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2008年11月9日 - 2008年11月15日

2008年11月14日 (金)

月光の沖縄

ついさっき、沖縄に着いた。こんな時間に沖縄に到着するのは初めてだ。沖縄に近づいて飛行機が高度を下げると雲のなかにはいった。その雲の切れ間から街の灯りがちらちら見える。さらに高度が下がると、オレンジ色の街路灯が、曲がり曲がり、丘や谷を、うねうねといっている。

そして、那覇空港に着陸態勢にはいると、糸満から豊見城、那覇と飛行機は旋回し、断大高度を下げていく。すると、瀬長島あたりの海面に月光が反射しはじめた。幻想的、というよりも、ちょっとした、悪戯のように、月が、飛行機を追いかけ、月影が、飛行機を追いかける。

沖縄は、本当の、ウツクシイ。

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2008年11月11日 (火)

植村正久生誕150周年〜その遺産と今日の日本キリスト教界〜

たいそうな題名ですが、わたしは、そんなに植村正久に詳しいわけではありません。先日、休日を利用して「植村正久生誕150周年記念シンポジウム」に出かけてきました。会場は、植村が牧師として勤務していた日本キリスト教団富士見町教会でした。

最初に開会礼拝があり、その後、「植村正久と日本伝道」という主題でシンポジウムが行われました。

主 題 講 演 :大木英夫 聖学院理事長
ディスカッション:五十嵐喜和 日本キリスト教会茅ヶ崎東教会牧師
          戒能信生 日本キリスト教団東駒形教会牧師
          星野靖二 國學院大學助教

会の冒頭、武田清子氏が挨拶をされた。氏を間近で見るのは初めてのこと。思えば、いまから、20年以上前、日本キリスト教史を勉強しはじめたとき、彼女の著作を何度も繰り返し読んだ。いわば、自分の中では「伝説上の人物」であったが、さすが、「植村正久」、さすが、「富士見町教会」といったところであろうか。

実は、この富士見町教会、このブログで何度も登場している仲里朝章が徴年長老として使えてきた教会である。パネラーの発表のあと、質疑応答で植村正久の教えを受け継いでいる物の広がりについて議論が及んだとき、わたしは真っ先に仲里のことを思い浮かべた。戦前の植村による沖縄伝道(確か、植村自身が直接沖縄に行っているはずだ。もっと調べなくては)の成果について、戦後のことが一段落したら、もっと調べてみたい課題だ。小塩節フェリス理事長の父・小塩力(力の父は、家庭学校で留岡幸助の同労者であった小塩高恒)も八重山伝道を行っているのだ。

さて、パネラーのお三方は、いずれも研究会・学会でお顔を拝見したことはある。それぞれ、興味深い発題であった。その中で、戒能牧師が最後に次のような趣旨のことをおっしゃられた。

植村正久は自らの福音信仰とキリスト教の社会的役割について自覚的で、その前半生は社会的活動を重視し、後半生は福音的であったという評価は間違っている。現在の日本のキリスト教界で植村の遺志を受け継ぐといっておられる方々のなかには植村の社会的活動を無視して、福音的であることがすなわち植村を継承することだと考えておられる方がいるが、それは間違っている。

本当は、もっと簡潔な言い回しであったが、大要は間違っていないと思う。まさに、そうだ。人物を歴史の文脈に起き、そこに起こる様々な不幸や災禍などより生ずる人間の懊悩と葛藤しつつ聖書とキリストの教え・行動に導かれていく姿を見据えていくことが、わたしたち歴史家の役割である。それを、再認識した、いい会であった。

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2008年11月 9日 (日)

憧憬と超克〜沖縄のキリスト教会がもつ活力〜

この間の3連休で仕上げた論文は、昨年、キリスト教史学会で研究発表したものです。

題名は「軍事占領下における軍隊と宗教─沖縄地域社会とキリスト教─」。基本的には歴史の論文ですが、沖縄のキリスト教の現況にかかわる問題でもあります。

沖縄のキリスト教との割合は以前ここでも書いたように日本の他府県に比べると約3倍に当たります。その原因についてはこれまでもいくつか議論ありました。その中には、沖縄の宗教的風土をとりあげて、そこにその原因を見出すもものがあり、一見説得力があるように思われました。しかし、沖縄のキリスト教との人口分布を詳細に検討すると、沖縄でも宗教的な伝統が残っている地域、例えば、沖縄島の南部・北部の一部や先島・離島地域では沖縄のなかではキリスト教との比率は低いのです。だから、別の原因もあるはずなのですが、それで、わたしは、戦後の米軍との関わりに注目して、その原因を探ったのです。

今回、昨年の発表を原稿化する過程で、この問題を再考してみました。そして、最後の部分を、こう結びました。

 このように日本の教界での沖縄の教会の存在感が希薄なまま1972年の沖縄の「本土復帰」(日本側からみると「沖縄返還」)が実現する。しかし、依然として米軍は沖縄に駐留したままである。このような状況下にあって、沖縄のある教会は様々な問題をはらみながらも「祖国」日本の教会にではなく、沖縄のなかに存在する米国人の教会や米国人キリスト者たちに寄り添いながら伝道を行っている。また、別の教会は社会的な問題には全く関与せず、ひたすら沖縄人の魂の救済を専らとして伝道活動を展開している。その一方で、日本の反戦・反基地団体と連帯し、社会的な関心をもってそれらの活動の最前線に立つことで自らの信仰を証する集団もある。こうした三者三様の教会のバランスのなかで、現在でも沖縄での伝道が行われていることになる。
 こうしてみると、沖縄教会にとって米国のキリスト教とオーバーラップする軍事占領はいずれも二重の意味を持っていることがわかる。すなわち、米国のキリスト教は沖縄の教会やクリスチャンにとってあこがれであると同時に、克服すべき対象でもある。その憧憬と超克の二つの力が共存し、ある時にはせめぎ合うことで、沖縄のキリスト教は新たな活力を生みだしているのではないか。

日本のキリスト教伝道を語るときに「社会派」と「福音派」の対立がよく議論されています。このような議論のなかでは、両者は同じ教派・教団に属している場合もあるけれども、互いに理解不能で、敵対的で、大概に互いを論破するだけではなく、お互いの消滅を願い、実力を行使しているようにさえ思えます。

しかし、実際には、そうなのか。これが今回論文を執筆していて感じた率直な実感です。日本の他の地域ではどうでしょうか。それぞれに、「社会派」と「福音派」の“濃度”は違っていると思います。一般的に、「社会派」が多いところと、「福音派」が多いところ。それぞれのなかで、両者の多少はともかく、存在感として両者がせめぎ合っているところでは、案外、キリスト教が“盛ん”なのではないでしょうか。これは、仮説で、今後立証することは可能であろうと思います。

沖縄の場合、信徒の数や教会の数・規模でいうとおそらく「福音派」が「社会派」を圧倒していると思います。しかし、「社会派」はその発言や行動で沖縄の地域社会にそれなりの存在感をもっていると感じます。そして、それぞれが戦後教会を形成し、信徒を集めてきました。その過程で、全く正反対の意味で米国のキリスト教、米軍のキリスト教と拘わってきました。

「社会派」については、自覚的には1960年代になってはじめて現れてきたと思います。その「社会派」は米国・米軍をアンチテーゼ、あるいは、批判の対象としてそのキリスト教を受容し、地域社会の現状から生まれる不条理に対峙するために、米国のキリスト教を「超克」しようとした。「福音派」は、米軍や米兵を通して体感した米国のキリスト教への憧憬を抱き、それに寄り添うことで、おそらくそこから様々な支援や感化をうけたことでしょう。その沖縄のキリスト教の二つの流れは決して対決的ではなく、お互いに距離を置き、牽制しつつも、一方でお互いを気にかけているのようにわたしは感じています。

だから、例えば、日本キリスト教団という一個の集団を、どちらかひと色に染めようとすることは、明らかに間違っています。大概に互いを批判しながらも、切磋琢磨し(できるかな? でも)、併存することが日本のキリスト教の活性化につながるのではないでしょうか。思えば、日本キリスト教団にとって、現総会議長が総括した「荒野の40年」こそ、実はそのような可能性を時代ではなかったかと思うのです。しかし、実際には「福音派」が退場し、対話を拒絶し続けていました。そして、体制が整うと、クーデター的手段で「政権」を奪取したのでした。

さて、もうひとつ書き忘れていたことがあります。それは、沖縄にはいまだに魂の救いを必要とする人々や状況が存在しています。だから、キリスト教だけではなく、様々な宗教が重要な役割を果たしているのです。「信仰告白」は何のためにあるのか。教団は何のためにあるのか。もはや「救うべき魂」がなく、そこに届かない祈りや告白ばかりの教会・教団は、この地域社会に必要なのでしょうか。

沖縄のキリスト教会の強みは、一枚岩の団結の強さではなく、魂の救いに至る多様性が保証されていることろにあると思うのです。そして、その保証は、沖縄のキリスト教徒によって成されています。

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「筑紫哲也」との別れ

筑紫哲也」が亡くなった。

わたしが大学生・大学院生の頃、今から思えば、たいそう滑稽で、未熟な感じだが、『朝日ジャーナル』を読んでいる自分がどこかしら誇らしくもあった。その『朝ジャ』の編集をしていたのが、亡くなった筑紫哲也さんでした。しばらくして、筑紫さんは『朝ジャ』をやめて、「NEWS23」のキャスターになりました。わたしは、それから、欠かさずその番組を見るようになりました。

そうです。わたしは、筑紫哲也さんのファンだったのです。

しかし、あることがきっかけで、筑紫さんの番組を余り見なくなりました。その「あること」とは、1995年1月17日以降の阪神大震災での筑紫さんの報道姿勢でした。ジャーナリストとして、節を曲げず、「現場主義」に徹することは必要不可欠なことです。そして、筑紫さんはそれを確かに、この時も、忠実に守ってはいたのです。しかし、彼のことばは、この圧倒的な「事実」の前に完全の浮いてしまっていたのです。現場でありながら、現場に完全に距離をとり、それなのに、それをことばで飾ろうとしている筑紫さんの姿勢に、わたしは激しい違和感を感じました。

思えば、これが、わたしと「筑紫哲也」との別れです。その後も、別れた彼女に対して冷たくできないのと同じ信条で、その後の「筑紫哲也」に適当につきあってはいたのですが、震災でも彼のことばがいつも脳裏を過ぎりました。

「筑紫哲也」は、人々が哀悼し、賞賛するに値する人物だと思います。わたしは、そのことを否定するつもりはありません。しかし、わたしは、こうして「筑紫哲也」が賛辞で埋め尽くされてこの世から送られる、少し前に、別れを告げていたのです。

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軽く見ていたかもしれません。

例の「タモガミ論文」事件です。わたしは、事態を少し軽く見ていたのかもしれません。結局、100名近い(まだ、出てくるかもしれませんが)自衛官が例の懸賞論文に応募していたようです

これは、一種のクーデターではなかったかと思うのです。わたしは経験がないので、最初事態を把握しきらなかったのですが、今回の一連の事件は武力こそ使わなかったけれど、まさに、政治的なクーデターです。

今回更迭された軍人は国家の意思とは違った自らの思想にもとづき自衛官を教育し、それを徹底するという周到な準備をしていました。その上で、民間人と共謀してその思想を公にした。政府(「防衛」相)は、事前にそのことを全く知らされていなかったようです。そして、その論文が公開寸前になって事態の深刻さにはじめて気が付く。

その後、政府は結局、この軍人を免職にすることができなかった。そして、さらに、今度は、国会でこの軍人が国民に向かって弁明する絶好の機会を与えてしまったというのです。左様、国会は野党も与党の緊張感を欠いています。

軍は、文民政府が統制する。軍は、文民政府の方針に絶対服従。これが文民統制=シビリアン・コントロールのあり方です。日本の軍人はこのことを防衛大学校等で骨の髄まで叩き込まれているのではなかったのでしょうか。

でも、事実は全く違っていたのです。今回、政府は軍を統御し、統制する意思も能力も持たないことをしめしてしまったに相違ありません。国会も然りです。このような物騒な事態がかくも自然に、穏やかに来ていることは、実は、わたしにとってとっても意外でした。しかし、事態はおそらく、クーデターの様相を見せ始めてきました。

さて、新しく航空幕僚長に就任した外薗健一朗氏は、自衛隊のことを「武力集団」と述べたといいます。そのような武力集団はこの国に必要なのでしょうか。ある人は、それがなければ国は守れないだろうといいます。しかし、わたしにはその「武力集団」の武力は、本当は、どこか得体の知れない「外国=仮想敵国」ではなく、国民に、あるいは国民の主権に基づいて形成された政府にむけられているのではなかろうか。そのことを、今回の「事件」で、感じた次第です。

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