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2008年12月14日 - 2008年12月20日

2008年12月20日 (土)

「復帰」と「合同」〜教団は暗闇を見ていたのか〜

ノワール小説やハードボイルドというのは余り趣味ではないので、ほとんど読んだことがない。『不夜城』は映画で見たけれど、馳星周の小説も初めてである。

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弥勒世(みるくゆー) 下 Book 弥勒世(みるくゆー) 下

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歴史は、理想やイデオロギーによって変わることもある(と、信じてる)。しかし、歴史は《きれい事》ではない。汚辱や憤懣に溢れていて、その上、捏造や隠蔽が日常茶飯に行われている。そんな薄い嘘事を引きはがすように、慎重にきれい事では済まされない歴史を描いてみたいと思っている。

本書の舞台は「本土復帰」前、米軍占領下の沖縄島。――そこには、沖縄人どうしによる宮古や奄美への差別があり、アシバー(遊び人、不良、または、ヤクザ)の暗躍があり、売春窟がある。そして、黒人米兵と白人米兵との間に根深い対立があり、米軍やCIAに飼われる「犬」がいる。「犬」は「犬」としての存在に悩み、やがて自我に目覚めたとき、その飼い主の喉笛を噛みきる。

さて、「吉原」は、本書にしばしば出てくる旧コザ市の「特殊飲食街(特飲街)」である。本書では、そこで売春が行われていると書かれているが、その「吉原」 の一角に、日本キリスト教団コザ教会はある。現在の会堂は1965年献堂というから、まさにこの小説の時代に重なっている。

以前、コザ教会で牧会経験がある牧師お二人にお話をうかがったことがある。それによると、コザ教会がこざ「吉原」に隣接する場所に建っているのは、決して偶然ではない。コザ教会は、早世したある神学生(沖縄出身者、同志社神学部の大学院在学)の提案で、「基地の街でも最も人間性が抑圧され、疎外されている地域の一隅」(日本キリスト教団コザ教会『未来への扉—沖縄戦の証言—』(同教会、1998年)p.130)を選んで建てられた。このような尊い志をもとにしてこの教会は建てられたのであるが、その志を通すには相当な困難がともなった。

この「吉原」は、「アシバー」の支配する場所でもあった。

ある日、吉原で働いているひとりの女性が牧師館を訪ねてきた。…(中略)…今のように自分この世界へ転落している原因を語り、生きているのがいやになると。また暴力団の管理からどう逃げることができるのかと、真剣に語った。…(中略)…彼女は、確か3回ほど礼拝に出席してから、それ以後ぷっつりとこなくなった。訪問してみたら、その店にはいないということだった。
教会へ行ったということで、男の人に殴られ、今どこに行ったか、だれも知らないとのこと。これまで教会の庭に来ていた彼女たちは、そのことがあってからは誰一人として来なくなった(名嘉隆一「基地の町に生きる教会」(前掲『未来への扉』に所収)pp.138-139)。

また、教会の前には現在でもちょっとした広場あり、現在はどうなっているか確認していないが、献堂当初はそとにトイレもあった。朝になると、広場の芝生には塵紙や汚物が散乱しており、トイレには嘔吐した後寝込んでしまった女性がいたという。また、広場である時は男女が重なり合ったまま眠り込んでいたともいう。当時は、教会の敷地のなかにあった牧師館に住んでいた牧師と牧師夫人の毎朝の最初の仕事は、それらの汚物や散乱する衣類を片付け、眠り込んでいる女性を起こすことからはじまったという。

その結果、「吉原」と教会の間にはブロック塀ができる。また、牧師は牧師館から離れ、教会と離れたところに住むようになったという。当時の牧師が牧師館を引っ越したその日に、牧師館はボヤで全焼した。これは、キリスト教の惨めな敗北ではない。苦闘の果ての、苦渋の決断であったろう。わたしたちは、この教会の信徒や牧師の苦悩を心に刻むべきであろう。

さて、B52の墜落事故、毒ガス漏れ事件とレッドハット作戦、コザ暴動。そのような混沌は米軍を頂点とする権力構造をも飲み込んでしまっている。そこにやってきた「活動家」と称する日本人たちは、そのような現状を全く把握できないでいる。それでいて、自分たちで沖縄に起こっている事態を解決できると信じ込んでいる節がある。彼らは、強烈な使命感があり(いったい誰に与えられたのだろうか)、その上、自らの良心を信じているだけに、その滑稽さが際だってしまっている。

そのような1970年を前にしたこの時代。日本キリスト教団(日本基督教団)は沖縄キリスト教団と合同した。

そして、その合同を実質化するという名目で、日本の教会関係者による「沖縄セミナー」が、1970年1月、沖縄で開催される。しかし、この試みは初回から躓く。

このセミナーの期間中(第三日)に全軍労の四十八時間ストが決行され、本土出席者の中には、自分の目でこれを確かめるため、また全軍労のストはセミナーに直結する問題であると考えて幾人かがこれに参加した。しかし沖縄ではこのようなことは日常的なことであり、セミナーに参加することこそ、全軍労の人々と行を共にすることである、という考えのようで、本土と沖縄の問題意識は食い違っていた。この二十五年の隔たりからくる意識の食い違いを直視することから、沖縄問題への取り組みははじまることを認識させられた。(「沖縄こそ教団の課題/沖縄セミ終わる」『教団新報』1970年1月24日)

合同した本土教団と沖縄教会の「隔たり」がはっきり現れた瞬間であった。そして、その「隔たり」の認識に沖縄教会は以後敏感になる一方、本土教団ではその後もほとんど自覚されていないように思う。セミナーに参加した本土教団の人々は少なくとも沖縄の教会を理解しようと努力し、いわゆる「沖縄問題」についても問題意識をもっていた。しかし、そのような人々でさえ、沖縄教会が本土教団に何を求めているのか全く理解できなかったということである。第1回沖縄セミナーの後、『教団新報』ではセミナーの参加者から全軍労のストへのカンパが何度も呼びかけられている。わたしは、そのことを批判することはできない。しかし、そこに沖縄教会の問いかけに応える用意はあったのであろうか。

これらに象徴される両者の認識の「隔たり」についての本土教団の過小評価により、わずか2回で中止された。

先述のコザ教会の試みは沖縄の他教会でも見られることであろう。そのような日常の伝道と宣教の営みに、寄り添うこと。それは、本土教団に所属するわたしたちにとって相当難しい、その解決継続中の課題である。

「弥勒世」。「弥勒」だから、現在仏教と強い結びつきがつよい思想というわけではない。しかし、そこに存在する憎しみや恨み、悲しみや苦しみ、混沌と暴力などを乗り越えようとする祈りがそこにある。その祈りに、当時の沖縄教会の人々は心を合わせていたに違いない。その祈りに込められた思いやその意味を、わたしは、少しでも理解したい。本書を読みながら、そう強く思った。

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2008年12月14日 (日)

ベッテルハイムと沖縄のキリスト教〜キリスト教史家としてなすべきこと〜

今年の7月頃だったろうか、「プロテスタント日本伝道150年記念」のことをはじめて知った。そのとき、ベッテルハイムのことが一瞬意識に登った。それは、そのままになっていたのだが、その後、日本キリスト教団沖縄教区やその他の方々から、日本のプロテスタント伝道は「150年」ではなく「163年」であるとの問題提起があった。このことについては、このブログで何度か採りあげてきた。そのようにしながら、ベッテルハイムの「伝道」と沖縄のキリスト教について、これまで考えてきた。

以前、『沖縄タイムス』と『琉球新報』の調査をしていたとき、1954年、つまり、ベッテルハイムは沖縄を離れて100年を記念して、翌55年の1年間にわたって沖縄では盛大な100周年記念行事が計画・開催されたことを知った。ベッテルハイムの来琉は1846年。来琉100年目の沖縄は戦後の混乱期=米軍による軍事支配開始期にあたり、御祝い所ではなかったことは想像に難くない。1950年になるとこうした祝賀行事を実行する余裕が沖縄にも少し生まれたようである。これらを見ると、ベッテルハイムは、この当時も沖縄のクリスチャンだけではなく、各界・各層が注目していたことがわかる。琉球政府文教局ベ〔ベッテルハイム〕博士百年記念祭實行委員會『伯徳令−−ベッテルハイム博士滞琉百年記念誌』(1954年)も発行されている。   

また、1953年、日本キリスト教団を代表して沖縄の教会を問安した柏井光蔵牧師(教団総会副議長)は次のように述べている。

沖縄に於けるキリスト教の歴史は、初期の切支丹時代にまでさかのぼることが出来るが、細かいことは明かでない。しかし切支丹禁制後に於ける日本の開教は、実に琉球から始まったのであった。先ずカトリック教会が弘化元年(一八四四年)に、フォルカドを伝道師として派遣し、次いで二年後イギリス海軍の琉球海軍伝道会が、かの聖書翻訳者として知られるベッテルハイムを最初のプロテスタント宣教師として送ったのがその端緒であった。(柏井光蔵「沖縄伝道の報告(二)」『基督教新報』第2856号、1953年7月18日)

つまり、当時の教団幹部のひとりは、すくなくとも「日本の開教は、実に琉球から始まったのであった」という認識を持っていた。これは、1959年の「日本キリスト教宣教百年記念大会」に先立つこと6年前のことであった。

さて、わたしは、このベッテルハイムの「伝道」は、現在の沖縄のキリスト教・教会につながる「流れ=河(川)」の源流であるというよりも、「溜め池」、つまり、現在には直接つながらないものであると考えている。しかし、それは、断定的なものではない。以前のブログでも書いたが、琉球王国末期=幕末期、琉球を訪れた宣教師たちの主たる目的は「日本本土への伝道」であり、琉球の救霊ではなかったとわたしは見ている。まだよく調べてはいないが、ベッテルハイムは滞琉中に数名の信者を得たというが、そのものたちがどうなったのかは定かではない。つまり、わたしの管見の限りでは、史料的に裏付けられるのは、ベッテルハイム以降(退琉直後ではないが)、19世紀末までの数十年間、琉球=沖縄ではキリスト教宣教の空白が生じたということである。

しかし、次のような見方もある。

山口栄鉄『ビジュアル版 大琉球国と海外諸国─欧文日本学・琉球学への誘い─』(琉球新報社、2008年)によると、1934年4月末、ベッテルハイムの孫であるベス・ベッテルハイム・プラット夫人が沖縄を訪問し、10日間滞在したという(「琉球宣教史上の一挿話」pp40-42)。してみると、ベッテルハイムの記憶は100年弱の間、琉球の人々の心に残っていたと言える。

また、この試みに尽力したのが、ベッテルハイムより薫陶を受けた医師・仲地紀仁の玄孫の仲地紀晃(医師)、それに、金城紀光那覇市長、当間重剛同助役、志喜屋孝信、大田朝敷、胡屋朝賞、又吉康和、外間政章、島袋源一郎等だ。志喜屋は広島高等師範学校在学中に無教会の集会に出席し、戦後は初代の沖縄諮詢会委員長・沖縄民政府知事、そして、初代琉球大学学長。当間重剛や又吉康和も戦後沖縄で活躍する政治家だ。

つまり、こうして、ベッテルハイム以後の沖縄のキリスト教伝道史を丹念に辿っていけば、戦後の沖縄キリスト教史の風景が変わって見えるのではないか。ここひと月ほどの間に、そういう思いに至った。

さて、沖縄教区のなかには「プロテスタント日本伝道150年記念」の試みに賛同する教会もある。しかし、一方で、ベッテルハイムの琉球伝道を現在の沖縄教会の起源として、改めて日本本土の教会の関係を問い直す動きもある。後者の試みをされている方々の真摯な想いに応えたいと思う。

わたしは、これまで、ベッテルハイムの琉球伝道が現在の沖縄のキリスト教の源流であるとすることについては、どちらかというと否定的であった。しかし、これは、まさにキリスト教史の課題であると思い至った。また、前期の琉球=沖縄キリスト教伝道上の空白を埋めることは、優れてキリスト教史家の使命でもあると思う。それで、これからしばらく、戦後沖縄キリスト教史の研究と平行して、ベッテルハイム以後のキリスト教史の構想を考え直したいと思う。

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