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2007年12月9日 - 2007年12月15日

2007年12月15日 (土)

〔速報〕沖縄に行きます。

年末の、押し迫った、何かと、各所、お忙しい時期でしょうが、下記の通り、沖縄を訪問します。

・期 間:2007年12月25日〜30日の6日間
・目的地:沖縄・那覇近辺

今回は、前回8月の調査で目をつけていた1940年代の史料にアプローチする予定です。

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「殉教」ではない。あなたたちは「迫害」されているのではない。〜「教師退任勧告」と「東海教区詐欺・横領事件」のこれから〜

近代日本におけるキリスト教の特徴のひとつは、自らが日本社会におけるマイノリティであることの過剰な意識からくる「被迫害観」ともいえる歴史観を有し、それを神話化する傾向にあると思う。つまり、それは

自分たちは明治以降百数十年経ったにも拘わらず、いまだにこの社会では少数者に甘んじている。それは、この異教社会が邪教に支配され、真の神の支配を受けていないからである。自分たちは、真の神の教えを説いているから、間違っていて、邪悪な者たちから常に迫害や妨害を受けているので、いまだにキリスト教の教勢がのびないのである。

というものである。そして、そこには、しばしば「正しいから迫害されている」のではなく、「迫害されているから、自分たちは正しいのである」という論理の転倒が見られる。

このことを前提に、ここ数ヵ月間に日本キリスト教団に起こった出来事とそれに対する日本のキリスト教界の中枢部の反応を読み解いていくと、意外なことがわかる。

20071213ついに、日本キリスト教団東海教区の元会計担当者による詐欺・横領事件の記事が『週刊新潮』12月20日号に載った。タイトルは、「6900万『横領事件」』日本基督教団に『カルト化の危機』」(同誌、p.152)。教団や教区の幹部は、いまごろ、さぞかしあわてていることだろう。

しかし、これで、事態が収拾されるかというと、そう簡単にもいくまい。

この記事によると、教区議長は「取材の依頼をほぼ無視」しているらしいが、「監督責任すら問われなかった教区の議長は、今年、堂々と再任を果たしています。つまり、刑事事件を避けたのは、自分がポストから外れないためだったわけです(後略)」という信徒の発言が載っている。また、別の情報によると、北紀吉東海教区議長(愛宕町教会)は、共同通信の記事の配信をさして、自分を教区議長のポストから引きずりおろしたい勢力がやっていることである、というようなことを発言しているらしいのだ。

この心性は、冒頭の「被迫害観」から説明できないこともないだろう。つまり、「自分は正しいことをしているから、迫害されているのだ」と。これが、いつの間にか、「自分は迫害されているから、正しいのだ」という転倒を起こさないことを祈るのみだ。こうなると、事態の平和的収集は困難になってくるだろう。

一方、教団中央の「教師退任勧告」である。

実は、以前も述べた「教師退任勧告」について、日本キリスト教団の総会議長・山北宣久氏の言い分を知ろうと思って同教団の機関誌『教団新報』(第4640号、2007年12月8日)を買い求めた。

山北宣久「未受洗者配餐をめぐって/苦渋にみちた「勧告」に至るには」。このコメントは「聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする」という「教団教会」規則(準則)第8条①の但し書きからはじまっている。

全体的な印象として、オーバーな表現が多いなか、目をひいたのは、議長自身がいかに多くの敵に囲まれていて、その無軌道で邪悪な敵に自身が立ちむかって、「正しい聖礼典の執行」を守っているような表現であった。

「闇討ち、騙し討ちだとの意見が抗議として渦巻いています」。
「『勧告』はいかにも無茶だとする声も満ちています」。
「招聘制を破壊するものだとの声も湧き上がっています」。

いくつかの節の書き出しが、こうなっている。そして、この文書の特色は、

(1)反対する人たちのことを、集団として捉えていて、個別の意見の差異を捨象している。
(2)全体的に問題を正しいか間違っているかの単純な二分法で捉えていている。
(3)自分に反対する人たちの声を過大に表現したあとで、そのあとにいかに自分が正しいかを強調しているというパターンを多用している。

しかし、これらは明らかに事実の誤認や錯誤、あるいは意図的捏造である。実際には、常議員会では多数決でこの案が可決されたわけだから、少なくとも議長の意見は少数意見ではない。しかし、自分は多くの邪悪な敵に囲まれていると、主張しているのである。議長は、ひょっとすると、本気でそれを信じているのかも知れないが、事実はそうではない。このようなところに、議長は反対派を殲滅しようとしているのではないか、という疑心暗鬼を生じさせる余地が教団内に生まれはじめている。

これも、日本のキリスト教界に伝統的にみられる「被迫害観」に基づく自己正当化の手法である。これは、教団議長やその指示する人びとの信仰が、純粋性と単一性を追求するものであり、宗教的な心情としては間違っていない。しかし、それをこの世の現実を変えずに、無理矢理適応しようとすると、相当な問題が生じるので、同時にそのような問題をどう回避したらしいかを考えなければならない。しかし、それが、今の教団執行部には徹底的にかけている。反対派を排除するのでは、問題は解決しない。むしろ、反対派と対話し、意見を調整し、それをいかに理想に近づけるかの努力をしなければならないと思うのだが。

そして、それをしないのは、指導部の怠慢でさえある。

こうなると、いくつもの点から、問題の平和的解決はより困難になったといわざるを得ない。つまり、議論や対話などでこれらの問題を解決するのは絶望的なのか。教団の信徒や「世間」は固唾をのんでそれを見守っている。

双方に、問題解決の努力と歩み寄り、ねばり強い対話と旺盛な議論を望みたい。そして、そうさせてくださいと、神に祈りたいと思う。

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2007年12月13日 (木)

ある若い牧師への書簡〜「あなたに、望むこと。」〜

※ 詳細・経緯は省略しますが、以下は、最近、わたしがある若い牧師に宛てた書簡(メール)です。これは、ここにある「あなた」だけではなく、「あなた」に関係のある、若い牧師のことを思い浮かべながら書いたものです。

あなたに、望むこと。

あなたとともに教会で過ごした人、今過ごしている人、そして、これからすごすであろう人びと、そして、あなたの説教を聞いた人、将来聞くであろう人たちのなかには、確実に、次のような人がいます。

人の命をあずかっていて、ちょっとしたミスも許されない職場で働いている人びと。お医者さん、看護師さん、運転手など。それから、ちょっとしたミ スでクビになるような弱い立場のアルバイトで生計を立てている人。そんな人は、あなたの記事をどう読むでしょうか。それを考えて頂きたかったのです。

牧師は、初めての礼拝でミスをしても、教会員からは温かい目で許され、牧師同士で慰め合えるだろうけれど、先に述べた人びとは、あなたがしでかし た程度のミスで生活の基盤を失うかも知れないのです。それを考えると、牧師というのは実にのんきな商売です。でも、果たしてそうでしょうか。

また、あなたは、そのようなつましい生活をしている人からも集められた献金で賄われる謝儀と祈りをもって、教会から牧師とし立てられているので す。わたしたち信徒は「神様のご用のためにお用い下さい」といって献金を差し出すのですが、その金額ではなくて、それらの思いの対価としての働きをしてい るのか、今一度お考え下さい。

………(中略)………

わたしは、仕事柄、いろいろな牧師を見てきました。そのなかには、バカな牧師やくだらない牧師、威張る牧師、ノー天気な牧師、信徒を裏切り上ばか りを見ている牧師など、いろいろいます。だから、ハナから牧師には期待をしておりません。だから、わたしは、特別な牧師でなくても、完璧な牧師でなくても、ただ普通のことが 普通にできる普通の牧師であればいいと思っています。

………(中略)………

さて、わたしがただ一つ、牧師に望むとすれば、以下のことでしょうか。それは、信徒や求道者の方を向いた牧会をしてほしいということです。教団や教区のお偉いさんではなく、同僚牧師でもなく、ただ、ただ、信徒の方を向いて牧会をして欲しいのです。

あなたは、あなたの教会や、あなたの教区、教団の信徒の方を向いていますか? 東海教区では、例の詐欺・横領事件の件で、信徒の方が動きはじめて いるようですが、わたしの得た情報では、あなたは、その協力の要請を断られたと聞いています。それは、事実でしょうか。あなたのその判断が、信徒ではな く、教区議長に向いた結果ではないことを祈るのみです。

あなたの生活を支えているのも、横領されたものも、すべて信徒が教会や教区に捧げたものであり、その額の多寡で、重要性がかわるものではないのです。そのために献金をした信徒たちの思いを、どうか、汲んで欲しいのです。

繰り返しのなりますが、今後とも、信徒や求道者の方を向いた牧会を、あなたには期待しております。

数々の、ご無礼、お許し下さい。

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2007年12月 9日 (日)

「亀裂に癒しを!教団に癒しを!」

『風』(教団ジャーナル)vol.22(2007/12/3)を読んだ。今号は北村慈郎・紅葉坂教会牧師に対する日本キリスト教団常議員会の「教師退任勧告案」可決に関する特集であった。これについては、すでに、ここで少しだけ言及している。総力特集として「現場ドキュメント こうして退任勧告議案は強行採決された」を読むと、事件の経緯があらまし理解できた。

これは、同「勧告」に反対する人たちによる記述なので、そうではない立場の人たちの言い分を聞かなければならないだろう。これについてhじゃ『教団新報』(第4,640号、2007年12月8日)に教団総会議長山北宣久氏のコメント「苦渋に満ちた『勧告』に至るには」があり、これについてはすでに西宮聖文舎で手に入れているので、近々コメントしたい。

さて、今回の『風』の特集でわたしの目をひいたのは、知花正勝氏(沖縄教区議長・与那原教会牧師)の「常議員会陪席所感」だ。詳しくは、同誌を購読して、全文を読んで欲しいのだが、以下では、その一部、わたしの心に残ったところについて考えたい。

この所感は、このブログ記事の題名通りの書き出しになっている。

亀裂に癒しを!教区に癒しを!これが常議員会に陪席した者としての思いと祈りです。(同誌、p.8)

知花牧師は、2006年、沖縄教区議長に就任されたが、それまでの山里勝一議長・大城実副議長の体制の「本土教団とは距離を置く」という方針とは違って、常議員会や教団総会にも出席している方だ。その知花牧師の思いは、この引用部分に集約されていると思う。

まず、知花牧師は、この「所感」のなかで、はっきりとこの「勧告」に反対しておられる。その主たる理由は、教団が教会や教区の自律性(自立性)を無視し、教会や地方教区(東京教区・西東京教区の教団中央部に近い大教区を除く教区のこと)の現況をまったく理解しないで、「人権侵害」を公然としたことに対する怒りであり、教団執行部・常議員会の一部がそれらの地方教区・地域教会との対話を一方的に拒絶するその姿勢に対する反発であったと理解している。知花牧師は、現在の教団の体制を「形式的民主主義」「丁寧な議論を重ねない会議は民主的暴力装置」であるとしている。そういえば、現教団執行部は常議員会を沖縄で開催すべきであるとの提案(沖縄教区をはじめいくつかの教区からのもの)をかたくなに拒絶している。ここにも、彼らの対話を拒否する姿勢が現れている。

さて、知花牧師は、最後に、今回の一連の出来事だけではなく、現況団執行部が「合同のとらえなおし(合同のとらえ直し)」の継続や同性愛者差別問題への取り組みを拒否し、「戦責告白四〇周年記念」への取り組みを拒否したことを「病」と捉えて、教団にはその「病識がない」と嘆いておられる。

翻って、こうしていくつかの教団の問題点をブログで発信しているわたしの行為は、知花牧師のこの祈りにも似た訴えに、果たして呼応するものなのだろうか。そのことを、深く胸に刻んで、今後の研究に是非とも生かしていきたい。

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