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2007年7月15日 - 2007年7月21日

2007年7月16日 (月)

軍事占領下沖縄における“救い”と“癒し”の陥穽─キリスト教、国家、地域社会─(※ 仮アップ。大幅変更あり)

はじめに
 沖縄は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の後、約27年間に及ぶ異民族による植民地的支配と軍事基地化を経験した。この理不尽な占領体制は、1972年5月15日、形式的には終了する。しかし、普天間(ふてんま)基地の辺野古(へのこ)沖への移転や沖縄国際大学への軍用ヘリ墜落事件とその事後処理を見ると、沖縄は日米両国協同による「沖縄再占領」という新たな段階に直面しているのではないかとさえ思える。したがって、表題にある「軍事占領下」とは、通常、沖縄戦から「本土復帰」までを指すが、ここでは復帰後の事象も含むものとする。
 このような歴史的経験をもつ沖縄で、外来の宗教であると同時に占領者の宗教であるキリスト教は、どのような“救い”や“癒し”を提示してきたのだろうか。そもそも、沖縄は、個人的なものと同時に、歴史的な(敢えていうならば、民族的な)苦難を背負い続けている。このような沖縄という地域が背負った歴史的苦難は、今後も根本的に除かれないまま、“救い”や“癒し”を求める祈りが延々と続けられているのである。
 さて、本稿は、日米二大国のはざまに置かれた沖縄地域社会で語られ、祈られ、実践されてきた“救い”や“癒し”を政治的・軍事的・歴史的な文脈でとらえなおすことを目的としている。そうすることで、「沖縄のキリスト教」に向けられたまなざしの問題を析出し、「沖縄の」という虚構へと誘う陥穽の正体と対峙できるのではないかと考えている。

Ⅰ.沖縄のキリスト教の多様性と「周辺化」
 沖縄のキリスト教は、他の地域のそれと同様に、その形態や信仰の表明方法等々は、実に多様である。それを「沖縄のキリスト教」として表象するときに、何をもって代表させるかによってそこに見える風景は異なってしまう。
沖縄(本)島は県の政治・経済の中心で、人口の約90%が集中している。また、その約20%は米軍基地として「占領」(他に自衛隊基地もある)されており、北・中部に集中している。これらの地域では米軍が駐留することで経済的な恩恵がもたらされる一方で、いわゆる「基地被害(事件・事故、騒音・汚染等の環境破壊等々)」が横行してきた。
 キリスト教会は、沖縄島に全体の約9割があり、普天間や嘉手納(かでな)といった大規模基地がある中部には、そのうちの半数近くが集中している。県都・那覇市がある南部は中部より人口は多いが、教会数は若干少ない。しかも、沖縄バプテスト連盟(以下「沖縄バプ連」)所属教会や福音主義系の諸教派、単立の教会が多い。こられは米軍関係者の信者が多くいたりすることから、沖縄島中部への教会の偏在は米軍基地の存在と無関係ではない。中部では、沖縄人教会員でも軍用地主や基地雇用者等々基地に生活を依存者も多い。そうした中部の教会で語られる “救い”や“癒し”の福音と、大都市の那覇市近辺で語られる福音、また、同じ沖縄にあっても戦後一貫して大規模な米軍基地が存在しなかった宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島(先島(さきしま))等で語られる福音は、いずれも同一ではない。
 極東最大の嘉手納基地があるコザ(現沖縄市)には米兵相手の売春街である「特殊飲食街(特飲街(とくいんがい))」がいくつかあった。その一つ「吉原(よしわら)」に隣接している日本基督教団(以下、「日基教団」)コザ教会は、基地の街でも最も人間性が抑圧されているこの地を選んで建てられた。しかし、特飲街への伝道は、そこに利権を持つ暴力団に阻まれたりして必ずしも成功していない。そこでは抽象的な平和の福音はまったく説得力を持たない。そして、これらの困難さを顧みず、沖縄のキリスト教を平和運動に直接結びつけるような短絡や、現実から逸脱した“救い”や“癒し”語る安直さは、沖縄のキリスト教の多様性と問題性を単一的なイメージに押し込め、特異性を過剰に強調することで沖縄を日本の「辺境」「周縁」に固定化することになるのではないか。
 他方、沖縄には、キリスト教に限らず、大国に依存しつつもそこから利益を得ることで、国家や国境を相対化し、国家と一定の距離や緊張感を保つバランス感覚がある。そこにも外来者が沖縄の宗教やキリスト教を見るときに陥りがちな陥穽が潜んでいる。また、沖縄には、東アジアの冷戦構造等々の国際情勢を源とする様々な「力=ベクトル」が集中しているため、沖縄で起こっている出来事は皮相の部分だけではとてもとらえきれない。そこで、筆者は、さしあたり「依存と自立」「統合と分断」「包摂と切断」という相矛盾する力学が沖縄では同時に働いていると考えている。

Ⅱ.占領体制の構築とキリスト教伝道の開始
 第二次世界大戦中、沖縄の諸教会は沖縄戦を前に事実上消滅していた。戦局悪化で日本出身牧師の大半と沖縄人牧師は信徒と教会を置き去りにして疎開船で本土へ渡った(なかには、「犬死にしたくない」と去った沖縄人牧師もいる)。沖縄戦終了時、生き残った牧師は3名。そのうち1人は45年8月にマラリアに倒れ、他の1人は伝道師、残りの1人は病身の身であった。ようやく生きのびた信徒たちは民間人捕虜収容所で、米軍のチャプレン(従軍牧師)や米兵たちの指導のもとで集会をもち、信徒指導者たちは互いに按手礼を執行して伝道者となった。戦後の沖縄教会を「信徒の教会」と呼ぶのは、それ故である。
 1945年8月15日に石川(現うるま市)の収容所に生き残った指導者が集められ、沖縄諮詢(しじゅん)会が組織されると、その主要ポスト3つをキリスト者がしめた。當山(とうやま)正堅(せいけん)は文化部長として伝道者を諮詢会職員として俸給を与え、米軍の支援を得て伝道にあたらせた。また、彼は、米本土やハワイの民間団体から届いた支援物資の集積と配分を担った。伝道者たちの互助的組織として46年初頭沖縄キリスト聯盟が組織された。これは、1950年6月、「全琉球プロテスタントの超教派的単一教会」をめざして沖縄キリスト教会となった。
 しかし、これらの見方はあくまでも沖縄人から見た戦後の沖縄の教会形成史である。米軍は当初から沖縄人キリスト者や教会を「宣撫工作」に利用した。宗教団体の指導を分掌する文化部文化課では「軍政府所属牧師」の指導が明記されていた。また、47年1月に改正された「沖縄キリスト聯盟会則」で顧問として軍政副長官(沖縄の現地最高司令官)と軍政府牧師、それに民政府知事(志喜屋(しきや)孝信(こうしん))が顧問として名を連ねていた。
 また、米国キリスト教協議会の外国伝道部門・北米外国伝道局(FMCNA)にあるメソジスト教会等を中心とした「沖縄特別委員会」では、沖縄伝道のための基本計画が1940年代には出来上がっていた。それは、宣教師による沖縄教会の組織化、合同教会の創設、カレッジの設立、病院の運用、米国の神学校への沖縄人派遣のための奨学金の創設で、これらは50年代にほとんど実現されている。
 また、既に、日本本土では、Douglas MacArthur(GHQ総司令官)が個人的に在米キリスト教各派に1,000名規模の宣教師派遣を要請したが、沖縄伝道に際しても占領軍は最大限の支援を約束した。49年5月、東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局での会議の席上、John H. Weckerling (GHQ琉球課長、准将)やBill Woodard (同宗教局代表)、比屋根(ひやね)安定(あんてい)(同宗教顧問、沖縄出身の高名な宗教学者)は、約20名のキリスト教各派の宣教師に沖縄伝道を強く働きかけて便宜を図ることを約束した。また、Weckerlingは比屋根にキリスト教による沖縄の精神的復興を目的として沖縄への伝道旅行を要請した。
 このようにGHQが日本や沖縄伝道を各派に働きかけた背景にあるのは、1940年代の終盤から50年代初頭に次々起こった東アジアの国際情勢は劇的な変化であった(中華人民共和国の成立、朝鮮戦争、対日講和条約と日米安保条約の締結)。米国は極東の防共と軍事拠点として沖縄の半永久的軍事占領を既定路線化した。そのために、沖縄の治安や社会情勢の安定は日米両国にとって重要事項になってくる。キリスト教はそのための「宣撫工作」の手段となっていったが、これは沖縄の教会関係者や沖縄人たちは知る由もなかった。
 戦後沖縄のキリスト教のもう一つの特徴は米占領軍の誘導・先導による教会組織の形成と伝道であり、その外形的目的は沖縄戦によって深く傷ついた沖縄人への“救い”や“癒し”であったが、他にもう一つ、占領地の宣撫工作という、隠された大きな目的があった。以下ではそのことの証左をいくつか挙げながら、支配者のそのような意図に対して沖縄のキリスト者はどう対応してきたかについて論じる。

Ⅲ.沖縄の軍事化とキリスト教
 1950年代FMCNAから沖縄にはじめて派遣されたOtis W. Bell宣教師は、たまたま米軍による暴力的な軍用地強制収用を目撃する。そして、それを“The Christian Century”(1954.1.20)に「沖縄人に対して公平にふるまえ」という題で寄稿する。この論文により、日米で沖縄の基地問題がはじめて顕在化した。その結果、55年10月に米国議会下院軍事委員会調査団(「プライス調査団」)が派遣された。ところで、このように大きな働きをしたBellは、55年1月、沖縄からの異動を命じられ日本本土に転任させられる。もちろん、彼の論文がこの異動の原因になったか否かは定かではない。しかし、これ以降、反軍的な発言をする米国人宣教師は沖縄から排除されるという事実が続くことになる。
 また、この年、沖縄教会が決定した信仰告白の異端性を宣教師団が指摘し、経済的援助の凍結を盾にその破棄を迫った「信仰告白」論争が起こる。米国人宣教師が、沖縄教会に異端信仰のレッテルをはって批判する。これは、さながら、植民者の被植民者に対する態度である。また、自らの主張を通すために経済的制裁をちらつかせる手法は、占領軍の沖縄人に対する恫喝そのままである。さらに、この論争を仕掛けた2名の宣教師、Harold C. RickardとMario C. Barberi Jr.が事態収拾に失敗したと見たFMCNAは、翌年年配の老練な宣教師を沖縄に派遣する。そして、それぞれ時間をおいて両宣教師を八重山に転任せさ、2人は沖縄島に戻ることはなかった。60年代になると、はっきりと軍のサイドに立ち、米軍のベトナム攻撃を防共の観点から肯定し、東アジアの安定のために沖縄人たちに忍従を強いる宣教師も現れたという。
 また、1953年11月、沖縄キリスト教会を離脱した沖縄バプ連では、同連盟普天間バプテスト教会のWilliam T. Randall牧師が反軍言動が理由に同連盟から宣教師を解任された (「ランドール宣教師解任事件」1979.6)。その背景には、この教派の複雑な事情が絡んでいる。沖縄バプ連最大の教会Central Baptist Church in Okinawaは「英語教会」「アメリカ人教会」と呼ばれており、会員のほとんどが米軍将兵またはその関係者である。この大教会とコザの二つの教会によって、米軍占領下の沖縄バプ連は支配されていた。また、その代表のEdward E. Bollinger宣教師等は在沖宣教師を沖縄人牧師・信徒と同様に指導の名のもとに監視し、反軍的言動をする宣教師を発見すると、「精神的な異常」を理由に沖縄から退去させ、一方では、沖縄の教会には潤沢な伝道資金を援助しつつ、教会を通して沖縄の地域社会に反米感情が広がらないように工作をした。
 このように沖縄の教会は、実は多様な価値観を有しており、さまざまな力学が集中する中で複雑にねじれながら存在している。

Ⅳ.沖縄の“痛み”と共犯への誘惑
 1945年〜60年の『うるま新報』、『琉球新報』、『沖縄タイムス』等々には、クリスマスやイースター等々の行事のたびに米兵個人や部隊が「恵まれない人びと」の施設に対して多くの贈り物や奉仕が行われたことが掲載されている。米兵たちが沖縄人にとって「善き隣人(Good Samaritan)」であることを、軍政当局はことあるごとにアピールした。また、将校や軍チャプレン、宣教師が米兵と沖縄人との間にできた子どもをひきとるという「美談」も繰り返し報道されたが、父親である米兵に養育を拒否され、路頭に迷っている母子がいかにして生まれるかについての言及はほとんど見られなかった。
 愛隣園は沖縄キリスト教会が在米キリスト教児童福祉団体からの資金援助で立てられたものだが、当時の理事長・Walter W. Krider宣教師の次のことばに占領体制下でのこの施設と沖縄教会の米国人による位置づけがよくあらわれている。「創設以来混血児(GI・チルドレン)が十三名収容され、その内五名は現在留まっているが、八名はすでにアメリカの家庭に養子となってアメリカに渡って行った。沖縄の子供はまだ貰われた事はない」。つまり、米人は孤児や要保護児童を父親がだれであるかで平然と選別しているのである。
 結局、愛隣園や沖縄教会はそこに米軍基地があることで社会の底辺に必然的に生じる“痛み”をともなった社会問題の解決の一端を担わされてきた。しかし、その“痛み”は絶えず再生産されており、米兵たちの慈善行為により隠蔽されているのである。しかも、これらの善意で沖縄人自身が救う側と救われる側に分断され、固定されている。同時に、救う側の沖縄人は占領体制強化のため宣撫工作を行う非公式部門に吸収されていく。そのような構造が占領下の沖縄には存在し、キリスト教会は明らかにその末端に組み込まれていた。
 60年代になると、それはより広範で露骨になった。この頃、クリスマス等になると沖縄の牧師は米軍基地に招かれ、将校用のレストランで饗応を受けることが慣例になっていた。ある年、那覇空軍基地に招いた牧師たちを、チャプレンは最高度の軍事機密であるスクランブル・エリアに導いた。そして、遠回しに米軍が沖縄や日本にとって必要であることを沖縄の地域住民に沖縄人牧師の口から伝えてほしいといわれたという。その場にいた、数人の牧師は自分たちが米軍の宣撫工作に利用されていたと認識して翌年から基地内での行事に参加しないよう申し合わせた。
 この出来事とほぼ同時期、平良(たいら)修(おさむ)(当時沖縄キリスト教短期大学学長)による「新高等弁務官就任式における祈祷」事件がおこる(1966.11.2)。平良は米国の神学者・Reinhold Niebuhrのことばを引きながら「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と新高等弁務官と占領軍首脳、琉球政府関係者を前にして祈った。この一件は在沖米国人宣教師にとっては衝撃的な内容であったようで、平良が原稿をネイティブ・チェックのために事前にある米国人宣教師にみせたところ、彼は宣教師代表をともなって平良に「最後の高等弁務官…」の個所を削除するように強硬に申し入れをしたという。宣教師団は、自分たちが占領軍と沖縄教会の仲介をして様々な便宜を図ってきたのに、この祈祷で両者の “良好”な関係が破壊されるというのである。
 この事件の前までは沖縄キリスト教団総会や沖縄キリスト教短大の入学式・卒業式には軍装のチャプレンが来賓として臨席していた。沖縄教会はなにより戦後焼け野が原の中で信徒の教会が伝道をはじめてからチャプレンや米軍関係者から多大な援助を受けてきた。また、平良ら若い牧師たちの大半は、基地内の軍教会からの献金で奨学金を得て日本や米国本土の神学校で教育を受けてきた。これは、被植民者と統治者との関係そのままであった。その関係から沖縄教会が脱却を図ったとき、それまでの蜜月の時期の便宜供与の裏返しとして、被植民者たちは植民者からの監視と恫喝を受けることになる。新任のチャプレンがその交替の度に武装した兵士をともなって彼らの教会に「挨拶」に来たという。
 占領下にあって、その地域住民の“痛み”と日々向き合っている沖縄教会の牧師や信徒のすべてがこのように「反基地」の旗幟を鮮明にしたわけではない。しかし、沖縄のキリスト教は占領者の宗教であることから、沖縄教会は占領当局に対しても沖縄の住民に対しても微妙な距離感をもっていた。そのなかで、ある者たちは軍からの「共犯関係」の誘惑を断ち切り、反基地闘争・祖国復帰運動に傾斜する地域住民の立場にたって、その者たちの“痛み”を共有する選択をした者もいた。

おわりに─キリスト教と国家との相剋─
 沖縄のことばわざに、「物(むぬ)呉(く)ゆ者(むぬ)ど我が御主(うしゅ)」ということばがある。このことわざは2つの相対する意味があるという。ひとつは、文字通り自分たちに利益を及ぼす者であれば、どんな者であれ支配者と受け入れるという沖縄人の対権力への関係性を表している。今ひとつは、支配者が自分たちに利益をもたらさなくなったら、自らの手でその支配者を放逐するという革命の論理である。沖縄人たちはこうして日本や中国、そして、米国との国家権力の間でバランスをとりながら今日までその存在を維持してきた。そして、このような行動原理は沖縄教会でも機能しているが、それは表面にはなかなか現れない。沖縄戦や異民族による軍事支配という過酷な歴史的経験を経ても、なお逞しく生きているように見える沖縄人や沖縄教会にとっての“救い”や“癒し”を理解する困難さはここにある。
 また、沖縄の“痛み”もまた、複雑な構造と背景をもっている。それでも、敢えてその“痛み”を一言で表すならば、「恵(めぐみ)と災いを同時にもたらす“痛み”」とでも言わざるを得ない。それが災いや苦難のみをもたらすのであれば除去すればいい。しかし、それは同時に人びとの生活に深く根ざしており、生活を支え、利益や便宜を与え続けている。そこに沖縄教会で “救い”や“救い”をことばにし、行動に移すことの困難がある。つまり、その“痛み”は単純に取り除いてしまうと、自らを傷つけてしまうものであるからだ。
 沖縄は“癒し”の島と呼ばれている。その「体験者」たちが持ち帰る思い出の中の「沖縄」は予定調和的で、思い描いたとおりの「沖縄」でなければならない。そのため、戦争は遠い過去のこととして認識され、今なお続く生々しい沖縄の“痛み”は捨象され、無視され、隠蔽されている。こうして、現実とは違う「沖縄」が内外に流布されていく。研究者もまた、このようなまなざしから決して自由になってはいない。沖縄の宗教がもつ“救い”や“癒し”の力を強調する背後に、沖縄を後進的地域として認識し、そこから「失われた日本」を探索する試みがあるかどうかを、われわれ研究者は常に注視しなければならないのではないか。また、沖縄の土着的宗教や外来宗教の受容形態を日本のそれと比較し、自らの特殊性を顧みることなく、その違いをすべて沖縄の独自性に収斂させていくこと手法はまさにポストコロニアル的なそれといわざるを得ない。このような視線や手法は、沖縄で、今日もなお日々生み出されている“痛み”を沖縄が置かれた国際的・政治的位置を一切考慮に入れることなく、個人的な事象に矮小化することで、なお強化されている。

《参考文献》

  • 池上良正『悪霊と聖霊の舞台 ─沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界─』どうぶつ社、 1991年
  • 石川政秀『沖縄キリスト教史 ─排除と容認の軌跡─』いのちのことば社、 1994年
  • 一色 哲「戦後沖縄キリスト教史のなかの地域と教会─占領軍の統治政策とキリスト教児童福祉施設・愛隣園の研究─」『キリスト教史学』第55集、2001年7月
  • ────「軍事占領と地域教会─1950年代中盤の沖縄教会を事例に─」『キリスト教史学』第57集、2003年7月
  • ────「戦後沖縄キリスト教史研究の方法と課題─地域教会形成とキリスト教交流史の試み─」『キリスト教史学』第59集、2005年7月
  • ────「沖縄理解のための方法と課題─戦後沖縄キリスト教史から学んだこと─」『福音と世界』第60巻第12号、2005年12月
  • ────『米国占領下沖縄におけるキリスト教会の自立と共生』 (科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 ; 2002年度〜2005年度)、2006年6月
  • ────「日本基督教団における沖縄教会観の起源とその変遷」『キリスト教史学』第61集、2007年7月
  • 小川 順敬「民俗宗教からキリスト教へ─ある沖縄のキリスト教会の物語─」『駒沢大学文化』第17号、1997年3月
  • 小林紀由「沖縄バプテスト連盟と『祖国復帰』」『精神科学』(日本大学哲学研究室)第38号、1997年11月
  • ────『戦後沖縄キリスト教の諸相』エーアンドエー、1999年
  • ────「「日本復帰」後の沖縄バプテスト連盟と米国教会--宣教師解任事件をめぐって」『研究紀要』(日本大学文理学部人文科学研究所)第59号、2000年
  • 日本基督教団沖縄教区編『27度線の南から─沖縄キリスト者の証言─』日本基督教団出版局、 1971年
  • 日本キリスト教団沖縄教区編『戦さ場と廃墟の中から─戦中・戦後の沖縄に生きた人々─』日本キリスト教団沖縄教区、 2004年
  • 日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編『日本基督教団史資料集 第3巻第3篇 日本基督教団の再編 : (1945〜1954年)、第4篇 沖縄キリスト教団の形成 : (1945〜1968年)』日本基督教団出版局、1998年
  • 古澤健太郎「信仰告白制定の経緯に見る『沖縄キリスト教会』の特質」『基督教研究』第68巻第1号、2006年8月
  • ─────「沖縄におけるキリスト教受容─沖縄バプテスト連盟と土着信仰に関係に見る─」『宗教と社会』第13号、2007年6月

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