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2008年9月14日 - 2008年9月20日

2008年9月17日 (水)

「平信徒の神学」は、あるのか。

今回の学会発表で、今年は3本目。あと1本ある。

さて、研究発表したのは「日本基督教学会」。わたしが所属している学会で唯一「日本」が就いている学会である。この学会には今年度の初めに入会したばかりだ。入会したてで研究発表をさせてもらえるとは思っていなかったのだが、だめもとでエントリーしたら受け付けられた。

研究発表は全部で47本。3会場に分かれて30分の持ち時間で日頃の研究成果を発表した。わたしは、二日目、第3会場の最後の発表。発表者は研究者もいるが、同志社と関学の神学部の院生、それも、相当数の留学生(韓国出身者が多いような印象)。いずれも、力の入った研究発表であったと思う。熱心なそして、少数だが東神大からの発表もあった。それぞれの神学校の教員も多数参加していた。それから、東大と京大のキリスト教学関係者の八票も多くあった。

もともと、わたしがこの学会に入会したいと思った理由はいくつかある。その最も大きな理由を自分の研究発表の冒頭に述べた。

わたしはこれまで10年あまり米軍占領下の沖縄キリスト教史の研究を続けてきました。その過程で、大変重要な史料に出会いました。しかし、その史料を読みすすめるうちに、わたしは自らの非力を自覚しました。わたしは、その史料を読み解く力を身につけたいと思っています。つきましては、この学会で、そのための研鑽を積みたいと思っています。

だいたい、以上のような内容であった。わたしは神学校(神学部)で専門的な神学教育を受けているわけではない。また、大学や大学院でキリスト教学について専門的な知識を得たわけでもない。加えて、宗教学についても、誰かに師事してその神髄を学んだわけでもない。つまり、キリスト教学にしても、宗教学にしても、専門家から見れば素人同然である。しかるに、なんどか「キリスト教学」や「宗教学」の公募に応募したこともある。今から考えれば、正に、無謀。しかし、当時は差し迫った事情があった。いまは、そのような事情とは全く質の違う事情がある。

専門的神学教育を受けていない。それは、戦争直後、按手礼をうけた沖縄の伝道者たちも同様であった。彼ら、彼女らとわたしを同列にしているのではないのだが、しかし、実際、わたしはそこのところに大変共感を持っている。そして、キリスト教学、神学の専門家を前に、自分が専門的神学教育を受けていない平信徒の自分が、同じような平信徒から伝道者となった人物が自らの神学を確立しようとする姿を、わたしは共感を持って描きたいと思った。

「キリスト教業界」の一部では、「日本プロテスタント宣教150周年」をめぐって囂しい論議がおきている。そこには、日本本土の教派・教団・教会が沖縄のキリスト教・キリスト者・教会を蔑んできた姿が現れている。それは、この一連の動き・行事に賛成する側にしろ、反対する側にしろ、見られることである。確かに、1846年から54年までベッテルハイムは沖縄に「滞在」した。しかし、結局のところ、沖縄にキリスト教は定着し得ず、19世紀の末になって日本人牧師の伝道により本格的キリスト教伝道が成されるのである。つまり、ベッテルハイムはまだしも、他の欧米宣教師は琉球伝道には全く関心を示さず、日本が開教されるまでの時間稼ぎとして琉球に滞在・通過していったに過ぎない。つまり、琉球=沖縄は日本のキリスト教にと欧米宣教師のとって「橋頭堡」に過ぎなかったのである。

「沖縄に対する蔑視」とは、そのようなことに、認識が至らないことをさしている。つまり、あからさまに、あるいは、声高に、沖縄を蔑む人物はいないが、結果的に沖縄自身の価値を認識せず、否定してしまっていることを、それは指している。「沖縄の教会・キリスト者が沖縄で伝道を進めるのに際して有利になるように、沖縄の伝統的民俗的宗教を取り込みながら伝道を進めてきた」という言説は、正に、その典型ではないだろうか。

沖縄戦後、「祖国」日本に見捨てられた体験(あるいは、沖縄戦中に、すでに、日本軍の虐待を経験してきた体験)をもち、異民族の支配を受けざるを得なかった戦後の沖縄のキリスト者が、沖縄がまだ独立国であった琉球王国時代のことを調べ直し、そこでの誇りを語るときに、それでも、それは単なる伝道のための便法であったといえるのだろうか。また、自らの民族的経験に鑑み、自分たちの「国」を「エデンの園」、あるいは、「第二のエルサレム」と呼ぶときに、それを「単に沖縄の民族的民俗的独自性」に矮小化していいものであろうか。今回の発表は、第一にそのような動きや研究動向に対する義憤もあった。

そして、仲里朝章が残した1940年代の文書(「もんじょ」。仲里が残した文書はこれだけではない)を見ていくと、自らの「貧しさ」に対する認識とそれを解消しようとする倫理的・道徳的・信仰的取り組みが明確になってきた。また、仲里自身が常に聖書に立ち返りながら、世界平和を訴え、米軍による理不尽な占領体制に対する非暴力に抵抗を常に思考していったことが跡付けられたと思っている。

そこには、異民族による軍事占領体制といった例外的情状可に置かれたキリスト者が、自らの体験を通して「平信徒」としての「神学」を構築していったのではないか。わたしは、そのように、戦後沖縄のキリスト教界をリードしてきた「第一世代」の平信徒上がりの伝道者たちの神学を、再評価したいと考えている。

さて、研究発表は、おおむね成功であった。フロアからは若干とんちんかんな質問もあったが、有益なものもあった。仲里朝章は1940年代にはロマ書やイザヤ書、ヨブの物語、それに福音書の研究を行っていた。しかし、わたしはその意味をまだ十分に評価するだけの力がない。そのことは自覚してはいたが、それを質問のなかで指摘されたのは、ありがたかった。

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2008年9月16日 (火)

三浦半島、バスの旅

さて、学会は、関東学院の金沢八景キャンパスで行われた。宿泊している横須賀からは京急でそんなに時間はかからない。しかし、ふとバスはどうだろうと考えて、路線図を検索すると、横須賀中央駅前から最寄りのバス停まで直通の路線があることを発見した。ホテルの人には、そのルートは抜け道がないので朝の時間帯は渋滞していて時間が計算できないと忠告されたが、比較的時間に余裕があったので、バスで行ってみることにした。

バスは、並木が美しい横須賀中央大通りを経て、国道16号線を行く。JRの横須賀駅前を通りかかる。そこは、バスから見た印象だが、京急の横須賀中央駅や汐入駅などとは違い、街の印象がない。山が逼った駅と、民家やマンションが道路沿いにあるという感じだ。

やがて、片道に車線の道路が対面通行になり、何度も何度も短いトンネルが繰り返しあらわれる。地形図を見ると、いくつかの湾があって、そこに集落があり、それらの集落が海に向かって突きだした山で孤立するかたちになっているようだ。おそらく、この道路が出来るまでは陸上交通は相当不便だったろうし、船で行き来をしていたのかもしれない。

途中、JR・京急田浦や追浜で乗客が入れ替わり、終点の内川橋ではわたしひとりになっていた。

さて、横須賀には米軍基地(旧横須賀鎮守府)があり、自衛隊の基地もある。また、ペリー艦隊が上陸した久里浜はその近くの浦賀には防衛大学校もある。つまり、首都・東京をひかえた防衛の拠点となっている。東京湾の出入り口になっている浦賀水道とこのトンネルだらけの対面交通の道路。それを見ながら、この街並みと街路には国家の意思が込められているように思う。

横須賀といえば、山口百恵の「横須賀ストーリー」を思い出す。「これっきり これっきり もう これっきりです?」 

急な坂道 駆けのぼったら
      今も海が 見えるでしょうか
      ここは横須賀
 

その意味が、少しわかったように思った。

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〔短報〕はじめての横須賀

明日からはじめて出席する学会で、
   明後日研究発表をするために、
      はじめて、横須賀に来ています。

沖縄とは違ったような、
   しかし、
      コザの街にどこか似ているような………。

「club alliance 」の前を通ったが、
   そこは、米軍横須賀基地(U.S. Fleet Activities Yokosuka)の入口だった。
      そこには、日本の警察の交番があり、警官が、ひとり、警備に起っていた。

惜しいことに、
   ゆっくり散策する暇はないのだが、
      空気は、ちょっとだけ、吸えた。

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