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2007年12月2日 - 2007年12月8日

2007年12月 8日 (土)

〔速報〕日本キリスト教団東海教区元会計担当者による詐欺・横領事件の新展開

以前から、このブログで触れている日本キリスト教団東海教区元会計担当者による詐欺・横領事件について、共同通信社からの配信が行われたようです。そういえば、数日前、集中的に、共同通信社内のPCから当サイトに何度かアクセスがありました。

記事は、ここで読めます。

問題解決のための第一歩が踏み出されたと思いますが、ここまでに至った東海教区信徒有志の方々のご努力に対し、敬意を表したいと思います。

このブログで何度も述べたことですが、東海教区執行部のこの事件の処理の仕方(=隠蔽)は、同じく最近ここで述べた教団執行部による一牧師に対する「教師退任勧告」の決議と、全教会への恫喝文書の配布の背景にある問題は同根であると、わたしは思っています。また、諸事情で事件の経緯が明らかになるまで書くことを控えている事件もいくつかあります。そこにも、同じ問題が見て取れます。

いずれにしろ、このような教団をめぐる不条理が、現執行部による「伝道する教団」の現実です。

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2007年12月 6日 (木)

ある牧師の品性〜いっていいこと、いってはいけないこと〜

■高砂民毅「東京教区や西東京教区の集めた分担金の六割近くは他の教区で用いられている。相互扶助の基盤は共通の信仰告白。北村〔慈郎=引用者註〕常議員が言われていることでは、相互扶助する必要はないというところまで発展していく。北村常議員が撤回されるか、また自分の信じるところに従い自分の道に向かって進んでいくというものまた一つだ。」(『教団ジャーナル 風』vol.22、2007年12月3日、p.6)

これは、去る2007年10月23日日本キリスト教団第35総会期第3回常議員会で教団議長から提案された「北村慈郎牧師に対し教師退任勧告を行う件」をめぐる議論で、可決間際に高砂民毅荻窪清水教会牧師(常議員会では陪席者)が、小林眞教団副議長(遠州教会牧師)に促されて発言した内容の要約である。

要するに、高砂氏が言いたいのは、「自分たちに言うことを聞かなかったら、経済封鎖をするぞ」ということだ。これを恫喝というのだが、恫喝しているのは牧師である。どんな牧師かと思って、Yahoo!で検索したが、たいした記事はない。Googleで検索すると………、ありました

 私たちは人生において、永遠に変わることのない真の慰めを持っているでしょうか。苦しい時、むなしい時、死に直面した時、ゆらぐことのない希望の確信を抱き続けることができるでしょうか。私たち人間は傲慢で、自己中心的な存在です。それでは真の慰め・平安は得られません。上記の信仰告白が示すように、心を開いて自分を主イエス・キリストに明け渡すのです。その時に真の慰め・平安は得られます。

 私たちの罪のため、身代わりとなって十字架についてくださったキリスト。このお方は三日目に復活され、信じる者には永遠の命が与えられることを約束してくださいました。このお方を一心に見つめ、ご一緒に礼拝を守りましょう。

                 牧師 高砂民宣
                 牧師 高砂民毅

また、

 この40余年の間、荻窪清水教会は礼拝を守る場所を確立すると共に、教会の在り方を模索してきました。 諸教派から多くのことを学びつつ、長老制度の教会を選択するに至りました。教会が拠って立つべき内的基盤、すなわち信仰告白の一致による協力と訓戒の制度を採択したと言えるでしょう。日本基督教団にありつつ連合長老会に加盟し、改革長老教会の伝統に立つ教会として、礼拝を重んじ、み言葉によって絶えず改革される教会の形成に努めています。さらに今後は、諸教会を覚えて祈る教会でありたいと願っています。(強調は引用者による)

荻窪清水教会のHPを見ると、彼の生い立ちや説教をいくつか見ることができる。たとえばこれ。それらによると、この発言の主は、齢70になんなんとする老牧師であった。昨年の春には、ご子息(青山学院大学准教授)と思われる方に主任の職をお譲りになっているようだ。しかし、分別のあるはずの牧会経験豊かな牧師が、なぜこのような晩節を汚すような言葉を吐いてしまうのだろうか。

さて、ここでは、個人攻撃が目的ではない。

キリスト教に限らず、宗教や信仰は人や人類社会、地球や宇宙の自然のためにあるのであって、それらが宗教や信仰のためにあるのではない。教団の規則や聖書の隻句を教条的に取り上げて、人を裁き、排除していくことがキリスト教の使命であるとは思えない。繰り返すが、聖書やキリスト教の信仰、教会や牧師は、人のためにあるのだ。そして、この「人」とは、信者(正式な教会員)をのみ指すのではない。教会にいる未受洗者、求道者、それから、今は教会やキリスト教と出会うことなど夢想だにしていないが、いずれそこに招かれるであろう市井の人々を指している。と、わたし思っている。

それから、教団は教会である。今回の高砂牧師の発言は、教会のメンバーに向かって、「自分たちの行くことを聞かず、教会の方針に逆らうのなら、教会を出て行け。どうせ、お前たちは教会を出たら、自活もできない貧乏人なのだから、文句は言うな」と、いうことである。これは、沖縄のキリスト教史を研究対象にしているわたしにとっては、決して看過できない発言である。このような牧師や執行部には、到底沖縄やその他「地方」の教会のことを理解することはできないであろう。

さて、もう一つだけ付言すると、こうして、組織内の反対派を排除し、教条的な協議に傾斜していく宗教のことを、「カルト」と呼ぶ。日本キリスト教団、少なくとも、執行部やそれに近い教会、あるいは、東京近郊の大教会では、ますます原理主義的な主張が大きくなり、カルト化が進みつつあるのではないかと、憂慮している。

※ 上記については、今後順次、書き足すことがあります。

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