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2008年9月23日 (火)

キリスト教史学会と「神学校」の役割

キリスト教史学会での研究発表も無事終わりました。年間4本の学会発表は、わたしにとってチャレンジングなことでしたが、何か自信のようなものが自分の中に生まれました。

しかし、気になったこともありました。それは、今回の学会に同志社大学神学部、関西学院大学神学部、そして、東京神学大学からほとんど教員も院生も研究発表をしなかったことです。同志社の神学部長である原誠さんは参加しておられましたが、熊本バンドに関する基調講演をされただけで、自分のゼミの院生や学部生をつれてこられてはなかったような気がします。わたしの見落としでしょうか。それに引き替え、先週参加した日本基督教学会ではそれぞれの「神学校」から教員が多数参加していたし、院生も活発な研究発表・討論をしていました。だからこそ、なおさら、その落差を感じています。

神学校、特に大学の神学部の一義的役割は、専門的な知識や技能を持った伝道者を養成することにあります。しかし、それだけではなく、それぞれの関連学会で日本の神学を代表し、先導していくこともそれらの神学校の重要な役割ではないかと思うのです。

その点で、同志社や関学の神学部は、キリスト教史学会を見限ったということでしょうか。この学会は、日本基督教学会に比べると確かに神学プロパーの専門性では劣っているように見えます。しかし、この学会には牧師や神学部の教師・学生だけではなく、キリスト教系ではない大学の出身者やそのような大学で学んだり、教えたりしている人たちも多数参加しており、伝道者の歴史神学ではない、信徒としてのキリスト教史学を大いに論じています。その点で、これから伝道者になろうとしている人や神学校で神学を講じている碩学にも得るところの多い場であると思いますが、いかがでしょうか。

いま、日本のキリスト教界では「プロテスタント宣教150周年」の奉祝を契機に、その問題性が鋭く問われはじめています。これは改めて論じたいのですが、ベッテルハイムの琉球伝道を日本キリスト教史にどう位置づけていくのかや、そもそもなぜ「プロテスタント」だけなのか(フォルカード神父は、ベッテルハイムより早い1844年から2年間琉球に滞在したといわれる)など論じるべき問題は多くあると思います。

このようなテーマは、神学部やキリスト教史学会などで論じるべき大きなテーマになりうると思うのですが、しかし、わたしの出席した両学会ではそれについての言及はただの一度きりであったと思います。

さて、批判ばかりをしてきましたが、日本基督教学会での院生たちの熱のこもった研究発表を拝見して、思いました。それら熱のある学生をこれからどこに導いていくのか、神学校やそこで教鞭ととっておられる方々の責任はきわめて重いと。

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