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2007年4月26日 (木)

「最も小さい者」になりなさい。

【K女学院大学の「チャペルアワー」での証し】

「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである』」(「マタイによる福音書」 25章40節)。

わたしが教会に通いはじめたころ、この聖書の言葉に感心した覚えがあります。キリスト教という宗教は、「最も小さい者」、つまり、自分より立場の弱いひとや、ハンディキャップを負っているひと、それから、貧しいひとのために何かをしてあげることが、「わたし」、つまり、イエス・キリストにしてあげたことと同じことである。そう、牧師が礼拝の説教で述べたのです。それまで、わたしはひとを助けるということをそういうふうに考えていなかったのです。だから、わたしにとって、この聖書の言葉は魅力的に響いたのです。

ひとを助けるという発想は、決して悪いことではありません。そして、敢えていいますが、ひとを助けるということは一種の快感です。なぜなら、ひとを助けているときに、「自分にはひとを助ける資格や能力があるということが自他共に認められた」と、感じるからです。でも、それは、自分はもしかすると本当は助けられる存在かもしれないことを忘れた、高慢で、驕った考え方だと、みなさんも思うでしょう。助けられる方は気持ちがいいけれども、助けてあげていると思われている方はどうなのだろうかと考えると、問題は複雑になります。そんな、驕った気持ちがあのころのわたしにはあったのです。わたしは、あのころ、確かに誰かの役に立ちたいと真剣に思っていたし、それが自分にできるものだと思っていたのです。でも、いまから思い返すと、そのころのわたしはずいぶん思い上がっていたのでしょうね。

そう思うようになったのには、いくつか理由があります。

まず、この聖書のことばの本当の意味です。この「最も小さい者」ということばには、貧しいとか、劣っているとかいうことばは本来ありません。だから、このことばは、わたしがはじめに教会で聞いたときのような単純な話ではないのです。マタイによる福音書第25章第31節からはじまるこの一連の物語のあらすじは、こうです。

この個所には、わたしたちの聖書には「すべての民族を裁く」という表題がついています。まず、イエスが栄光の座に就いたとき、すべての国の人びとはイエスの前に集められます。そして、右と左にわけられます。「羊を右、山羊を左」と聖書にはありますが、なぜ羊と山羊なのか、なぜ右と左なのかといった細かいことは気にせずに物語をつづけましょう。こうして人びとを分け終わると、イエスは最初に右側の人に向かって話しはじめます。「あなたたちはわたし(=イエス)が飢えていたときには食べ物を与え、のどが渇いているときには水を飲ませ、旅をしていたときには宿を貸し、着るものがなくて困っていたときには服を与え、病気のときには見舞いをし、牢獄につながれているときには訪ねてきてくれた。だから、あなたたちは祝福されるのだ」と。しかし、それを聞いていた右側の「羊グループ」の人は、そんなことをした覚えがまったくないのです。だから、イエスに聞き直します。「わたしたちは、いつそのようなことをあなたにしたのでしょうか」と。そこでイエスはいいます。「あなた方は、確かにわたしにはなにもしていない。しかし、『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人』に、あなたたちはわたしが言ったことをしたではないか。彼らにしたことはわたしにしたことにもなるのだよ」と。

物語の後半は、これまでのあらすじと、まさに、ネガとポジの関係です。つまり、左側のひとたちは、「最も小さい」人たちになにもしなかったので、呪われるというお話しです。

話を戻すと、この「最も小さい」という言葉には、自分より劣っているとか、貧しいとか、あるいは、子どもであるとかという意味は、本来ないのです。狭い意味ではイエスの教えに共鳴して、その教えを旅をしながら伝えている人のことです。もっと広い意味では、キリスト教の信仰を持っていて、働いて日々の生活の糧を得、自分の生活や労働の中で聖書の教えを実践しているごく普通の庶民のことだという解釈も可能かもしれません。

だから、わたしがここでこだわりたいのは、「最も小さい者」とは誰かということです。このことばには、本来、人を卑下するような意味は込められていませんでした。しかし、人を助けるということを、聖書を使って正当化しようとするあまり、「助けられる人」のを勝手に「小さい者」、つまり、劣っている、病んでいる、貧しい、傷害を負っているひとというふうに決めつけるという都合のいい解釈をして、自分はいつの間にか助ける側に回って、「助ける、助ける」といいながら、心理的優位に立って「助けられる人」を知らず知らずのうちに見下すようになっているのではないでしょうか。しかも、このように助けるひとと助けられるひとの人間関係が上下関係(支配・被支配の関係など)として固定化されようになるのです。そうなると、「ひとを助ける」という本来の姿からは、大きく逸脱してしまっているといえるでしょう。「ひとを助けるということは、一種の快感です」といったのはそういう意味です。聖書はこんな行為を肯定はしていませんし、奨励もしていないのです。

もうひとつ、この物語には大切なメッセージが込められています。それは、「イエス・キリストはどこにいるのか」ということです。聖書を注意深く読むとすぐにわかることですが、イエスは何かをしてあげる側には立っていません。わたしたちに何かをしてもらう立場に立っています。もっというと、食料や飲み物、服や宿をめぐんでもらい、看病され、見舞われる立場に、イエス・キリストは立っておられるということです。

これは、かわいそうな人、恵まれない人にたいしては、イエス・キリストにするつもりで丁寧な扱いをしなさいというような比喩的な意味ではありません。イエスに従うということは、自らそのような立場に身を置きながら、キリストの福音を宣べ伝えるということです。そして、キリスト教の信仰をもつということは、人の高見に立って自分が誰かを救えると思いこむことではありません。経済的にまったく満たされない生活をしながら、福音を説き、傷ついたりやんだりするひとの友となり、泣いているひととともに泣きながら、福音を宣べ伝える一生をおくった。そして、ついには、わたしたちの罪と苦しみの一切を引き受けて十字架にかけられて殺された。そんな、見ようによってまったく報われない、惨めな一生をおくったひとりの人間を救い主だと告白することが、キリスト教の信仰なのです。

イエスはこの物語を語り終えられたあと、「人の子は、十字架にかけられるために引き渡される」(マタイ、26:2)という預言をされます。つまり、自分はまもなく逮捕され、罪がないまま裁かれて、十字架にかけられるのだと、弟子たちの前で預言されたのです。

自分たちが救い主だと期待し、自分たちの住んでいる時代や世界を変えてくれるのではないかという思惑をもってイエスに従ってきた人に、イエスはこの謎のような言葉を残して、やがて十字架の上で最期を迎えられる。その衝撃的なできごとに直面して、弟子たちはたいそう混乱します。しかし、彼らは、イエスの死からしばらくしてから、イエスが本当に救い主であったということを悟りまし。そして、彼らは、それからひとが変わったように死に物狂いでイエスの教えを全世界に伝えはじめます。まさに、イエスがいった「最も小さい者」のひとりとして。

経済的に恵まれたひとが恵まれたひとを援助する。権力や腕力が強いひとが弱いひとを助ける。そのようなことがあたりまえだと思っていたわたしたちに、イエスは自分は助ける人の側にはいなくて、物を乞い、助けられる人の側にいるのだとおっしゃる。そして、イエスは自分と同じ「最も小さい者」たちがしている働きを支えなさいとおっしゃっているのです。

このような思想と行動は、確かにわたしたちの世界観を変えます。そして、それによってわたしたちの住んでいる世界は、少しずつ良い方向に変わっていくのではないかと、わたしは期待しています。

それでは、それぞれのことばで、それぞれにお祈りをしましょう。

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