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2008年3月20日 (木)

沖縄のキリスト者〜その、いくつもの顔〜

夕方、ホテルに帰って、朝買った『琉球新報』に目をとおすと、「『殺され、なぜ殉国死』 沖縄戦犠牲者の合祀批判」という記事の写真に、たったいままで話をしていた人の苦渋に満ちた顔を見た。向かって左から2目はNさんだ。

Nさんは、見るからに篤実なクリスチャンである一方、ご夫婦とも社会問題に高い関心と見識を有している方でもある。そのNさんは2002年に今回と同様の訴訟を起こす。Nさんの姉上のお一人M子さんは、沖縄戦で「ひめゆり部隊」の一員として伊原第三外科壕でなくなられている。M子さんはその後1955年に家族の了解なしに靖国神社に合祀されたという。この間の経緯は、Nさん御自身がその訴訟でしめされた「原告意見陳述書」に詳しい。

そして、Nさんの信仰に基づいた思想と行動は、Nさんのお父上のそれと繋がっている。だから、Nさんの語る姿はとてもおだやかなのだが、揺らぎがない。

その一方で、きょう、Yさんという信徒と面会した。彼のお父上も、Nさん同様、戦後沖縄のキリスト教伝道草創期を支えた牧師の一人である。Yさんは、日本キリスト教団ではない別の教派の信徒だが、沖縄の他のクリスチャン同様、他教派の事情には関心があるらしい。それで、教団のN中央教会のあららし牧師の人事や、自家用車の横っ腹に反基地のスローガンを書いている牧師のことを指して、牧師が沖縄の社会運動や政治問題に関わることに疑問をしめされた。

Yさんの考え方はわたしの考え方とは違っていて、わたし自身はどちらかというとNさんの考えに近い。しかし、Yさんの考え方もアリで、決して頭から否定すべきではないと思う。そう感じたのは、ここ数ヶ月のYさんとのやりとりからだ。Yさんは、Yさんなりに、信仰にかけて、筋を通そうとして上司と常にぶつかっていたお父上のことを、非常に親愛を込めて、肯定的に評価されている。

教会や牧師、信徒の社会運動や政治運動に消極的で、常に聖書の御言葉を生活の基盤として、絶えずそれを口にしながら、それに忠実にあろうとする信徒は、沖縄に多い(社会運動や政治活動に熱心なキリスト者が、聖書を軽んじているということはないのだが)。そのような信徒でも、やはり、抑圧や権力の横暴には敏感で、権力や権威とは距離をとりながら批判するところは批判している。

わたしは、Nさんのような仕草や表情が作れるキリスト者になりたいと思う。だからといって、Yさんの信仰を否定したりすることはできない。そんな権利はないのだ。

さて、明日は、どんな沖縄のクリスチャンやノン・クリスチャンに出会えるのだろうか。

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コメント

わたしもネットでこの記事を読みました。
以前の訴訟の頃、『キリスト者平和ネット・ニュースレター』にNさんが寄稿された文章は心に響くものでした。また当時、沖縄タイムスでも、原告のお一人として記事が掲載されていました。

投稿: okaken | 2008年3月22日 (土) 10:12

okakenさん、お久しぶりです。

今回の沖縄での調査では、ことのほか、いろいろなことを見聞きしました。

それだけに、Nさんのようなこころのたたずまいが切実に思われます。自分の問題、地域の問題に静かに向き合い、大きな声を上げるのでもなく、人の前に出るでもなく、祈りのなかで揺るぎのない想いを育てていく。

そのような生き方に出会えたことに、感謝しています。

投稿: one(管理人) | 2008年3月23日 (日) 07:50

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