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2008年3月9日 - 2008年3月15日

2008年3月 9日 (日)

聞き取りは、史料としての価値があるのか〜ある大学院生の問いに答えて〜

きのう、一(大)仕事終わって、きょうからからしばらく東京です。

きのうの仕事というのは、キリスト教史学会関西支部会での研究発表でした。わたしの報告は、「1940年代後半の沖縄教会─新たに発見した史料から見る─」。戦後沖縄キリスト教史研究で、11940年代の史料これまでほとんどないといわれてきました。しかし、その壁を何とか突破しなければ、その後の歴史も描けないと思っています。

そして、一生懸命探したら史料はけっこうあったのですが、それでもそれが充分に使えないこともあります。その理由はいくつかありますが、現代史はまだ歴史になっていないということが最大の問題です。わたしたち歴史の研究者の仕事は、公表されている事実ばかりではなく、隠されあり、忘れ去られていたりしている事実を幾つもつなぎ合わせて、それらを歴史の文脈に位置づけていくことです。その過程で、いままで顧みられなかった事実を明らかにすることもできるし、時には卑しめられ、貶められている方々の汚名を結果的に雪ぐこともできるのです。

しかし、その一方で、わたしたちが明らかにした事実で、忘れたいと思っていたことが思い出されたり、人を傷つけることになったりすることもあります。特に、論争があったり、対立があったりする事実については、その歴史的評価に公平性を保証しようとすればするほど、そのジレンマは高まります。そして、それは、研究者だけではなく、現代史の場合、それぞれの立場に立った当事者やその遺家族ならば、より強く感じることではないかと思うのです。

わたしが、正に先述の壁を前にして直面しているのは、このようなジレンマです。ちょっと立ち止まっているのですが、でも、何とか歩いていこうと思っています。

さて、その後の懇親会で、某大学の神学部の院生(4月から牧会の現場に出るそうです)からこんなことを聞かれました。

聞き取りの史料って、史料的な価値があるのですか?

わたしの今回の報告は、公刊され、それを研究者が検証しないでそのまま引用することで一種の権威がつけられた“事実”を正しく批判し歴史に位置づけるために、そこで批判されたり、無視されたりしている“事実”を他の未刊行の史料や聞き取りによって検証していくと、「正史」に書かれていない“事実”がたくさん見つかるというのが主題でした。

このようなわたしの意図は、なかなか理解されないことは分かっています。だから、我慢強く語っていかなければと思います。で、その院生には、聞き取りも、その方法や扱い方次第で主観的な語りから客観的な史料に近づいていくことを実例をあげて丁寧に説明したつもりです。

が、少し言い忘れたことがあるので、ここでつけ足します(彼の院生君はこれを見ているだろうか。そういえば名前も聞いていませんでした………)。沖縄戦下の「集団自決」の「語り}については、またすぐに書こうと思っているのですが、言い忘れたのはそのことです。

「集団自決」については多くの聞き取りの成果があります。それが、政治的に利用されているわけですが、ここでも書かれた文書と聞き取りのどちらが信用できるかという議論があります。文書がないのだから「集団自決」の軍命はなかったのだという人がいます。一方で、「集団自決」の軍命はほとんど口頭で伝えられ、多くの人が軍命を感じたと証言しています。後者に、「はっきりとした軍命があったのですか」ときくと、多くの人は「なかった」と答えるでしょう。でもそれで、軍命がなかったと判断することが公正で公平であるといえるでしょうか。

最初に結論があっての聞き取りは意味がないと思います。そのような聞き取りは、全く資料的な価値はないとおもいます。どうでしょう。体験者がいっている「軍命を感じた」という言葉と、「文書がない。したがって、軍命はなかったのだ」という当時の責任者である軍人の言い逃れと、どちらが「真実」に近いのでしょうか。

問題の本質は、そのようなところにあると思うのです。

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