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2008年8月3日 - 2008年8月9日

2008年8月 7日 (木)

ことばで伝える、広島8・6

63年目の「8・6」。この日の朝は、いつも、暑かった広島の夏を思い出す。

さて、最近、韓国からの留学生に広島のことを話す機会がありました。広島が、まだ、「廣島」だったころのいわゆる「加害の歴史」、原爆投下の経緯と理由、その後の「ヒロシマ」のことも話しました。また、広島・長崎での被爆と沖縄戦の比較、在韓被爆者など広島と韓国の関わりについても話をしました。

広島での出来事について写真集や編集されたビデオ(ちょうどわたしが広島で学生生活を送っていた頃「3フィート運動」というのがありました)など、視覚に訴えて話をすることも可能でしょうが、わたしは、文字と話にこだわりました。

広島大学の一般教養の講義であった「戦争と平和に関する総合的考察」で、二つの写真を見せられました。いずれもベトナム戦争時の写真でしたが、一枚はB52が爆弾を多数党化している写真、もう一枚は南ベトナム軍兵士が北のベトコンを射殺している写真。それらの写真を見せたうえで、講師はどちらの写真がより残酷であると思うか、学生に問いました。

大半の学生が後者の方が残酷であると答えたのですが、講師に指摘されずとも、前者に「写された多数の爆弾の行く末を想像すると、そこには阿鼻叫喚の地獄があり、多数の犠牲者が確実にいるのです。それなのに、目の前で殺されている一人の方が残酷だと、人間は思ってしまうのです。

だから、わたしは、文字とことばにこだわっています。

写真やビデオをただただ提示するだけでは、広島の被爆の意味が「戦争」に一般化されてしまう恐れがあります。また、徒に感情に訴えることは、単純なメッセージしか生みません。それは、それなりに力をもつのですが、わたしはそれに加えて考えてほしいことがありました。広島や長崎の原爆の特殊性を強調するためではありません。

戦争はどうして起こるのか。

その結末はどうなるのか。

そして、それを止めるために、自分や世界はなにができるのか。

そんなことを、これを機会に考えてほしかったからです。

さて、あしたから、また、「ヒロシマ紀元」からかぞえはじめた年数が一つ加えられます。

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2008年8月 6日 (水)

出会い、再会

今回の釜山では、いろいろな出会いと再会がありました。

出発の空港に向かう乗り合いタクシーで出会った紳士に、金海空港で再開したときにとはとても驚きました。彼とは、一緒のホテルで、学会のでスカッションも、レセプションも、フィールドワークも、一緒。結局、帰りのタクシーでも一緒で、その時には、行きのタクシーと違って、いろいろなことを話しました。彼の家まで、わたしの自宅から徒歩で10分程度です。そんな偶然て、あるのやなぁと、今さらながらの思いました。

また、大学院で、専攻は違ったけれど、同じ授業にでたり、同じ研究室で討論したりしたかつての韓国人留学生にも、再開しました。彼がわたしを見つけてくれたのですが、今では韓国の光州で大学の教師をしているそうです。聞けば、教え子がわたしと彼が学んだ研究室の博士課程後期におり、この学会で発表するのだと言います。その教え子の発表も聞きました。荒削りで、修正したほうが良い点は多いのですが、迷いながらも、問題に真摯に取り組んだ、良い研究発表でした。

その他にも、初対面、再開も含めて、とても良い交わりの時間がもてたのですが、その中でも、一番嬉しかったのは、一昨年、我が大学で1年間学んだ釜山外国語大学校の元留学生がわざわざわたしと訪ねてきてくれたことでした。あの時の留学生は全部で4名。2名はソウルで、2名は釜山でそれぞれの道を歩んでいるとのこと。ソウルにいる1名は、実は夏休みということで、この7月半ばに日本のわたしの研究室を訪ねてきてくれました。孟一人のソウル在住の元留学生とは電話で話すことができました。

会いに来てくれたのは、釜山に住んでいる2名でした。それぞれ、仕事や勉強の都合で、一人ずつ会ったのですが、それぞれ、日本にいたときの印象と全く同じである反面、一方で、だんだん心が強くなっているなぁ、と感じました。

実は、最近、自分の教育にちょっと自信をなくしていたのですが、信じて、注ぎ込んだものは、自分が予想したり、望んでいることとは全く違う次元で、自分に返ってくるのだと感じました。

Iさん、C君、どうか元気で、自分の信じる道を歩んでください。また、再開できる費を楽しみにしております。

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2008年8月 5日 (火)

ある沖縄人キリスト者の被占領体験と新しい神学の創造〜仲里朝章の場合〜

はじめに―沖縄におけるキリスト教の概観―

 17世紀、沖縄(当時の琉球王国)に伝来したキリスト教は、その後数度の中断を経て19世紀末から本格的に広まっていく。沖縄の青年たちは日本本土(以下、「日本」)からやってきた少壮の伝道者から多くの感化を受け、次代を担う俊英となった。沖縄学の祖・伊波普猶と弟の伊波普成(ジャーナリスト)、比屋根安定(宗教学者)、比嘉春潮(歴史家)などがそれである。また、後にハワイで牧会の傍ら労働運動を指導した比嘉静観、米国ロサンゼルスで「黎明会」を結成し、社会主義思想に傾斜していった屋部憲伝や宮城与徳などは、活動の場を世界に広げた。彼らは日本のキリスト教伝道史上でもきわめてユニークな存在である。にもかかわらず、日本キリスト教史による研究はほとんどない。
 沖縄戦の最中、それまでいったん中断されたキリスト教伝道は、すでに1945年5月頃、民間人捕虜収容所ではじまっていた。そこでは、米軍のチャプレン(従軍牧師)の協力を得て、生き残った信徒を中心に集会が開かれた。また、1945年8月には、沖縄人自治的組織である沖縄諮詢会が組織され、その文化部長にクリスチャンの當山正堅が就任した。當山はキリスト教による沖縄の復興をかかげて、伝道者に優先的な位置を与えた。また、46年頃には沖縄キリスト聯盟が組織され、それまで信徒の立場で活動をしていた者たちに按手礼が授けられ「信徒の教会」と呼ばれる基礎が築かれてた。
 本発表では戦後沖縄の代表的なクリスチャンである仲里朝章をとりあげて、彼が沖縄戦や米軍占領下での体験を通して、どのように思索を重ねていったかをみていきたい。

Ⅰ.仲里朝章とその時代

 仲里朝章は、戦後沖縄のキリスト教の最も有力な指導者の一人であるだけではなく、優れた教育者であり、農業経済の研究者、思想家、そして、平和運動の推進者でもあった。本章ではそのような朝章の思想形成をたどってみたいと思う。
 朝章は、1891年、沖縄の首里当蔵(現那覇市)の旧琉球王国の士族の家に生まれた(1)。琉球処分から10年、沖縄では清国の力を借りて琉球の再独立を目ざす頑固党がまだ力をもっており、仲里家は日本への帰属に協力する少数派の開化党に属していた。朝章は、1906年に沖縄県立第一中学校に入学し、後の日本共産党の指導者・徳田球一等と級友となる。卒業後、朝章は1911年に鹿児島の第七高等学校造士館に入学する。そこで朝章は偶然にも同宿であったカント哲学者で内村鑑三の門下でもあった天野貞祐(2)の知己を得る。
 1916年には東京帝国大学文学部史学科にひきつづき、同大学経済学部経済学科で学んだ。朝章は、在学中の1921年、友人の比屋根安定の導きで「寂寥感から」キリスト教に接近し、日本基督教会富士見町教会で植村正久より受洗。そして、東京を離れた時期を除いて朝章が沖縄に帰る1939年まで同教会に在籍し、長老として信徒の指導に当たった。
 また、朝章の帝大入学と前後し、家族も旧琉球王家の家扶(3)の職を得て上京した。この東京帝大での6年間、朝章は毎日深夜まで図書館で研究に没頭したという。その研究はその後も続けられ、朝章はその成果をいずれは出版するつもりであったが、収集した資料等は沖縄戦で灰燼に帰したという。朝章は、卒業後3年間長崎で女学校の教師をし、1925年に帰京。私立三輪田女学校に奉職する。この頃、沖縄は「ソテツ地獄」とう破滅的な経済的危機に見舞われており、朝章の研究の主眼は「沖縄救済論」と沖縄の経済的自立への模索であった。また、その研究成果を沖縄出身の在京大学生と分かち合うために1927年に自宅で「耕南グループ」を組織し、沖縄の次代を担う世代のなかにしっかりとした問題意識を育てた。ここに朝章の優れた研究者・教育者としての一面を見ることができる。
 1939年に父親の看病のため沖縄に帰り、那覇市立商業高校の校長に就任。日本基督教会首里教会に属し、日曜学校長を務めた。しかし、太平洋戦争に突入後、戦況が切迫してくるとクリスチャン教師である朝章は県視学(地方教育行政官)や憲兵の監視の対象となった。また、沖縄戦では軍の要請に応え、朝章は教え子たちを鉄血勤皇隊等へ派遣し、結果的に多くの生徒を戦死させている。朝章の長女もひめゆり部隊の一員として戦死した。この時の激しい後悔が戦後の朝章の思想や行動を規定していく。
 1945年6月中旬、朝章は激戦が続く南部の喜屋武村(現糸満市)で米軍の捕虜となり島北部の宜野座村惣慶の収容所に送られる。そこで、チャプレンのハイラー大佐や軍医のルニアン・ワグナーに出会い、彼らの協力で伝道集会や日曜礼拝をひらく。そして、沖縄初の男女共学の中等教育機関として惣慶中等学院(後の宜野座高等学校)を創設した。朝章は教師のかたわら、1947年12月には按手礼を受ける。朝章は専門的神学教育を受けてはいなかったが、日本基督教会の中心教会である富士見町教会で長年長老の任に耐え、戦中には無牧の首里教会で牧師代理を務めた実力があった。こうした経験により育まれた神学は戦後「信徒の教会」として出発した沖縄のキリスト教一つの特徴と言える。
 以下では、その仲里朝章が沖縄戦と米軍による軍事占領で培った「新しい神学」を彼の歴史観、米国観、そして、沖縄救済論の側面からみていくことにする。

Ⅱ.沖縄戦の体験と「国際的平和の島」を目ざして

 仲里朝章はよく観る人であり、よく看る人であった。それは、歴史家の眼であった。
沖縄がようやく復興しつつある一方、米軍政当局が非民主的で横暴な政策を強行していた1957年の4月9日、沖縄キリスト教学院が創設され、朝章はその初代学長に就任する。彼はその開学の辞で同学院の設立の目的を次のように述べている。かつて「太平洋の孤児」と呼ばれた沖縄は複雑で矛盾をはらんだ現実に直面していたが、その沖縄を「国際的平和の島」とするためにはキリスト教の精神を身につけた人材の要請が急務である(4)、と。
 朝章が、沖縄を「国際的平和の島」とするためのモデルと考えたのがスイスやスウェーデン、デンマーク等、小国でありながら高度な「福祉社会国家」を構築している国々であった(5)。また、かつての琉球が、朝鮮半島や中国の終戦諸国だけではなく、広く東南アジア一帯の国や地域と「平和的貿易」を進めていた歴史をふまえて、国際的な交流ができる人材を養成することで「悲運の運命の島を真に解放」しようとしたものである(6)
 第Ⅰ章でも述べたとおり、朝章は沖縄戦で不本意ながら自分の教え子たちの多くを戦死させている。それに対する深い後悔と反省が、朝章をして平和運動へ駆り立てた。朝章は、まだ日本との交通が自由ではなかった1950年8月、比嘉善雄や稲嶺一郎と広島での第1回原水爆禁止大会に参加している。また、賀川豊彦等のかかわった世界連邦運動の主旨に共鳴し、世界連邦建設同盟の琉球同盟を組織する。1951年6月23日には沖縄のキリスト教界だけではなく各界の著名人に呼びかけて「世界平和促進大会」を那覇市で開催した。
 このように、仲里朝章は世界史の研究と琉球史のそれを連結させるという歴史観をもっていた。彼は、その歴史観をもとに沖縄戦で体験した悲劇を再びもたらさぬように、沖縄が大国による保護や日本への帰属ではなく、国際的な連帯を重要視して世界平和を実現していこうとした。

Ⅲ.「理想の米国」像と軍政との対峙

 仲里朝章はよく学ぶ人であり、よく知る人であった。彼は、優れた社会科学者であった。
朝章はこれまでまとまった著作を残していないといわれてきた。彼の死後編まれた遺稿集には沖縄キリスト教会の機関誌に残された十数編の散文が載せられているに過ぎない。しかし、遺族の手元には約270部に及ぶ日記、メモと説教の原稿が残されている。それらから彼の思考の特徴がわかる。まず、朝章の説教用原稿には経済用語や時事用語が多用されている。また、1950年代になると米ソ冷戦を反映し「資本主義」「共産主義」「自由主義」「社会主義」の用語が頻出しており、ワシントン、フランクリン、カーネギー、ワナメーカー、フォード等米国の著名な政治家や経済人の思想が紹介されている。それらの例から朝章は物質主義的思考や利己主義を批判し、欲望にまかせて暴利をむさぼることを誡めている。さらに、朝章は資本主義や民主主義に対して価値を見出していることもわかる。
 このように、朝章はことあるごとに米国の民主主義や経済の発展について肯定的に語っている。また、朝章は米軍の軍事占領に対し先頭に立って異議申立をすることはなかった。しかし、朝章は米軍の理不尽な支配を無条件に容認しているわけではなかった。むしろ、公正で正義を実行する理想的な米国・米国人像を強調することで、実際に沖縄に駐留する米軍政当局や兵士等関係者の行動や思考を批判した。
 沖縄(本)島近海の伊江島で米軍に奪われた土地奪還運動を粘り強く続けた阿波根昌鴻が、キリスト教界に協力を求めた際、沖縄の教会は冷淡であったといわれている。しかし、先の朝章の史料群には阿波根たちの行動について彼が強い関心をもっている記述があり、別所には朝章が収集したと思われる伊江島土地(闘争に関する文書ファイルが残されている。つまり、朝章は米軍政当局の横暴に対して実力で抗議したり、全面的に対決をしたりしないが、米国の建国当時の理想や米国人の良心を紹介することで、米軍と距離を置き、自省と内省を求めるという手法をとっていることがわかる。

Ⅳ.沖縄の自立と「沖縄救済論」

 仲里朝章は、人を育てる人であり、沖縄を耕す人であった。それは、彼が生涯教育者という側面をもっているからであり、同時にいかに沖縄の現状と将来を憂い、沖縄とそこに暮らす人々に対する愛着と愛情の表象であった。
 朝章は1946年、沖縄島中部を念頭に、沖縄戦で働き手を失い子どもをかかえて苦闘する母親のための授産所兼教養・娯楽の場として「母之村」の建設を構想している(7)。この事業は朝章が首里に帰った1949年に実現するが、その趣意書には「村の主は実に救世主イエス・キリスト様なる事」ときされている(8)
 朝章は、青年時代、内村鑑三の「デンマルク国の話」に感化され、デンマーク式の農業研究を重ねてきた。朝章は沖縄の後進性を経済的だけではなく、道徳や倫理にも拡大しつつ、大国に挟撃されている沖縄の地理的状況をデンマークの小国主義と重ねて、沖縄救済への処方箋をたどる道筋を見出していった。朝章は、大国に依存してその分け前に与るという選択ではなく、敢えて自立の道を選んだ。そして、そのような朝章の「沖縄救済論」は戦前の東京時代の耕南グループなどで沖縄の若者と共有された。朝章は、その晩年、沖縄の日本本土復帰を目前にした1972年1月30日に季刊誌『耕南時報』を自ら発刊する。そこには、若者を育て、沖縄を耕す術を模索する朝章の生き方が貫かれている。

おわりに―信徒の生きる場の神学形成を目ざして―

 「沖縄の神学」とはなんであろうか。本報告は、その試論にあたる。
 1879年、実質的に日本に併合されて(「琉球処分」)以降、沖縄の人々が経験してきた近代は、本土との格差からいわれのない差別に晒されることであり、太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊であり、その後、27年間にわたる異民族の支配であった。1972年5月15日の日本復帰後も米軍基地は解消されず、それに由来する様々な危険や暴虐に晒されていても日本政府からの積極的な支援はまったく期待できない状態にある。このような事態は、まさに日米両国による沖縄の「再占領」状態といっても過言ではない。
 そのようななかで、沖縄のキリスト者たちは時に米軍の関係者やチャプレン、米国人宣教師、また、本土の教会関係者から支援を受けながら教会形成を続けてきた。そんな専門的神学教育も受けていない沖縄の“信徒あがり”の伝道者に自ら教会を建てていく独自の神学などあるのだろうか。大半の研究者はそのような先入観を抱いているのかもしれない。しかし、沖縄の歴史や現状が過酷であれば、信徒の生活の場であり、伝道の場でもある地域での信徒や教職者による体験や救済への模索からその地域特有の神学が生まれていたのではないかと、報告者は考えている。そして、それはら「解放の神学」や「民衆神学」に通じるところがあるのではないかと考えている。

【註】
(1) 本章での記述は、大城実「廃墟の中から—信徒伝道者の軌跡—」(日本基督教団沖縄教区『27度線の南から—沖縄キリスト者の証言—』(日本基督教団出版局、1971年)に所収)、および、石川政秀「仲里朝章先生略伝」(石川編『仲里朝章遺稿集・伝記』(仲里朝章顕彰会、1974年)に所収)による。
(2) 1884年〜1980年。哲学者・教育者で、戦後は第一高等学校校長や文部大臣を務めた。
(3) 皇族や華族(尚家は侯爵)の家で、家令の下で家務・会計に携わった人の役職名。
(4) 沖縄キリスト教学院大学のwebページ(http://www.ocjc.ac.jp/gakuin/gaiyou/souritu.htm)より。
(5) 仲里朝章「沖縄キリスト教学院開校の辞」(仲里朝章「DIARY」(1952年12月-1959年、手稿))。
(6) 同上。
(7) 仲里朝章「母之村建設趣旨」(1946年5月28日、手稿)。
(8) 仲里朝章「母の村建設の趣旨」(仲里朝章「首里母の村会員名簿」1949年1月14日に所収、孔版)

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