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2008年4月6日 - 2008年4月12日

2008年4月10日 (木)

日本のキリスト教が抱える欠落〜わたしたちは、だれに、“寄り添う”のか。〜

数日前、戦後沖縄のキリスト教史の生き証人である方の訃報が届いた。その方には、以前、2時間ほどお話をうかがったことがある。この件については、後日、詳しく論じてみたい。

さて、『AERA』(vol.21-№16、2008年4月14日)に掲載されている「キリスト教会の『性犯罪』」(AERA編集部 田村栄治)を読んだ。ここには、日本の3つの教会で起こった「性犯罪」について紹介されている。日本聖公会高田基督教会(奈良県大和高田市)、日本ホーリネス教団平塚教会(神奈川県平塚市、現在は廃止)、日本基督教団熊本白川教会(熊本市)、それに、カトリックの教会について触れられている。

そして、某SNSなどでは、この件について議論されている。それらの議論のなかに、この一連の事件に対する日本のキリスト教が抱えている問題が垣間見える。

これを発表した雑誌が「左寄り」の朝日新聞だからキリスト教を攻撃しているのだろうという暴論はさておき(共産主義を掲げている中国は信徒数だけでいうと世界最大のキリスト教国になろうとしている。だから、共産主義や社会主義はキリスト教をはじめとする宗教を弾圧しているというのはまった現実に即していないということを、この人はきっと知らないのだろう)、議論の中心は「今、なぜ、この時期に」ということと、うちの(教会の、もしくは、教派の)牧師はやっているのかやっていないのかに終始しており、結論的には、「他の宗教も同種の事件があるのになぜキリスト教だけが採り上げられているのか」といったものや、「困った話だけれど、一部の教会の、おかしな牧師のことでしょう」等々で終わっている。

以前、このブログでも述べたことなのだが、日本のキリスト教は、明治以降、「迫害伝説」というのを構築してきた。これは、一部の教派や信徒、牧師等々がかつて泊がされたという事実を、キリスト教全体に敷衍し、恰も自らが迫害されてきたかのような虚構に基づいているのが特徴である。実際、部分的には教会や信徒、牧師、あるいは、キリスト教主義の諸学校が国家による監視の対象になり、暴力を伴う弾圧に曝されたことは事実である。しかし、一方で、日本のキリスト教界は権力と癒着したり、権力に積極的に協力することで、活動の自由を保障されてきたのも事実である。

そして、この「迫害伝説」は、自分たちを国家による弾圧や迫害による被害者として位置づけることで、その教義から「自分たちが正しいが故に、世の中から迫害される」というように、自らの好意を正当化する手段になっている。また、そうだから、「“わたしたち”少数のキリスト者は団結しなければならない」というふうに、教会・教派の組織固めに利用されてきた。そして、その副作用として、日本のキリスト者は絶えず日本社会を外部と捉えて、そこからの被害妄想に悩まされてきたのである。

さて、上記のようなやりとりの中で、完全に欠落しているのは、被害者に対する想いであろう。日本のキリスト者はこのような事件に際して、概して、「自分たちの代表者たる牧師がそのようなことをするはずがない」と強弁することで、暗に被害者とされている女性が虚偽の申告をしていると推定している節がある。または、被害者に全く想いが至っていない。

わたしは、イエスの教えの本質は、“寄り添うこと”であると解している。そして、“寄り添う”相手は権力を持っている者ではない。自らの同様であるが、力も富も持たない、弱くて不安定な立場に立っている者のなかにこそイエスが存在していると感じて、その人たちにこころを寄せ生きていくことがその含意にある。

ありもしない「迫害」の虚構におびえ、ひたすらに自らの保身しか考えていたところに、この問題の本質がある。そして、そのことに想いが至らず、したがって、自らを正そうとも、代えようともしないが故に、同種の事件は今後も続くであろうところに、日本のキリスト教の非力と悲劇がある。

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