで目録にとり続けた。こうして作り上げたデータベースに、教会のほかの史料のデータを重ね、ある時期からは沖縄教会の機関誌である『道しるべ』(創刊当初は『道標』)の記事を重ねた。そして、それらを時系列に並び替えてつくった「戦後沖縄キリスト教史年表」は、わたしだけのオリジナルな「年表」であった。それは、いまでも学会発表や論文執筆の力になっている。

それらの作業に一区切りをつけ、その後は、聞き取り調査を併用するようになった。歴史の構造がわからぬままにただただひとの話しをきいてどうなるのだろうか。やはり、基礎作業に肉付けをし、研究に厚みを持たせ、確実性を付与するためには、地道な基礎作業が必要だと、いまでも思う。だから、いまでも、ときどき、沖縄県公文書館や図書館に足を向ける。

1998年8月下旬、たとえようもない心細さ。そして、その後何度も繰り返された絶望感と徒労感。途方に暮れた瞬間。そこから、わたしの研究ははじまった。実は、いまも論文を書いている。行きづまっているわけではないが、もう一度原点に返って、自分を奮い立たせてから、自分の論文に向きあいたいと思っている。

【追記】

先日、このブログで触れた「若い研究者」から何度かメールが来た。最近のメールには、このようにあった。

謝罪の手紙を出したいのだが、出していいかどうか、メールで返事をして下さい。

もう、無視しようと思う。「謝ってやるからメールをよこせ」とか、「メールで返事した謝ってやる」とか。そんな風にとってしまうのは、やはりわたしが「小さい」からだろう。また、謝る、謝るといいながら、その実、やっぱり自分は間違っていないと主張しているように思うのも、わたしがきっと狭量なのだろう。

で、わたしは、別に謝って欲しいわけではないのだ。その「若い研究者」が論文に書いた記述に対して、根拠を示してほしいだけなのだ。しかし、そのことは、「ひとまず置い」て、とにかく謝りたいそうなのだが。でも、重ねていうけど、わたしは謝って欲しいわけではないのです。

わたしは特別器用でも優秀でもないけれど、とにかく我慢強く、ねばり強く食らいついてきた。それを要領よく自分の業績にして、キャリア・アップをすることもできないでいます。勤務先では理不尽な目に遭い、全くの雑事に忙殺される中、それでもこの夏沖縄に行って調査をすることが心の支えになっている。それほど、追いつめられてしまっている。しかし、どこの馬の骨と知らぬ見ず知らずのわたしに快く資料を公開して下さったり、話しをきかせて頂いたりして方々のことが、いまでも目に浮かぶのです。

そうした方々にせめても真摯に向きあうために、あの途方に暮れた日々があり、荒野を歩くような心細さに耐えてきた。それが、わたしのたったひとつの矜持でもあるのです。

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