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2007年4月15日 - 2007年4月21日

2007年4月17日 (火)

つめたさ

他人の悲しみや苦しみに、どうしても共感できない人がいる。別に、悪意があるわけではないのだが。他人の悲しみや苦しみに涙しながら、その実ちっとも心がこもっていないことが透けて見えてしまう人がいる。きっと、一生懸命にその人の感情をわかろうとしているのだろう。それとも、社会的儀礼? 他人だけではなく自分の感情にかかわることを質問されると、自分が攻撃されていると感じてしまって、「どうしてですか?」とついつい聞いてしまう人がいる。

普通の人から見ると、きっと冷淡な態度で、冷酷な性格の人なのだろうなぁと思われているのだろう。そういう人を、わたしたちは上手に受け入れていかなければならない。そして、自分もそうではないかと疑ってみることも必要だ。自分から少し離れたところの悲劇に直面しても、涙も出ない、なんの感情も生まれてこないときに、自分はとてつもなく冷たい人間ではないかと、そのことのみに感情があふれてしまうことが、われわれにはときとしてあり得るのだと思う。

きょう、長崎市長が銃撃された。容態は予断を許さないという。そのさなかのこの国の首相のことばにある種の冷たさ、冷酷さを感じたのは恐らくわたしだけではないだろう。しかし、そのある種の冷たさは政治家特有の冷酷さでもなく、無神経で気配りのない冷淡さでもないような気がするのだ。あえて言えば、氷のように燃えながら凍えるようにに突き刺してくる彼自身の生来の、あるいは、後天性の暴力性の発露ではないかと思うのだ。それは、怒りではなく、悲しみに突き動かされている。

そのようなぞっとするような冷たさは、あるいは、彼自身が本当の愛情というものを受けたり、感じたりしたことがないからではないか。そう思うのは、わたしの妄想だろうか。

先にもいったように、わたしたちはこのようなとてつもなく深い悲しみの穴を抱えて、それ故に他人の不幸や悲劇に共感できないで苦悶している人間を、暖かく受け入れなければならないと思う。そのような人間は、他人のどのような悲しみよりももっともっと大きな悲しみを、たとえようもない地球上最大の虚無を自分が抱えていることに苦しんでいるはずだ。だから、だれかがそれを愛情で少しずつ、だんだんい暖めていくしかない。あの人の日頃の言動を見ていて、何となく感じたことが、きょうのこの事件で一挙にわかったような気がする。

本当は、とてもかわいそうな人なのだ。他人の苦しみや悲しみに共感できない悲しみを自らのうちに抱え込んでしまった人。おそらく、それは、彼自身のせいではない。それは彼自身の個人的な悲劇だから、繰り返して言うがわたしたちは受け入れなければならない。

しかし、それが国家や国民の悲劇になるとき、わたしたちはそれを看過してはならないとも思う。あの人は、首相になどなるべきではなかった。そして、そもそも政治家という職業に最も向いていない人が、生まれたところが不幸のはじまりで、最もたどり着いてはならないところにたどり着いてしまった。その彼自身の不幸が、今やこの国に住む国民や他国民、周辺の国々の民、そして、世界人類の不幸になりかけている。時代とは、こういうものかと思う。

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2007年4月16日 (月)

戦後沖縄キリスト教史講義 第1講 イントロダクション そのⅠ

Ⅰ.この講義でなにを目ざすのか

 この講義はキリスト教の講義です。つまり、キリスト教や教会、キリスト教徒の歴史の講義です。歴史 とは、理念や理想ではなく、現実や実態です。つまり、キリスト教史は聖書にどんなすばらしいことが書いてあって、教会やクリスチャンはそれをどれだけ忠実 に守っているかという事実だけを集めて、教会やキリスト教を検証することが目的ではないとわたしは思っています。むしろ、聖書に書かれている事柄がいかに 守られていないか、また、いかにねじ曲げられているか、あるいは、聖書を解釈することでキリストや聖書の精神が歪曲されていったかの事実を探求する学問で あると思っています。だから、キリスト教がかかわって引き起こされた悲劇や事件、誤解や摩擦などを生んできた実態を解明することだと思っています。
 このように、キリスト教にとって都合の悪い事実は教会や聖職者によって隠蔽されている恐れがあります。だから、ときとしてそのような隠された事実を“暴く”ことは必要になってくるかもしれません。

 それから、この講義ではキリスト教は“ひとつ”ではなく、“いくつも”あると考えています。通常、キリスト教史で“いくつものキリスト教”という と、カトリックとプロテスタント、正教会の別、あるいはプロテスタントの教派が想起されます。しかし、ここでいう“いくつものキリスト教”とはそのことで はありません。
 わたしは信徒ですから、自分が通っている教会はどんな教派・教団に属していて、牧師はどこの神学校出身かなどということは余り重 要ではないと考えています。それよりも、自分の信仰の中身が大事だと思っています。日々直面する様々な問題に自分がどのように立ち向かい、生活や仕事の場 でクリスチャンとしてどのように生きていくのか。また、社会問題や政治問題に対してキリスト教の信仰を根幹に据え、その上で自分の思想・信条に照らし合わ せてどうブレない自分を構築していくのか。そんなことが重要だと考えています。これは、キリスト教(神学)的にいえば、自分がどのような信仰を神様に向 かって告白するかということでしょうか。
 だから、たとえ同じ教派・教団の属していても、また、同じ教会で同じ時間に礼拝にでて、同じ牧師の同じ 説教を聞いたとしても、それぞれの信仰は一様ではないと考えています。つまり、それぞれの信仰の中身は性差や階級意識、貧富の差、地位や立場によって規定 されているのであって、他教派・教団や他教会の信徒であっても同じ信仰を告白するものはいるのだし、極言すればキリスト者でなくても通じあう信条があり、 問題意識を共有することもあると思います。そのような可能性に目を向けるため、この講義では「地域教会」という概念を用います。

 教会は地域社会の中に建っている。こう改めて認識したのは、あの阪神大震災のときでした。当時、わたしは大阪のT教会の信徒だったのですが、震災 後約1年経過して神戸の教会に転会しました。先の認識は、神戸の教会での体験がもとになっています。教会は地域に建っている。地域社会は信徒や求道者の生 活の場です。同時に、地域社会は教会にとって伝道の最前線です。そして、そこでは日々いろいろな問題が起こっており、地域社会の住民はその問題群の解決を 迫られています。
 地域に建つ教会は、その問題の解決のために、なにをなし得たのか、あるいは、なし得なかったのか。わたしのキリスト教史はそれを検証する場であると考えています。そのような検討を通じて、日本社会のなかにあってマイノリティであるキリスト教の存在意義や可能性が探ることができるように思います。

 それから、もうひとつこの講義で問題にしたいことがあります。それは、政治とキリスト教の関わりです。
 荒っぽい言い方ですが、福音主義的な傾向の強い教会、あるいは教派・教団では教会や教会員が社会や時制との関わりを極力さける傾向があります。反対に、近代化や民主化の過程でキリスト教は重要な役割を果たしたのだから、キリスト教は政治的な公正や正義を追究するために積極的に政治や社会問題にかかわっていかなければならないとする立場もあります。
 この講義では、戦争や軍事占領、植民地下での支配者と被支配者との双方のキリスト教を採りあげます。ついてに、傍観者(=日本本土)のキリスト教についても少し考えたいと思っています。
 宗教はひとをまとめる力をもっています。同時に、宗教はひとを排除する力ももっています。また、宗教はひとを動かす力をもっています。宗教の重要な要素は“救い”や“癒し”ですが、それだけではない宗教の姿、平和の宗教とばかりいえないキリスト教の実相が、戦後の沖縄のキリスト教を詳細に調査することで見えてくると思うのです。

 最後になりましたが、「ひとが、ひとを助ける」とはどういうことなのでしょうか。新約聖書の「マタイによる福音書」第25章第40節に次のようなことばがあります。

わたしたちの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

この「わたし」はイエス・キリストのことです。みなさんはこの聖句をどう思いますか。この「小さい者」とは誰のことでしょうか。また、「小さい者の一人にした」とはどういうことでしょうか。「慈善」や「チャリティー」といったことばはキリスト教の、いわば「専売特許」のようになっています。しかし、このことばに偽善の匂いを嗅ぎとるひともいることでしょう。また、それこそがキリスト教の象徴であると主張するひともいるでしょう。
 上記の聖句は、本来、救う者と救われる者の立場の逆転が描かれていると思うのですが、現実は、残念ながらそうではありません。現実には、救う者と救われる者との立場が固定化し、それが政治的経済的支配と被支配の構造と結びつくことで、救うという行為がある種の臭気を放ちながら《支配する側=救う側》と《支配される側=救われる側》との関係が恒常化していくのではないかと思うのです。
 軍事支配・占領下における支配者の宗教としてのキリスト教を被支配者が信仰することで、キリスト教伝道の最前線としての「地域社会」と地元のキリスト教会・信徒の間にいかなる摩擦や軋轢、また、協力や癒着、羨望と感化など、複雑で絡み合った感情が巻き起こってきたかを考察できると思うのです。

 さて、この講義は、ひょっとするとあなたのキリスト教観や教会観、クリスチャンの見方を変えるかもしれません。
 キリスト教(イエス・キリスト)を信じているひとには、自分の信仰に一度疑問を抱いて、それを根本から見直す機会にしてほしいと思います。また、キリスト教を疑ったり、反感や敵意を持っているひと、あるいは、キリスト教などどうでもいいと思っているひとには、信じるというのはどういうことかを、一度考え直すきっかけにしてほしいと思います。

 次回は、「ガイダンス その2」として、なぜ、「戦後」の、「沖縄」のキリスト教史を採りあげるかについて、述べます。

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