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2007年1月28日 - 2007年2月3日

2007年2月 2日 (金)

ある寓話

ある大きな川沿いにある、中っくらいの街のお話しです。

その街は、夏になると、たいした雨が降ったわけでもないのに、毎年決まって洪水に襲われていました。それは、わたしが、まだ、生まれる前のことでしたが、そんなにずっと前からではなく、つい最近のことでもありませんでした。ただ、ずーっとそこに住んでいるわたしの両親や祖父母たちが忘れてしまうぐらい前のことでした。

そして、ある年のこと、また夏になって、恐ろしい洪水がやってきました。まだ、小さかったわたしは、ずいぶん恐ろしい思いをしていました。ところが、その年から、洪水が終わると、どこからともなく知らない人たちがやってきて、わたしたちのための食料を配りはじめました。そして、傷ついた人の手当をし、お金に困っている人には義捐金をくれました。また、壊れた家を片づけ、泥だらけの道路を掃除し、悪い病気がはやらないように消毒をして回りました。決壊した川の堤防もとっても早く直してくれたのです。

その知らない人たちは、翌年も、そのまた翌年も、決まって洪水が終わるとやってきました。わたしたちは、はじめ、その人たちのことを不思議にも思ったし、気味悪くも思っていました。しかし、そんなことが何年も、何年も続くと、知り合いも増え、わたしたちとの交流も少しずつ盛んになってきました。

わたしたちは、はじめその人たちの話していることばがわかりませんでしたが、その人たちが建て直してくれた学校で、その人たちの話していることばを学ぶことができるようになりました。わたしたちのことばの先生はその人たちのなかで一番偉い位にいる人で、賢く、優しそうな人でした。

それから、その人たちと片言の話ができるようになるまでちょっと時間はかかりましたが、その分だけわたしたちとその人たちの絆は深まった気がしました。それは、なにより、その人たちが親切で、暖かく、また、人なつっこく、よく働く人であったからです。ですから、わたしたちは、恐ろしい洪水もそのときをしのげば、またきっとあの人たちが助けに来てくれる。そして、あの人たちがこの街にいる間は、あの人たちから珍しいお土産をもらい、知らない国のお話を聞き、楽しい時間が過ごせるようになると考えて、知らず知らずのうちにあの恐ろしかった洪水を心待ちにするようになっていたのです。

ところが、もうじゅうぶん大人になったわたしは、ある日突然、本当に唐突に、その人たちがどんなひとなのか、知りたくなっていました。それで、ある年の夏、いつものように洪水がやってきて、その人たちがどこからともなく、「やあ」とやってきて、後片づけやら何やらをさっと片づけて、ひと月ほど街のみんなと楽しい時間を去っていったとき、わたしはその人たちに気付かれないように、そっとあとをつけたのでした。

何日も、何日も、その人たちに気付かれないようについて行くのは大変でした。彼らは、険しい川沿いの山道や崖を、上流のほうへ進んでいきました。そして、半月くらい行ったときのことです。わたしたちはやっとその人たちが住む、上流の、大きな街に着きました。するとそこは高い城壁でまもられた要塞のような街でした。門番がいたり、検問があったり、いろいろ大変でしたが、何とかその街にはいることができました。

そこでは、男の人も女の人も、大人も子どもも忙しなく歩き回り、働いたり、学んだりしていました。そして、いくつもある空港からは、どこかと戦争でも始めたのでしょうか、戦闘機や輸送機が、絶え間なく離発着を繰り返していました。わたしは、そこで見たひとびとの顔が、わたしの中くらいの街で親切にわたしたちを助けてくれていた人々と同じようには、とうてい思えませんでした。

しばらくあてもなく歩き回っていると、広場にぽつんと寂しそうに座っていた老人がいました。その老人に話を聞くと、「この街は昔から周辺の街に戦争を仕掛けては、そこを破壊してきた。そして、その破壊された街に乗り込んでは、そこを修復し、困っているひとを助けることで信用を得て、その街を自分たちの勢力下においてきた。そうして「征服」された街は、いつのまにかこの街の助けがないと生きて行かれなっていくのだ」。そう、老人は寂しそうにわたしに話してくれたのです。

そのときわたしは、気がついたのです。わたしの街を毎年襲う恐ろしい洪水は、この人たちが起こしていたことを。そう、あの親切で、気さくで、世話好きで、わたしたちのためによく働いてくれた人たちが、わたしたちを毎年苦しめる洪水のもとだったこと。そして、そのことに何年も、何十年も、わたしたちは気がつかなかったことを。

いまとなっては、あの人たちをつけていったことを、とても後悔しています。その街にさえ行かなかったら、わたしたちはいまだに彼らのことを救い主だと思っていたに違いありません。そして、未来永劫続く楽しい時間を教授できたかもしれません。しかし、すべてを知ってしまったいま、その人たちと前のように笑いあうことは、わたしたちにはけっしてできなくなってしまいました。あの人たちがこれまでわたしたちにしてくれたことはとっても感謝しているのだけれど、それでも、わたしたちは二度と、笑顔を取り戻すことができなくなってしまいました。そして、人間の善意を信じることも………。

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2007年1月28日 (日)

沖縄と米兵~「辺野古へ」のコメントへのレスポンス~

先日の「辺野古へ 」にccoさんからコメントをいただいた。毎度のことで、遅くなってしまったが、この場でお返事したと思う。

まず、ccoさんとは昨年12月のクリスマスにはじめて直接お会いした。また、それ以前から、わたしのブログにしばしばいらっしゃってくださっている。そういう方と、こうして意見のやりとりができるのは、ネットの世界ならではで、うれしいことだ。

さて、先の記事で辺野古に行きたいと行った彼女(わたしの講義の受講生)が沖縄や辺野古についてどう見ているのかは、わたしが知る由もない。ccoさんの質問の主旨は、おそらくわたしが辺野古の、つまり、辺野古で基地拡張の反対闘争をしている人たちをどう思っているなということなのだろうと解釈している。

わたしは基本的に地域のことは地域で決めるべきだと考えている。当事者性がなかったり、薄かったりする問題についてあれこれ介入することはよくないことだと思っている。また、ある問題のなかで当事者性のあることに限っては発言が許されると考えているものの、それ以外はなるべく当事者の意見を尊重すべきだと、基本的にわたしは考えている。

その上でのことであるが、辺野古の場合、それ(地域問題に関する地域の「自決権」)が貫徹されていないのではないかと思っている。また、別の側面では、辺野古でおこっている問題は、地域的な問題であるとと同時に国家的な問題でもあり、日米国家間の問題でもあり、グローバルな問題でもある。だから、日本在住の一市民であるわたしにもわずかな当事者性と発生している問題についての「責任」があるように思うので、控え気味にではあるが、発言する余地がわたしにもあるだろうと思う。

さて、地域の「自決権」「自己決定権」とは、どんなものであろうか。辺野古で起きている問題については、それを争点に選挙をして住民が意思表示をするにしても、名護市の選挙になると人口の少ない辺野古地区の人びとの意見は、それが例え一致していたとしても通りにくい。沖縄県の選挙だと他の争点に紛れてしまう。また、それは、この問題を争点化するのを避けたい人たちがする一種の隠蔽工作という側面もあるだろう。とにかく、辺野古の人たちは賛成にしろ、反対にしろ、自分たちに地域に関する「自決権」「自己決定権」を充分行使できないでいる。そして、その理由を住民の意見が割れていることに帰着させることは、やはり無理であり、間違っていると思う。辺野古地区外の大きな力、小さな力が無数に絡み合い、関連しあって、そこで起きた矛盾があの狭い地域に集約され、それが住民を引き裂いているのだろうと思う。

わたし自身は前の記事でも公言しているように辺野古での運動には距離を置いている。だから、辺野古の座り込みには参加したことがないのだが、辺野古には何度か訪れている。街のなかには「社交街」があって、たなびく星条旗が壁一面に殴り書きされている建物もみた。それは、辺野古という街が、米軍と米軍兵士と「共存」してきた証しなのであろう。ccoさんがいっている地域住民と米軍基地に駐留中の“プライベート”な関係もおそらく事実なのだろうと思う。そして、もっといろんなところで辺野古の住民と米兵とは「個人的」な交流をしているのだろうと思う。

なるほど。米軍が今後半永久的に沖縄、なかんずく辺野古に駐留するのであれば、地域住民の方々は米兵となるべく摩擦を起こさないように生活するように考えるだろう。それは生きるための方便であり、米軍や米兵も同じだと思う。米軍も沖縄に駐留するかぎりはそれぞれの地域でなるべく摩擦を起こさないように過ごし、米兵はできれば快適に過ごすために地域住民との交流をはかる。敵視や疑心の中で「共存」することは、つらいことだから。しかし、わたしがこれまでの占領下沖縄の研究の過程で得た認識では、それはけして米兵たちの「個人的」な友好や友情の証しなどではなく、米軍の軍隊としての作戦・工作の一環ではないかと思う。

沖縄に駐留している米兵は、何年も沖縄にとどまったりはしない。期限が来ると帰国したり、他国の基地に移っていく。それは、通常1年とか1年半とかのサイクルだと聞いている。辺野古の住民と米兵との友好・友情関係が個人的なものであり、かつ、深いものであれば、きっと離沖した米兵と個人的な関係が続いてるだろうと思うが、実際はどうなのであろうか。わたしがかつてした聞き取りでは、辺野古ではないが、他の地域在住の牧師のところへ近くの基地のチャプレン(従軍・基地内教会所属牧師)がやってきてたいそう仲よくなり、いろんなことを話したが、そのチャプレンが離沖したあとしばらく続いていた交流が突然とぎれたことが、何度かあるとのことだ。チャプレンが地元の牧師に近づいて何をやっていたのか、また、どんな思惑があったのかは知る由もないが、しかし、だいたいの憶測はつく。

わたしは沖縄の研究をするものでありながらも、辺野古できょうも、そして、いま現在も座り込みをつづけている人たちと、一定の距離を置いている。しかし、その人たちの行為が、無駄で、意味のなことだと思ったことは一度もない。実際に辺野古に座り込んでいる人の中にはいろんな立場の人がいるだろう。そこに「ヘリポート」ができると利害得失を最も被ると自社である地域住民の方々もいるが、なかには座り込みをすることで自分の立場の正当性を証明するためにわざわざ本土からやってくる人もいるだろう。

────辺野古の自然をまもるために座る込みをするほど自然保護に関心があるのなら、まず、自分のところの自然保護運動をして下さい。自分のところでは自然を犠牲にして快適で便利な生活をしながら、辺野古に来たときだけ自然保護を主張するのはおかしいでしょう。

────そんなに辺野古に基地ができることに反対するのであれば、あなたたちは本土に帰って自分のところに普天間基地の移転先を誘致して下さい。あるいは、あなたが住んでいるところの米軍基地を撤去するために動いて下さい。それが沖縄の、辺野古のためにもなりますよ。

以前、沖縄在住のある方からこのように向けられた問いかけの答えを、わたしは未だに探し続けている。

沖縄人であるccoさんの問いかけは、日本人であるわたしの沖縄に対する立場や視座を問いかけているものだろうと思う。そして、それは、沖縄でのわたしの活動の選択肢を著しく制限するかもしれない危険なものであるとも思う。でも、言わなくてはならないことは、いつかは言わなくてならない。

沖縄の住む方々が米軍基地がこれからもずっと存続することを望んでいるのであれば、わたしはその意思を尊重しなくてはなりません。しかし、その理由を米兵との交流に局限化したり、矮小化してもいいものなのでしょうか。

そんなことを沖縄人に向かっていう資格が本土日本人であるわたしにはないことは承知しています。しかし、那覇近辺を生活圏と指定人たちには、この問題について当事者性があるのでしょうか。沖縄に米軍基地があり、辺野古に新しい基地ができることで、回りまわってわたしはその利益の一端を享受するかもしれない。だから、ごくごく間接的で、部分的ではあるけれど、わたしには当事者性の欠片があります。

その責任の一端を担おうと思っているから、わたしは、今もこうして研究を続けているのだと思います。いつか、誰か、わたしがしたささやかな研究の成果を共有し、生かしてくれるのではないかと、淡い期待を夢見つつ………。

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