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2008年5月11日 - 2008年5月17日

2008年5月15日 (木)

〔遅報・学会発表要旨〕一九四〇年代後半の沖縄教会〜新たに発見した史料から見る〜

本発表は、二〇〇八年九月のキリスト教史学会大会で行う研究発表のための予備的な報告である。

一九四〇年代後半の沖縄キリスト教史を叙述するとき、二次文献をもとになされる傾向にある。そして、それらの叙述は史料批判や複数の文献による検証作業がじゅうぶんになされないまま、通説化している。

ところで、当該期の史料については一次史料で現存しているのは以下の三種類が考えられる。

①政府・行政文書(米占領軍や沖縄人民政府組織の公式文書)。
②新聞・雑誌・パンフレット類。
③当事者の手記、日記、メモ類。

この内、報告者は②については沖縄の諸新聞と断片的ながら米軍やハワイ移民社会等で発行されている新聞も調査した。また、①についても、沖縄諮詢会・沖縄民政府等の文献、占領軍政関係文書の調査を継続中である。今回分析の対象としたのは、新たに発見した③の史料である。報告者はすでに複数の人物の手になる手記・メモ類についてアプローチをしている。また、公刊されている沖縄系米国人(主に、ハワイやロスアンジェルス在住者)や沖縄戦に従軍した米兵の手記等をいくつか発見し、なお調査を継続しながら、既発見史料の分析を行っている。

それら新史料で、いくつかの新しい事実が判明した。その一つは、沖縄戦の最中からはじまった初期占領体制におけるチャプレン(従軍牧師)の役割である。米軍の「第十軍行動報告」によると沖縄戦時に派遣されたチャプレンはハワイ等で充分な教育と訓練を受けた上で、太平洋の諸群島で経験を積んで派遣されたこと分かる。彼らは沖縄戦に参加し、一九四五年五月頃から米軍の占領地の民間人捕虜収容所で集会を開き、六月には洗礼式を行っている。沖縄キリスト教の「戦後」は、この頃すでにはじまっていたといえる。

同年八月の沖縄諮詢会発足により、沖縄教会やキリスト者と占領軍、あるいは、チャプレンとの関係も変化する。当時の沖縄人関係者の手記には、クリスチャン米兵やチャプレン、「宣教師」などとの交流が好意的に描かれており、以後の沖縄教会と米国のキリスト教との関係の原型が形成されていたことが示唆される。

また、この時期の伝道者は沖縄諮詢会・沖縄民政府の文化部職員として準「公務員」的な待遇で伝道活動をしていたということが定説になっている。ところが、当事者の手記によると、当時の牧師・伝道師の生活は貧しく、信徒からの寄附(食料等の現物支給)の記事が頻繁にある。また、四八年頃には沖縄キリスト聯盟(以下、「聯盟」)理事会で伝道者の給与についての予算審議が確認され、聯盟理事長の秘書には俸給の支払いがなされている。このことから、上記の説は今後詳細な検討がなされなければならない。

それから、聯盟の性格や活動についても実態の解明が進んだ。まず、その創立年月日は、従来、四七年二月六日とされてきた。しかし、今回発見した史料によると四六年には聯盟の活動記録がないが、四七年になると三月二〇日に総会が開かれて以降、ほぼ一年に一度総会が開催され、二か月に一度理事会が開催されていることから、四七年一月九日結成説の信憑性が高いように思われる。また、その組織についても従来は教派・教団ではなく、伝道者の互助会的組織であるといわれているが、上記の総会・理事会の内容からして不完全ながらすでに教団としての体裁を整えていたのではないかと思わせる。

こうした定説化(神話化?)が行われてきた背景には、沖縄教会の内部に米軍の占領体制に対してスタンスや距離の取り方に違いがあり、それにより各々の歴史的評価も違うこと挙げられる。それに加えて、研究者自身に、「沖縄戦を経験し日本の教団から切り離された沖縄教会が戦争直後に独自の教会形成をできる訳がない」といったような先入観もあり、結果的に沖縄教会の独自性に対する評価が低く見積もられてきたことがなかったか。そのことについても、自戒の念を込めながら、中止していきたい。

その他、教役者会や「YMWCA」等の組織についても次第にその活動の輪郭がつかめてきた。こうした「事実」をひとつひとつ検証していくと、従来、公的な文書やキリスト教内部の公式文書に記載されてきた一九四〇年代の沖縄教会の実態とは違った歴史像が浮かび上がってきた。今後、更にそれらの史料を精査し、この時期の沖縄キリスト教史の全体像の把握に努めたい。

(「キリスト教史学会 第2回関西支部会」(2008年 3月 8日、於関西学院大学梅田キャンパス)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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〔遅報・学会発表要旨〕国家、地域、教会〜沖縄キリスト教をめぐる二つの国家と地域社会〜

沖縄キリスト教史において「国家とキリスト教」という問題を措定すると、日本本土(以下「日本」)の他地域のそれとは異なった課題が生じる。近代以降も、沖縄は日本とは違った経験してきた。また、日米の二つの国家に挟撃される沖縄の位置を考慮すると、そのキリスト教史を自立的に論ずるならば、国家とキリスト教、あるいは、国家と教会との間に、地域社会を中間項に設定しなければ、そこで生じた歴史的事象をとらえきれない。

それを前提に米軍占領下の沖縄キリスト教史を粗描するならば、その構成要素は、①沖縄人(地域住民、キリスト者)、②米国人(米軍人・軍属とその家族、チャプレン(従軍牧師)、米国人宣教師)、③日本人(国民、日本の教会関係者)の三者が考えられる。そして、それぞれがそれぞれの思惑で思考し、行動する過程で、国家意思がどう実行され、貫徹されていったか、その解明が課題となる。

ここに沖縄における教会形成と国家の関わりを示す興味深い資料がある。『キリスト教年鑑』二〇〇七年度版によると、沖縄県の教会は三三〇余り、信徒数は約三九,〇〇〇名で、県人口の二.八二%が教会員となり、日本の他の地域に比べて三倍近くになる。さらに各地域別に教会数・信徒数・対人口信徒比を見ていくと、沖縄キリスト教のある特徴が鮮明になる。教会と信徒は人口分布通り、約九割が沖縄島に集中している。ところが、沖縄島でも米軍基地が集中している中部地区には、県都・那覇を含む南部よりも人口が少ないにもか拘わらず沖縄全体の四三.二〇%の教会が集中し、信徒の割合は三.七六%にもなる。これは全国平均の四倍弱である。さらに、中部地区の教会はペンテコステ系やいわゆる「福音派」系の教会が多いことがわかる。

これは、単なる偶然ではない。発表者の聞き取りによると、中部地区の「福音派」系諸教会のいくつかは、米軍基地に頻繁に出入りでき、基地内の信徒やチャペルで交流をもっているという。また、このような「福音派」系諸教会には積極的に平和運動を行っている教会もあるが、それでも米軍批判の言動はあまり聞こえてこない。沖縄におけるキリスト教人口と教会の偏在は、米軍の駐留との関連を想起させる。そして、そのような関係は、日米両国の圧力により歴史や政治の矛盾が沖縄地域社会に収斂した結果でもある。このように、駐留軍が、国家意思に基づき牧師や信者、教会を通して沖縄地域社会に自らの有用性や友好的姿勢を顕示するとき、沖縄の教会は自ずと二分されていく。

本報告では、そのような沖縄教会の現状をふまえて上で、沖縄教会と国家の関わりを省察するために、チャプレン(米軍従軍牧師)と宣教師(団)の実態とその役割について考察した。

その結果、以下のことが明らかになった。まず、一九五〇年代に本格化する米国人宣教師による沖縄伝道は沖縄占領軍や東京のGHQの奨励と支援の元で実現された。そのような宣教師は、多くの場合、米軍の沖縄駐留には肯定的で、なかには沖縄の基地外で「英語教会」と称する米国人の教会をつくり、それらを背景に沖縄のキリスト教界に大きな影響力を及ぼそうとした宣教師もいた。

また、一九六〇年から七〇年にかけて、在沖米軍基地には二〇余りのチャペルがあったが、そこで牧会にあたっているチャプレンは、牧師であると同時に現役の将校でもあった。彼らは、時に、兵士たちを軍の意向にそって教導し、監視したりもした。また、チャプレンは最寄りの教会の牧師や信徒を通じて沖縄の地域情勢に関する情報を入手し、占領軍当局の意向をそれとなく地域住民に伝えるように促した形跡がみられる。

このように、沖縄在住の米国人のキリスト者、つまり、宣教師やチャプレンたちは程度の差はあれ米国の立場を擁護する役割を担っていた。そのため、沖縄の地域住民にとっては、キリスト教は米国の宗教であり、米軍の宗教であるという認識が強く、沖縄教会は地域社会で伝道する際に米国や米軍の動向に配慮せざるを得なかったのである。

米軍基地の駐留を巡りつねに分裂を余儀なくされている沖縄地域社会と、伝道する際に地域社会の亀裂を無視できない沖縄教会の「現況」は、こうした環境下で形成されているといえる。

(「キリスト教史学会第58回大会」(2005年 9月15日、於恵泉女学園大学)での研究発表要旨。『キリスト教史学』第62集(2008年7月)掲載予定)

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4つ、それぞれの「返還」、そして、「復帰」

以下は、戦後米軍の占領下から日本に「返還」(それぞれから見れば「本土復帰」)された4つの地域(諸島)である。

(1)1952年 2月10日
(2)1953年12月25日
(3)1968年 6月16日
(4)1972年 5月15日

これらに先だって、1952年4月28日、「日本本土」は独立を回復した。因みにこの日は沖縄にとって、そして、恐らく他の3つの地域でも日本本土から切り離され、日本に切り捨てられた日として記憶されている。

さて、(4)は36年前のきょう。沖縄が「日本本土」に「復帰」した日だが、他の3つの日は人びとに36年前のきょうほど記憶されているだろうか。

(1) トカラ諸島
(2) 奄美群島
(3) 小笠原諸島

奄美では激しい復帰運動があった。小笠原では戦時中一般の住民は強制的に退去させられていたが、戦後しばらくして欧米系の島民(100数十名程度)に限り帰島が米軍より許可された。しかし、他の住民は「復帰」まで帰島が許されなかった。

最近、「芸域」を広げるため、また、軽度の「島フェチ」のため、小笠原のことを調べはじめている。小笠原になぜ欧米系の住民がいるのかについては話せば長いことになるので、ここでは省略するが、小笠原には他にも「南洋系」の住民もいる(いた)。

さて、「5・15」を記憶している人、そして、この日がどんな日かを知っている人は沖縄でも減っていると聞く。しかし、「2・10」や「12・25」、「6・16」について知っている人が、当事者以外にどれぐらいいるだろうか。そして、それまでの過程でどのような苦闘があったのか。それも、恐らく忘却されつつある。

「島フェチ」・「辺境人」として、沖縄に限らず、これらの地域についてもこれから少しずつ調べて行きたい。また、その先に、旧植民地等に視野を広げて行けたらと考えている。

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