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2008年3月23日 - 2008年3月29日

2008年3月28日 (金)

さあ、これからの、長い、長い道のり〜岩波・大江「集団自決」訴訟〜

きょうは、早朝から京都行き。まさに、きょう、地裁の判決が出る『沖縄ノート』などをめぐるいわゆる岩波・大江「集団自決」訴訟のことは頭にあったが、日本基督教学会関西支部会の集まりに出かけた。まだ未加入の学会なので親しい知り合いは皆無。入会しようとしたが、紹介者がないのであきらめた。誰か紹介者になって下さい。

さて、その休憩中、沖縄の友人からのメッセージで今回の訴訟の“勝訴”を知った。帰って、沖縄の新聞のWebをチェックすると………

岩波・大江「集団自決」/訴訟『集団自決』軍が関与 岩波・大江訴訟」(『琉球新報』)
元隊長の請求棄却/「集団自決」訴訟軍命に真実相当性/大阪地裁『深く関わった』」(『沖縄タイムス』)

とある。

私事だが、大江健三郎氏は、わたしの高校の先輩。それだから、応援していたわけではないが、ともかく、一区切りついたようだ。それにしても、大江氏、だいぶん老けたのだろうか。

さて、原告は、無論、控訴するという。確信犯だから。これからも、息の長い、闘いになると思う。新聞やテレビの報道で金城重明さんが出るたびに、お元気なのだろうかと案じる。今度沖縄にいったら、是非、お会いしたいものだ。

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春の誘惑。いちどきに桜花の咲きはじめた京都にやってきた。早朝の神戸を出てから、阪急沿線では、やはり、桜の花がだいぶん開いている。四条烏丸で地下鉄に乗り換えて、今出川で地上に出ると、いつもながら広くて、青い空が現れた。昼間に京都に来るのはどれぐらいぶりだろうか。また、同志社も、以前は、人文科学研究所の研究会でひと月に一度は必ず来ていたのだが、その研究会を遠ざかってからは久し振りだ。この開放的なところが、いかにも京都で、そんなところから生まれる学問もまた、そんな幹事、香りがするような………。

さて、京都までやって来た目的は日本基督教学会近畿支部会の研究発表を聞くためであった。わたしは、この学会の会員ではないが、今回の発表次第では入会をしようと、申込書を記入していったのだ。結局、知り合いがほとんどいなかったので入会の手続きをとらなかったが、(繰り返しになりますが、)誰か、紹介者になって下さい。

そこで、若い院生(同志社や関学の神学部、京大の文学部が多かった)の発表をいくつか聞いた。そのなかで、おもしろいと思ったのは、同志社の神学部の院生(博士後期課程)の朝香知己氏の「クィア理論とキリスト教神学─リベレーションの視点から─」であった。そのほか、現代社会の諸問題にキリスト教神学がどのようにとり組んでいるかをうかがわせる発表がいくつかあったので、このようなところで刺激を受けるのであれば、自分の研究にもプラスになると思った。

それから、詳細は省略するが、ある発表を聞いて、改めて今自分がとり組んでいる研究をまとめ、出版する必要を再確認した。戦後に限らず、沖縄キリスト教史の研究分野はそれなりの関心があるものの、必ずしも研究が進んでいるとはいえす、研究者の層も極めて、極めて、薄い。だから、研究発表や論文で事実と違うことが書かれていても、それを検証するだけのものが読み手や聞き手にないわけだから、それなりの責任を持って研究にとり組まなければならない。また、ほぼ定説化している「事実」であっても、別の視点や方法で調査すれば、別の側面が見えてくることがある。

だから、そのような間違った認識や一面的な見解が「事実」として定着する前に、徹底的な調査と、広い視座に立った研究を各個とした成果として公表しなくてはならない。それも、できるだけ早く。

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2008年3月25日 (火)

明治初年の地域社会における文化センターの役割〜岡山県井原・興譲館と柴原宗助〜

春の選抜高校野球で懐かしい名前を聞いた。「興譲館高校」。今年で創立154年になるという。

わたしが修士論文を書くため岡山県の自由民権運動とキリスト教の関係を調査するために、流れ流れて高梁に教会にあるたどり着き、牧師の許可を得てその教会で調査を始めた。あれはソウルオリンピックがあったり、前天皇の「下血報道」が行われていた時のこと。つまり、今から20年も前のことである。

その高梁では明治初期のころ、どういう訳かは分からぬが(一説には水が原因であるといわれている)新生児のうち男の子の割合が他地域よりずっと低かったという。そのため、士族や豪農・豪商の家では「跡取り」のため、他所より養子を招いていたという。そして、その養子の多くが高梁から山を越えた井原からやってきていた。

高梁の豪商のひとりで、県会議員にもなり、高梁に自由民権思想を持ち込んだ柴原宗助も井原生まれで、高梁の柴原家に養子となった。彼の実家は柳本といい、彼の兄の柳本瀧三郎は、興譲館の初代館主であった阪谷朗蘆から幹事の素読を学んだという。

維新後、朗蘆が広島藩に招かれ興譲館を去った後は甥の阪田警軒が教授にあたった。警軒は後に、初代の岡山県議会議長となり、1886年には同志社の漢文の教師として招かれた。その縁もあって、明治期、井原の興譲館で優秀な成績を収めた学生の多くは同志社へと進学していった。

また、福山の医師・窪田次郎らが中心となって結成された「細謹社」は啓蒙的な結社として、井原・福山・笠岡等を含んだ地域の文化的センターとして機能していた。その他、高梁や井原を含む岡山の備中地方には様々な啓蒙結社があり、そのうちのいくつかは、明治初年の地域社会に自由民権運動やキリスト教の「媒介」となったのである。

その後、わたしは、博士論文を仕上げてから、この地域の研究から離れたが、今でもふと気になることがある。「興譲館」。その名前を聞いて、やり残した宿題を思い出して、冷や汗を流している次第である。

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