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2007年4月17日 (火)

つめたさ

他人の悲しみや苦しみに、どうしても共感できない人がいる。別に、悪意があるわけではないのだが。他人の悲しみや苦しみに涙しながら、その実ちっとも心がこもっていないことが透けて見えてしまう人がいる。きっと、一生懸命にその人の感情をわかろうとしているのだろう。それとも、社会的儀礼? 他人だけではなく自分の感情にかかわることを質問されると、自分が攻撃されていると感じてしまって、「どうしてですか?」とついつい聞いてしまう人がいる。

普通の人から見ると、きっと冷淡な態度で、冷酷な性格の人なのだろうなぁと思われているのだろう。そういう人を、わたしたちは上手に受け入れていかなければならない。そして、自分もそうではないかと疑ってみることも必要だ。自分から少し離れたところの悲劇に直面しても、涙も出ない、なんの感情も生まれてこないときに、自分はとてつもなく冷たい人間ではないかと、そのことのみに感情があふれてしまうことが、われわれにはときとしてあり得るのだと思う。

きょう、長崎市長が銃撃された。容態は予断を許さないという。そのさなかのこの国の首相のことばにある種の冷たさ、冷酷さを感じたのは恐らくわたしだけではないだろう。しかし、そのある種の冷たさは政治家特有の冷酷さでもなく、無神経で気配りのない冷淡さでもないような気がするのだ。あえて言えば、氷のように燃えながら凍えるようにに突き刺してくる彼自身の生来の、あるいは、後天性の暴力性の発露ではないかと思うのだ。それは、怒りではなく、悲しみに突き動かされている。

そのようなぞっとするような冷たさは、あるいは、彼自身が本当の愛情というものを受けたり、感じたりしたことがないからではないか。そう思うのは、わたしの妄想だろうか。

先にもいったように、わたしたちはこのようなとてつもなく深い悲しみの穴を抱えて、それ故に他人の不幸や悲劇に共感できないで苦悶している人間を、暖かく受け入れなければならないと思う。そのような人間は、他人のどのような悲しみよりももっともっと大きな悲しみを、たとえようもない地球上最大の虚無を自分が抱えていることに苦しんでいるはずだ。だから、だれかがそれを愛情で少しずつ、だんだんい暖めていくしかない。あの人の日頃の言動を見ていて、何となく感じたことが、きょうのこの事件で一挙にわかったような気がする。

本当は、とてもかわいそうな人なのだ。他人の苦しみや悲しみに共感できない悲しみを自らのうちに抱え込んでしまった人。おそらく、それは、彼自身のせいではない。それは彼自身の個人的な悲劇だから、繰り返して言うがわたしたちは受け入れなければならない。

しかし、それが国家や国民の悲劇になるとき、わたしたちはそれを看過してはならないとも思う。あの人は、首相になどなるべきではなかった。そして、そもそも政治家という職業に最も向いていない人が、生まれたところが不幸のはじまりで、最もたどり着いてはならないところにたどり着いてしまった。その彼自身の不幸が、今やこの国に住む国民や他国民、周辺の国々の民、そして、世界人類の不幸になりかけている。時代とは、こういうものかと思う。

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