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2008年2月 7日 (木)

臭い〜『信じる気持』からはじめよう〜

人のは、その人特有の臭いがある。そして、そのような人が集団になった時も、独特の臭いが生まれる。「臭い」──それは、共通の行動や思考から来るあるに通った印象、とでも言おうか、そういうものが妙に臭ってくるものに、出くわした。

現代の異端審問」と題したそのサイトには、富田正樹『信じる気持ち はじめてのキリスト教 』(日本キリスト教団出版局、2007年)について、日本キリスト教団議長と幾人かの牧師から、同出版局に回収や、出版停止、廃版を迫る圧力が加えられたこと、そして、その本を理由に著者は依頼されていた大阪教区総会での開会説教の講壇から「引きづりおろされ」たことなどが、教団議長の私的公文書(なんのこっちゃ、教団議長)や大阪教区の常置委員会の議事録などがアップされている。

わたしは、富田氏の本を二冊程持っている(『キリスト教との出会い 新約聖書』(同出版局、2002年)と『聖書資料集 』(同、2004年) )が、肝心の『信じる気持」は持っていない。だから、これらのできごとについて議論することは出来ないのだが、みんなはこれらの資料をどのように読むのだろうか。関心がある。

また、少々違和感もあった。このサイトを主催しているのは著者の富田正樹氏自身のようだが、先の文書史料の人名はほぼすべてイニシャルであった。文書中にもあるように、お互いに言葉に(本文中では「説教に」となっているが、要するにそこで語られる言葉に命をかけていると云うことだろう)命をかけているといっているのだがから、名前を出しても何ら死傷がないのではないだろうか。現実に、それらの文書は公開されているのだし。だから、富田氏は、当該の牧師を批判しながらも、どこか、最後の一線では牧師どうし、庇い合っているような印象を受けたのは、やはり、わたしの穿ちすぎだろうか。

ともかくも、一般の信徒からすると、確かに「躓き」になる話であるが、だれがどんな発言をしたか特定することも含めて、しるべきことではないかと思う。

それから、こんなのも見つけた。このリンクは、いつまで残っているか分からないが、ここ、ヨハン早稲田キリスト教会で山北宣久・日本キリスト教団総会議長が説教をしたとのこと。これも、幸いというか、生憎というか、わたしのパソコンではどういうわけか見ることも、聞くことも出来ないのだが、どうやら、どこかでそのときの模様が見れるらしい。

現に、その教会で、信じて必死に祈る人がいるのだから、風評を鵜呑みにして同教会を一方的に「ああだ、こうだ」と決めつけることはさけなければならないが、そこで、軽いジョーク(例の「宣久、センキュー」という奴です)を飛ばしながら、喜々として説教をする山北氏の姿を思い浮かべるにつけ、わたしにはどこかから、この人の身体や人生からにじみ出てくる、ある種の「臭い」がどうしても感じられて仕方がない。

さて、『信じる気持』の気持、よく分かります。わたしもほとんどキリスト教とのいないミッションスクールで不遜にも「キリスト教学」というのを教えていて痛感します。彼女たちのほとんどは、キリスト教やキリスト教徒に偽善の臭いを感じたり、不信を抱いていたり、裏があるのではないかと感じています。そこで、どうやったらキリスト教を「信じる気持」を育むことが出来るのか。それは、並大抵のことではありません。みんな、キリスト教の話を聞こうと思って集まっている教会で、「神を信じなさい」なんていうのは、簡単なことです。ついでにいうと、信徒の大半は、自らの信仰を積極的には証すことなく、日常生活をおくっているのです。それは、なぜか。答えは簡単です。それを信じてもらうには、キリスト教の論理は役には立たず、じゃまにすらなっているからです。

だから、キリスト教の良い所も悪い所も、信徒や牧師、宣教師がしたいいことも悪いことも、公平な視点で提示し、それの判断を聞いている学生にゆだねること。そして、キリスト教の信仰をもっていることが重要なのではなく、そのような信仰をもっているかにこだわることが大事なのだということを、何度も何度も繰り返し、例を変え、表現を変えて強調するしかないのです。

さて、わたしも、他人から見ると、ずいぶん臭い人物なのでしょう。あるいは煙たい人物なのかしら。そう、自問自答してみます。

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コメント

難しいことはわかりません。
でも今日を笑って過ごせればいいのではないでしょうか。

更新を楽しみにしております。

投稿: 沖縄短期アルバイター | 2008年2月 8日 (金) 00:19

富田先生のことはよく存じております。
同志社香里で、ほとんどがクリスチャンではない生徒たちに聖書科教師として必死で取り組んでおられる真摯な方だと思っています。

『信じる気持ち』に対する教団執行部の行動は、その後に行われた「教師退任勧告」と軌を一にする行動だと思われます。すなわち、「教団の教憲・教規・信仰告白に従わない教師は出ていけ」という執行部の方針の現れの一つということです。

『信じる気持ち』で最も問題とされたのは、イエスの復活のことを“本当に復活したかどうかわからないけれども、その後の弟子たちが生まれ変わったように殉教も辞さない宣教者になったことから見れば、復活は弟子たちにとって心証的真実であったと思われる”というように書いている点です(原文はもうちょっと長い話し言葉です)。反対派はこれを「イエスの復活を否定している」=教団信仰告白に違反している、と考えたようです。

しかしこのようなとらえかたは、19世紀にD・シュトラウスなどによって表明されているものであり、決して目新しいものではありません。どこの神学校でも教義史の授業で教えられる(はずの)内容なので、どうしてそれを今頃問題視するのか理解に苦しむところです。ちなみにシュトラウスの主著『イエスの生涯』は1996年に教文館から翻訳が出ていますが、『信じる気持ち』も教文館だったらよかったのでしょうか。

そう考えますと、やはり教師退任勧告同様、富田先生はスケープゴートにされてしまったということではないでしょうか。

最後に、富田先生が相手方のことをイニシャルにしているのは、相手をかばっているというよりは、がんらい富田先生が対立や争いを好まれないご性格だからなのでは、とわたしは推測します(そういう推測こそが“牧師同士のかばいあい”と言われそうですね)。

投稿: かのー | 2008年2月 8日 (金) 08:33

沖縄短期アルバイター さま

ご愛読ありがとうございます。

で、分からないことがあったので質問です。
>でも今日を笑って過ごせればいいのではないでしょうか。
質問1:だれが笑っていられるというのでしょうか。
質問2:だれひとり泣くことなく、みんなが笑って暮らせる社会を実現するための、気楽で、簡単な方法を、どうかご教示下さい。


>更新を楽しみにしております。
ご感想などをお聞かせ願えれば、幸甚です。

投稿: one(管理人) | 2008年2月10日 (日) 23:21

「信じる気持ち」について問題になったのは確かに復活についての彼の「ものの言い方」ですが、さらに洗礼や聖餐の項目にも「向こうさん」(という言い方も一定の臭いを放つのでしょうが)のツボにはまる「ものの言い方」があったからだと思います。また筆者が「解放劇」の脚本家・演出家である、というのも遠くの伏線として考えられるかもしれません。

ここで「ものの言い方」といったのは、結局、文章もまた発話であって、その人の生の語りを聞き、その語りの裏打ちとしての発話者自身を知っているのといないのとでは書かれたテキストの解釈はまったく異なる、という意味で、書かれていても「言い方」なのだと思うからです。あの文書を読んで、筆者の声色や大阪弁のあのニュアンスが「読める」人は、あの物言いの裏側の彼をも含めて理解するでしょうし、そういう「なまなましい」ものを共有できてい(しようとし)ない人にとっては、彼のあの発話もまた、批判の対象としての単なる固形物としての「言説」なのだとおもうのです。

ここで言われている一定の「臭い」を放つひとたちとお話していて、またその文書をよませていただいて、私が感じる違和感とは、要するに「ものの言い方」の作法や感覚を共有していない、そう、「文法」をまったく共有する気のない人たちに、一方的に私の「文法」を踏みにじられる、よって、知性を愚弄される、そういう不快感です。この人たちの発話は、自分たち以外の「ものいい」の文法体系をすべて「野蛮・未開」とする、完璧なまでの植民地主義であり帝国主義であり、よるするに「モダン」の枠から一歩も出ようとしない、前世紀の遺物が放つ「臭い」に満ちている、と思います。

ご自身もキリスト教主義学校で学び、「罰当たりな質問」を聖書の教員(=牧師)にぶつけ、理屈をこねながら、そうしているうちに牧師になった。そしてまた再び縁あってキリスト教主義学校で「罰当たりな質問」を投げかける生徒たちと戯れるうちに牧師であろうとする。そういう道を共有するものとして、この本は実に正直な「ものいい」に貫かれています。通俗的であるかもしれませんが、通俗こそ私たちの日常そのものです。「向こうさん」は通俗に*まみれた*「宣教」などなさらないのでしょう。しかし、それでは「高尚高級」な視点から繰り出される、「伝道」とかいうのはいったい何事でしょうか。そこには「モダン」に恋焦がれるところから避けようもなく生まれ出る、スタンダードであり、マジョリティたろうとする「媚諂い」がまったくないといえるでしょうか。

投稿: eucharistia | 2008年2月12日 (火) 12:57

かのー様

いろいろ、ご教示頂き、感謝しております。「イエスの復活」にしても、「聖餐」にしても、わたしたち信徒は、勉強不足からある一つの固定観念に染められてきたのではないかと、この間の様々な論争を見ていて思います。これからも、色お教え下さい。

それから、「牧師どうし、庇い合っているような印象を受けた」と書いたのは、言い過ぎだったかなぁと思っています。でも、富田さんにいろいろおっしゃっている牧師の方々も、自分の実存をかけて発言なさっているのだから、名前をイニシャルにするのはかえって不名誉だと感じておられるのではないかと思ったので、「実名を」と申し上げた次第です。どうでしょうか。

「あのときは勢いで言ったんだけど、こんな事を自分が言ったとみんなに知られるのは、イヤだ」というのなら、そのような人の説教を、わたしはどのように聞けばいいのでしょうか。

それと、もうひとつ。以前、さるところ(詳しくは言えないのですが)で、原罪の教団三役の方々は、記録されていない、密室で言ったことを、平気で「前言撤回」されたり、公式には、反対のことを発表したりしているようなので、このように、記録をし、それをできるだけたくさんの方に公開し、その上で、読者の良心と判断に任せるという方法は、有効であると思います。

投稿: one(管理人) | 2008年2月12日 (火) 22:42

eucharistiaさま、お返事遅くなりました。

>この人たちの発話は、自分たち以外の「ものいい」の文法体系をすべて「野蛮・未開」とする、完璧なまでの植民地主義であり帝国主義であり、よるするに「モダン」の枠から一歩も出ようとしない、前世紀の遺物が放つ「臭い」に満ちている、と思います。
とのこと。全くそうですね。これは、近代以降の日本のキリスト教の特徴でもありますね。日本のプロテスタントのキリスト教史を研究しているとそれを強く感じます。
明治初年、欧米の宣教師が「日本という異教世界」を“未開”“半開”として、自らの価値観をもって日本を文明国たらしめるように教育・指導をしようとした。その態度を、明治のキリスト教界の指導者は次第に内面化していったように思います。
それをわたしは「残滓」だと思うのですが、eucharistiaさんいうところの「向こうさん」は大切な「遺産」だと思っているのでしょう。日本のキリスト教は、戦争(日清・日露戦争以降)を経験し、「植民地」に出会い、海外伝道で“いくつものキリスト教”にであいました。そうして、欧米以外のキリスト教、キリスト教以外の世界に触れることで、その体験を積み重ねてかわってきた側面があります。
しかし、そうして変わり、変わろうとするキリスト者は“周縁”“辺境”での出会いと経験からそうなったのでしょうが、教団の“中央”“中心”にいるお偉い方々は教団を背負っておられ、日本を文明国たらしめるという召命を得ておられるようなので、変わりようがないのでしょうね。
このギャップは、そうとうに大きいように思います。

それでは、簡単ですが、このくらいで。また、来て下さいね。

投稿: one(管理人) | 2008年2月16日 (土) 10:17

AI先生
ていねいなご返答ありがとうございます。

そうですね、向こうがきちんと「公開」の形で発言したり、文章などをよこした場合は、名前を含めて全文を公開したほうがフェアですよね。私自身、気を付けたいと思います。

投稿: かのー | 2008年2月18日 (月) 17:46

名越様、先ほどは、当ブログにお越し下さり、ありがとうございました。
名越様への返答は下記にアップしましたので、ご覧下さい。
http://onecolor.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-ed5d.html

投稿: AI(one) | 2011年3月11日 (金) 10:03

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