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2008年6月1日 - 2008年6月7日

2008年6月 4日 (水)

「歴史とは、右往左往すること」

もう少しだけ、土肥昭夫先生の追悼礼拝での出来事について書きます。

式中、6名の方が式中に土肥先生との思い出をお話しされました。

2004年9月に香港で開催された東アジアキリスト教史協議会でのわたしの研究発表に対して唯一わたしの意図を理解した質問をしてくださった徐正敏(ソジョンミン)延世大学校神科大学教授は、「今でも、土肥先生が亡くなったことが信じられません。天国に花見に行って、帰ってこられるのではないかと思っています」と語られ、8月15日に韓国で説教をされた土肥先生が数分間涙を流しながら沈黙されたエピソードを披露され、「涙は、涙でしか通訳できなかった」と結ばれました。

また、以前同志社人文科学研究所のキリスト教社会問題研究会で研究補助者(院生のアルバイト)をしていた西岡裕芳さんは、現在日本キリスト教団月寒教会の牧師になっておられました。陳腐な言い方ですが、立派になられたと思います。

そして、今回もっとも感銘を受けたのは、土肥先生のお子さんである土肥いつきさんのお話でした。話しの詳細についてはご本人がブログに書かれているので、そちらの方を参照していただく方が正確かと思いますが、印象に残っているのは土肥先生の歴史の定義と、先生が尊敬する人物が田中正造だったということ、いつきさんの小さい頃の思い出が両親に手を引かれて青空の繁華街をデモをしたことの三つでした。

土肥先生は「歴史とは何か」をという当時高校生の土肥いつきさんにたいして、「歴史とは、右往左往することである」と応えられたそうです。右往左往するのが、歴史の登場人物なのか、それとも研究者なのかは判然としませんが(でも、おそらく前者?)、とても含蓄のあるお言葉です。土肥先生のなさったお仕事(研究)そのものは、理路整然としていて、余り右往左往している風にはないのですが。それでも、先生がそう考えられており、それが歴史を見る広い視野や柔軟な評価に繋がったのでしょう。………実際、わたし自身が自分の研究対象を巡って右往左往しているのですが、でも、確かに、草創期や自体転換期のキリスト教界は右往左往しながら歴史を形成しています。

それから、土肥先生が尊敬している田中正造にお子さんの土肥いつきさんが年を経てから出会われたこと、また、土肥いつきさんが子どもの時に両親に連れられてデモに加わったことなどをうかがうと、自分と自分子どもの関係についても考えさせられました。

土肥いつきさんを通して、土肥先生から、最期の(でもないかもしれないが)大きな贈り物をいただいた思いです。

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2008年6月 2日 (月)

悔いのない研究生活とは

土肥昭夫先生の追悼礼拝の続きです。

わたしは、同志社大学や神学部にとって部外者です。神学部のスタッフ(教員)の顔を全員知っているわけではありません。でも、恐らく、この記念礼拝には同志社大学神学部のすべてのスタッフが出席していたわけではないようです。どうやら、当初学部葬の予定であったのが、現役の教授ではなかったことから、土肥ゼミ卒業生の有志による会になったようです。ともかく、同志社人文科学研究所や学会で知った顔があり、知らない顔があり………、の会でした。

土肥先生はそれまで手がけられておられた研究(お仕事)に一段落をつけ、次の研究に取りかかろうとした矢先に、亡くなられたということです。

先生の次の研究テーマは「戦後天皇制とキリスト教」。

戦前の天皇制とキリスト教はある一定の緊張関係があったのですが、戦後はそれが一気に薄れ、キリスト教にとって皇室や天皇はとても親和性の強いものになったのではないでしょうか。これについては異論があるかもしれません。確かに、教界では部分的に戦後も天皇制と厳しく対峙し続けた人たちがいます。しかし、一般の信徒はそうではないように思うのですが、いかがでしょうか。そのテーマを、土肥先生はどうお書きになるつもりだったのでしょう。それを拝見する機会は、永久に失われたのですね。

そのエピソードを聞きながら、研究者の死と仕事ということを、自らのことに引きつけながら、考えました。

研究者にもいずれ生の終わりがきます。それが唐突なものであれ、予告されたものであれ、どんな研究者にも死は来るのです。そのときに、し残した研究テーマが全くない研究者などいないのではないでしょうか。また、あくまでも一般論としてですが、死ぬ前にし残した研究課題がないのなら、その時点で研究者ではない、とも。キリスト教的に言えば、「神は、その者が必要である限りその生を許す。だから、その者が心残りがありながらこの世を去ったということは、神がその仕事が必要ではなくなったと判断されたのだ」という方も可能でしょうか。

いずれにしろ、研究者としてつねに“その日”が来るということを意識し、自分の仕事を大きくまとめる努力をしなければと思う年齢に、わたし自身がさしかかっていることを実感しました。

そして、気になったことを一つ。それは、そのし残した仕事(研究)を、「誰が継ぐのか」ということです。

土肥先生のお連れ合いである土肥淳子さんは、挨拶のなかで土肥先生が先述の「戦後天皇制とキリスト教」に関する研究をすでにはじめており、資料を集め、メモを作っていたことを挙げて、それを“継ぐ”研究者が現れることを期待しているというような趣旨のお話をされました。ご遺族としては、もっともな話だろうと思います。

また、それに先だって礼拝で説教を担当された原誠同志社大学神学部長も説教のなかで同様のことをいっておられました。原先生は、おそらく土肥先生の「歴史神学」研究室(?)の後継者。だから、これは一種の土肥先生の学問の正統なる継承者の選定の儀式でもあったのでしょうか。

しかし、この追悼礼拝には、わたしを含めて多彩な人たちが参列していました。そして、その誰もが、土肥先生の人柄と学問を慕い、愛していたのだと思います。そして、それぞれに自分なりの仕方で土肥先生の学問を部分的、あるいは、全面的に継承しているのではないでしょうか。だから、土肥先生がし残されたお仕事を直接継承する者だけではなく、だれもがそれを自分の血肉にして、自分の場から、自分の知恵で、道を切り開くことができるのではないかと思います。

わたしも、ゆくゆくは、土肥先生のように、自分の学問からはじまって、人柄・人格を付加しながら、だれかの心に届き、そこにこに留まる仕事をしたいと思いました。

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2008年6月 1日 (日)

【覚書】土肥昭夫同志社大学名誉教授追悼礼拝

☆いろいろ思うところがありますが、まず、感想や意見を交えず、事実だけを書きます。

2008年5月31日。わたしは、開場時間の13:30少し前に同志社大学神学館に到着した。芳名帳に記入して、ファイルをいただいた。礼拝のプログラムと御遺族による「土肥昭夫の追悼礼拝を祈念して」がファイルされていた。後者には京北教会での礼拝の説教メモ等、そして、土肥先生の直筆の村上俊・三佐保夫妻に関するメモのコピーが綴じられていた。

開始時間の14:00の5分前にはほぼ座席が埋まった。わたしは、向かって右側の一番うしろの端の席。そして、定刻良し少し前に礼拝がはじまった。

司     式:小﨑 眞氏(同志社女子大学生活科学部准教授)
奏     楽:松原玲子氏(同志社大学キリスト教文化センターオルガニスト)
聖書朗読・祈祷:平松譲二氏(同志社女子中学・高校教諭)

式次第は以下の通り。

前  奏
讃 美 歌   74 「果てしも知られぬ」
聖  書   テモテへの手紙 Ⅱ 4章1-8節
       フィリピの信徒への手紙 3章12-16節
祈  祷                      原  誠
説  教  「健全な教えを聞こうとしない時に」   原  誠
祈  祷
讃 美 歌        121 「まぶねのなかに」
土肥先生を偲んで  出村 彰 東北学院大学名誉教授(キリスト教史学会理事長)
          徐 正敏 延世大学神科大学校教授
          井田 泉 日本聖公会京都三一教会司祭
          西岡裕芳 日本基督教団月寒教会牧師
頌  栄  544 「あまつみたみも」
祝  祷                      原  誠
後  奏
遺族挨拶  土肥いつき
      土肥敦子   

土肥先生を偲んでのことばは一人5分程度と言うことであったが、それぞれ時間を大幅に超えて土肥先生との思い出を語られた。また、お子さんとお連れ合いの挨拶も時間を超過したが、それぞれ心にの盛るものであった。

16:00頃に閉会。その後、御遺族とそれぞれ言葉を交わし、16:30頃に散会。

                         以上。

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