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2008年3月25日 (火)

明治初年の地域社会における文化センターの役割〜岡山県井原・興譲館と柴原宗助〜

春の選抜高校野球で懐かしい名前を聞いた。「興譲館高校」。今年で創立154年になるという。

わたしが修士論文を書くため岡山県の自由民権運動とキリスト教の関係を調査するために、流れ流れて高梁に教会にあるたどり着き、牧師の許可を得てその教会で調査を始めた。あれはソウルオリンピックがあったり、前天皇の「下血報道」が行われていた時のこと。つまり、今から20年も前のことである。

その高梁では明治初期のころ、どういう訳かは分からぬが(一説には水が原因であるといわれている)新生児のうち男の子の割合が他地域よりずっと低かったという。そのため、士族や豪農・豪商の家では「跡取り」のため、他所より養子を招いていたという。そして、その養子の多くが高梁から山を越えた井原からやってきていた。

高梁の豪商のひとりで、県会議員にもなり、高梁に自由民権思想を持ち込んだ柴原宗助も井原生まれで、高梁の柴原家に養子となった。彼の実家は柳本といい、彼の兄の柳本瀧三郎は、興譲館の初代館主であった阪谷朗蘆から幹事の素読を学んだという。

維新後、朗蘆が広島藩に招かれ興譲館を去った後は甥の阪田警軒が教授にあたった。警軒は後に、初代の岡山県議会議長となり、1886年には同志社の漢文の教師として招かれた。その縁もあって、明治期、井原の興譲館で優秀な成績を収めた学生の多くは同志社へと進学していった。

また、福山の医師・窪田次郎らが中心となって結成された「細謹社」は啓蒙的な結社として、井原・福山・笠岡等を含んだ地域の文化的センターとして機能していた。その他、高梁や井原を含む岡山の備中地方には様々な啓蒙結社があり、そのうちのいくつかは、明治初年の地域社会に自由民権運動やキリスト教の「媒介」となったのである。

その後、わたしは、博士論文を仕上げてから、この地域の研究から離れたが、今でもふと気になることがある。「興譲館」。その名前を聞いて、やり残した宿題を思い出して、冷や汗を流している次第である。

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