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2008年4月27日 - 2008年5月3日

2008年5月 3日 (土)

歓迎!! 「2ch」御一行様

きのうから以上にアクセス数が増えています。
アクセス分析の「生ログ」の「リンク元」をたどると「2ch」のスレッドにわたしのブログのURLが貼られている模様。

そこからご新規さんがたくさん来てくれています。
どうかゆっくりしていって下さい。
なんのおかまいもできませんが。

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ディープ・オーサカ・フィールドワーク(1)

※ 「(1)」ですから、(2)や(3)があると思うのですが、乞うご期待。

5月1日。我が勤務校は創立記念日で休校。

午前中のK女学院大学でのチャペルアワーの奉仕の後、昼過ぎに学生と西宮北口で待ち合わせて、本年度初めての、フィールドワーク、題して「ディープ・オーサカ・フィールドワーク」に出かけました。参加者は、わたしと韓国・釜山からきている短期留学生4名と日本人学生1名。これは、諸般の事情で休講にしたり、これから休講にしなければならなくなったりしている留学生の日本理解のための講義(「○○語・○○事情Ⅳ」)の補講でした。

前の講義の時間に事前のレクチャーを1時間ほどしていました。

コースは、だいたい以下の通り。

西宮北口から阪急で梅田 → JR大阪駅から環状線で鶴橋 → 鶴橋「国際マーケット」 → 猪飼野・御幸森神社 → 御幸森商店街・コリアタウン → 平野運河 → 今里新地 → 近鉄今里駅から鶴橋 → 鶴橋でお買い物 → JR環状線で大阪へ → 解散

ご存じの通り、生野区は人口約135,000人のうち、約33,000人は外国人(外国人登録者数)で、そのうち約31,000人が在日韓国・朝鮮人であるといわれている。いわゆる「在日」といわれている人の中には日本国籍を取得している人もいるので、この区の4分の1は「在日」である。

鶴橋近辺を学生を連れてフィールドワークするのは4,5年ぶりか。それでも、街のたたずまいはそれほど変わっていないように思えた。高架下あたりの「国際マーケット」も以前のままで、キムチを売る店が並んでいる通りの角にある婦人服の店のちょっと太めのおばさんのマネキンも昔のままであった。猪飼野のコリアタウンも神戸の南京町風にアレンジされてから1,2度いったので、わたし自身は驚くこともなかった。

今里新地は、今から10年近く前、今里に住んでいた留学生を訪ねて訪れて以来であった。当日、曇り(“フィールドワーク日和”)であったせいか(前回もそうであったような)、街全体は霞んでいるようでもあり、くすんでいるようでもあった。きっと夜になると、全く別の街になるのであろう。しかし、大学院時代の恩師である杉原達氏の著書『越境する民─近代大阪の朝鮮人史研究─』(新幹社、1998年)にある通り、街を歩くとヘップ・サンダルを作るときの圧着機の音や段ボール工場、それに「韓国の主要都市がぐるりと一回りできるほどに、朝鮮・韓国にまつわる店」([杉原 1998]p23)が立ち並んでいた。済州島特有の「トルハルバン」とう石像も至る所にみられる。

鶴橋や猪飼野、今里には日本人のとっての「外国人」である「在日」や中国人などが多く住んでいる。しかし、「在日」といっても、それぞれ一様ではない。1920年代になって盛んになった朝鮮人の日本内地への渡航の時期にわたってきたいわゆる「一世」とその子孫である「二世」、「三世」………。それに、近年日本に渡ってきたいわゆる「ニューカマー」の人々。その国籍も「韓国籍」、「朝鮮籍」、そして、正確には「在日」ではないが「日本国籍」を取得した人々と、一様ではない。

そのような事実はおおむね事前学習で伝えてはおいたが、今回同行した韓国人留学生と日本人学生はどのようなことを感じたのだろうか。

以前に比べて、いくぶん観光客らしき人が増えていた生野の街。でも、きょろきょろしながらそぞろ歩きする「外来者」への住民の視線は、必ずしも暖かいものばかりではない。日本人の学生は今里新地を歩いているときから、少し顔が青ざめていたような気がしたが、かえって感想を聞くと「怖かった。もう行きたくない」といった。韓国人の留学生は、「街の人の言葉(韓国・朝鮮語)が済州島の訛があって、釜山から出身の自分にとっては懐かしかった」という感想を述べる一方で、「店の人に韓国語で話しかけたのだけれど、いやな顔をされた」と驚いていた。また、商店街で話をしていた店番の年配のご婦人5,6人は、それまで日本語で話をされていたのに、我々の姿を見とがめると急に韓国語で話しをし始めたりした。

このように、フィールドワークをするわたしたちに対する視線を自覚することは、それでも、有意義なことであったと思う。

さらに旧猪飼野の入り口にある御幸森神社(御幸森天神宮)には、至る所に天皇系の紋章である「菊花紋」があり、境内の隅には「遙拝所」があった。その説明書きには「遠く遙かふるさとを思いながら………」というような文面があり、当世風の粉飾がなされてはいるが、天皇家と天皇信仰にまつわるものがコリアタウンの直近にある。そして、そこでは年に何回か「日本式」のお祭りがあり、それには近隣に住む「在日」の方々も参加や寄進をされていいる由。もともとこのあたりには百済から移住者が多いといわれていてる。多民族・多文化環境での「共生」のあり方はとは、どのようなことなのかを、自分自身も身をもって知り、留学生や日本人学生にも知ってもらいたかった。

さて、次回は、どこへ?

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2008年5月 1日 (木)

キリストに出会う。

K女学院大学チャペルアワーでの奨励

奨励題:キリストに出会う。

讃美歌:讃美歌21 399番 1,2節

1 さすらいの民よ、荒れた大地に
  いつまで空しい 夢を追うのか。
  「神に立ち帰り いのちを受けよ」
  きびしいみ声が 天からひびく。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
2 なぜつぶやくのか、さすらいの民、
  果てない旅路の 重荷にあえぎ。
  イェスを待ち望め、十字架のイェスを、
  闇路をみちびく 復活の光を。
  われらはいま立つ、主の民として。
 
3 われらは主の民、日々の歩みが
  明日への希望に 続くようにと、
  愛の聖霊に ひたすら頼み
  あらたな賜物 この日も求め、
  われらはいま立つ、主の民として。 

聖 書:新約 マタイによる福音書 第27章第32節

「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」(マタイ 27:32)

 

 わたしは、日本のキリスト教史の研究をしています。なぜ、この研究をはじめた動機はいくつかありますが、そのうちのひとつは、明治時代になって、生まれて初めて教会に行った人たちは、どうやってキリスト教に出会ったのだろうかということを知りたいと思ったからです。わたしは、20代の半ばになってふとしたことから近くにある教会の礼拝に出席しました。なぜ、わたしがそのとき教会に行こうと思ったのか。それさえ思い出せないほど些細な動機で教会に通いはじめたわけなのですが、その些細な出来事がその後のわたしの人生を大きく変えました。

私がキリスト教史の研究をはじめようとしたのは、その教会で洗礼受けた前後です。洗礼を受けてクリスチャンになったのにもかかわらず、それでも、「人はどのようにキリストと出会ったのか」ということに関心があったのか。それは、それまでに様々な教会員やクリスチャンに出会い、礼拝の説教もメモをとりながら聴き、聖書もたくさん読み、讃美歌も覚えましたが、この時点でもなお、イエス・キリストに出会ったという実感というか、確信が持てなかったからだと、いま思い返して考えると、そう思います。

 さて、きょう読んでいただいた聖書の箇所を「イエスとの出会い」の文脈で繙いてみたいと思います。「シモンという名前のキレネ人」がどんな人物であるのか、聖書では詳しく述べられていません。キレネというのは北アフリカの一都市の名前です。同じ新約聖書の「マルコによる福音書」(「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ 15:21))や「ルカによる福音書」(「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(ルカ 23:26))にもこの場面が描かれていますが、それらの福音書では、シモンは「田舎から出て来た」とあります。とにかく、このシモンが巡礼か何かの目的でエルサレムにやっていた時に、イエスの処刑の場面に出くわすのです。

 聖書によると、すでに死刑の判決を受けて自ら十字架を背負って処刑場であるゴルゴダの丘に向かっていたイエスは、途中で力尽きます。するとローマの兵士たちは、偶然その場に居合わせたキレネ人・シモンに無理矢理その十字架を担がせて、イエスの後を歩かせたのです。このときシモンは自分が担いでいる十字架にやがてつけられるイエスがキリスト、つまり、救世主であることは知る由もなかったのではないでしょうか。それどころか、恐らく、彼はイエスとは初対面だったでしょう。たまたま通りがかったばっかりに、シモンは、運の悪いことに全くの赤の他人を処刑するための十字架を担がされてしまいます。

 もし、シモンがそれを断ることができれば、他の誰かがそれをすることになったでしょう。要するに、それは、だれでもよかったのです。だれでもよかったのだけれど、よりによって、こうした最悪かたちでキレネ人のシモンはイエス・キリストと出会ったのです。このキレネ人のシモンのほかにも、このときにイエス・キリストと衝撃的な出会いをした人物が幾人か描かれています。例えば、極悪人の強盗でイエスと一緒に処刑されるはずであったバラバという人物は、ユダヤの祭りの風習により、釈放されてしまいます。その後この人物がどうなったかについて聖書は全く触れていないのですが、釈放されてからもその場にいてイエスの処刑の場面をバラバが見届けたとすると、バラバもこうして、普通にはありえないかたちでキリストであるイエスに出会ったのです。

 スウェーデンの作家・ラーゲルクヴィストの『バラバ』(岩波文庫)という小説があります。そこでは、バラバは、この後、一旦強盗団に戻りますが、最後はキリスト教徒とともにローマで殉教しています。また、キレネ人のシモンも後にキリスト教徒になったのではないかと思わせる記述が聖書のなかにあります(マルコ 15:21)

 彼らはどのようにしてキリスト教徒になったのか。それを詳しく知る手がかりは、現在、全く残っていません。ただ、「たまたまイエスの処刑の場面に出くわし、そこで不思議な光景を見て、イエスが救世主であることを悟り、感化され、後にキリスト教徒になった」というような単純なお話しではないように、わたしは思うのです。

 シモンは、イエスがキリストであったことを知った時に、「自分はなぜ、あのとき、イエス様の十字架を担ぐことになったのだろう」、「こんな事なら、強引にでも断るべきだった」、「それにしても、神様は、なぜ、あのような仕方で、わたしをイエス様に会わせられたのだろうか」等とずいぶん悩んだのではないでしょうか。バラバも同じです。「なぜ、全く無実であったキリストが処刑され、極悪人であった自分が許されてしまったのだろうか」。

 これは、二人にとってとても大きな「問い」ではなかったのでしょうか。イエスに出会うということは、物理的に出会うだけではなく、こうして、聖書を読み、イエスに物語に触れ、イエスの弟子たちや其の他の人物の生き様をたどることで、自分が抱えている困難や課題に呼応するように、自分だけの、大きな「問い」を持つこと。これが、イエスと出会うことではないかとわたしは思います。そして、そのような「問い」を持つことで、今度は、その「問い」に対する「答え」を探すという全く新しい人生がはじまるのではないでしょうか。

 翻って、みなさんにとっての「問い」はなんでしょうか。例えば、わたしの「問い」は、こうです。聖書には、大層為になることが書かれているし、その通りのことがこの世の中に実現すれば、とてもすばらしい世界になるはずなのに、現実はそうではない。だから、聖書は、所詮現実に対しては無力なのだ。──これでは「問い」になりません。聖書の教えに忠実なはずのクリスチャンやキリスト教国が、それを実行できないのは「なぜ」か。ここから「問い」がはじまるのです。

自分がたてたその「問い」に対する「答え」はなかなか見つかりません。しかし、その「問い」に対する「答え」を真摯に見つけようとする過程で、きっと、わたしたちは理想の社会を実現するための方法を幾つも考えつくことになると思うのです。

そのような「問い」を生み出すきっかけは、みなさん自身やみなさんの周辺、そして、この地球上にあふれています。「人は人を傷つけないと生きていけないのか」。「いくら努力しても、報われない人がいるのはなぜか」。「真実の愛なんて、あるのだろうか」。………

 さて、みなさんは、現在どんな「問い」をお持ちですか。そして、これからどんな「問い」をご自分で立てて行かれるのでしょうか。その「問い」が大きければ大きいほどそれに対する「答え」も大きくなり、それが深ければ深いほど「答え」も豊かになるのではないでしょうか。聖書には、みなさんが、そうした大きくて深い「問い」にたどり着くための糸口がちりばめられています。

 それでは、静かに目を閉じて、それぞれ、自分の言葉でお祈りをしてください。

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