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2009年4月27日 (月)

戦後沖縄キリスト教史研究の水準

沖縄のキリスト教史にかかわる先行研究は、極端に少ない。この研究に携わる研究者は、過去も含めてどんなに多く見積もっても10人前後ではないかと思っている。その中でも、これまで精力的に研究成果を発表してきたのが、日本大学文理学部哲学科准教授の小林紀由氏である。

彼のブログ「小林紀由研究室」に、最近、「沖縄の『復帰』とキリスト教」と題された論考が19回にわたって連載されている。中身は小林氏が1997年から続けてこられた戦後キリスト教史研究のための先行研究の網羅的な整理である。小林氏の研究の中心は「沖縄の『復帰』前後のキリスト教について」だということだが、ここでは琉球王国時代からのレビューがされており、対象地域も「沖縄」(このことばには、小林氏も指摘しているとおり、いくつもの重層的な意味が込められている)だけではなく、奄美に関する研究文献の紹介もある。

わたしが小林氏と直接お会いしてお話をしたことは数回しかない。しかし、その時、個人的には温厚な性格で、誠実に研究をされている方だという印象であった。また、沖縄でのフィールドワークの際にご一緒したことはないが、わたしの調査先でも何度か氏のお名前を聞く機会があり、特にバプテスト連盟の調査を精力的に行われていたようだ。

小林氏の研究は、宣教師に対する評価や米軍による軍事占領下の「米軍」のキリスト教に対する評価、沖縄地域社会における沖縄人キリスト者の思想や行動についての評価等の点で、わたしの研究とは視点やスタンスがちがうようだ。しかし、わたしにとって尊重すべき先行研究に他ならず、氏の存在はわたしの励みにもなっている。

さて、網羅的とはいえ、ここには多少の遺漏がある、ように思う。最初に自分のことをいうのは品のいいことではないが、わたしの研究については2000年と2001年に公刊された論文があげられているのみである。しかも、そのうちの1本は学会発表の要旨である。また、他の1本は学会誌の「研究ノート」である。わたしがそれ以降執筆した論文の関して、紹介すべき文献に値しないということであれば、今後も精進する外はない。

それはさておき、このように約26,000字におよぶ詳細なレビューだが、これが戦後沖縄キリスト教史の研究水準を表しているともいえる。小林氏は「沖縄のキリスト教史概観(つづき)」((3)〜(10))で戦後の概観を行っている。そして、そこでの記述は、主として厳密な身での一次文献ではなく二次文献に沿って記述されている。わたしは、すでに、特に1940年代後半の時期の当事者の手記、つまり一次文献を使用して研究を進めている。しかし、現行の沖縄キリスト教史研究の段階は、二次文献によりその概観が進められているに過ぎないのである。つまり、歴史研究の段階でいうとごく初期の段階に過ぎない。そのあと、二次文献の検証や一次文献の発掘。次に、それらの不足分を聞き取り調査などで補いながら、一次文献や統計資料の分析を行う。そして、歴史を多角的・立体的に検証・叙述していく。

沖縄キリスト教史研究は、現在、そこまでの研究の深まりや広がりをもっていない。それを克服するためには、厚みと広がりのある研究者層が必要であるが、現行の日本キリスト教史についてもそれが十分であるか、疑問がある。

フィールドワークをしていて、忘れられない出来事があった。ある沖縄出身でない沖縄の牧師と仲里朝章氏のことについて、メールでやりとりをしていた時のことである。わたしは、先日このブログで紹介したとおり、仲里朝章氏の文書を使って朝章氏の神学思想についての研究を公にする予定である。その内容をその牧師に話したところ、「仲里朝章に独自の神学などないと思う」との答が返ってきた。つまり、朝章氏に神学思想がないというわけではないが、それが独自のものであるはずがないということであろう。

朝章氏の思想が、日本本土の著名な神学者や欧米の神学者、また、韓国の神学者のそれと比肩しうるかどうかについてが彼我の情報の差がありすぎるので客観的に判断できる状況にはない。なにしろ、朝章氏の思想について学術的に研究している研究者はわたし以外にはほとんどいないだろう。確かに、彼の思考や行動は日本本土の植村正久や内村鑑三、そして、書物を通じて米国や西欧の大思想家の思想に影響を受けた。しかし、朝章氏の戦後の文章を通じて見えてくるのは、戦後沖縄の歴史過程の中で政治や国際関係、経済状態などの現実に直面しつつ試行錯誤をくり返して真摯に答えを見出そうとしている彼の姿勢であった。そこに、わたしは「思想」を見出したのである。そして、他の戦後沖縄キリスト教界の指導者たちにも、韓国で戦後産み出された「民衆神学」という独自の神学に比較対象可能な神学があったのではないかと予測している。

このように、当事者からの聞き取りを通して、第二世代の沖縄キリスト教界の牧師たちがおこなった「研究」を少しでも発展させ、それらを超える水準に研究をもっていくことが、わたしの喫緊の課題である。

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コメント

「しかし、朝章氏の戦後の文章を通じて見えてくるのは、戦後沖縄の歴史過程の中で政治や国際関係、経済状態などの現実に直面しつつ試行錯誤をくり返して真摯に答えを見出そうとしている彼の姿勢であった。そこに、わたしは「思想」を見出したのである。そして、他の戦後沖縄キリスト教界の指導者たちにも、韓国で戦後産み出された「民衆神学」という独自の神学に比較対象可能な神学があったのではないかと予測している。」

おお!

「わたしは、先日このブログで紹介したとおり、仲里朝章氏の文書を使って朝章氏の神学思想についての研究を公にする予定である。」

おおお! 論文ですか。単行本ですか。楽しみです。

投稿: ぱすと~る | 2009年4月27日 (月) 09:48

こんにちは。「忘れられぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第一集(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会)」102頁に沖縄検察庁の検事正だった人(名前不明)がハイスクール(校名不明)の教師をしていたそうです。その人は戦時中相当都合の悪い事があったのかにわかクリスチャンになり、首から十字架をつるし牧師もしていたようだと書かれています。証言者は宮城進さんです。宮城さんが野嵩の収容所にいた45年当時の事です。
もしかしたら以上の件はご存知かもしれませんが、お知らせいたします。

投稿: 阪神 | 2009年9月18日 (金) 12:02

阪神さん、コメントありがとうございます。前に、一度、コメントくださった方ですか。ハンドル・ネーム、違うけど………。

貴重な情報も、ありがとうございます。さっそく、確かめてみます。

わたしが以前見たものでは、北部の収容所であの瀬長亀次郎がお守りがわりに十字架の首飾りをつけていたそうです(仲宗根源和談)。ひょっとすると、外にも沢山あるかもしれませんね。

投稿: AI(one) | 2009年9月18日 (金) 19:47

こんにちは。初めてコメントします。実は最近「The Village
That Lived by The Bible」というエッセイに出会いました。これによると、”戦時中、アメリカ軍が沖縄の地上戦で村を攻めている途中にシマブクという場所に行き当たるが、村の長はこの兵隊達をキリスト教の仲間、と歓迎した。そこでは住人全員がクリスチャンで、村の方針もキリスト教に基づいたもの、そして学校でも聖書に基づいた教育だった。とあります。村長(か地域の長)の名前がナカムラモウジュン、そして学校の先生の名前がキナショウセイとの記述もあり。その審議を確かめたく。。著者は Clarence W. Hallという人のようです。この村、人物は実在するのでしょうか。ただの作り話なのでしょうか。。

投稿: めぐみ | 2014年9月18日 (木) 09:20

めぐみさん、コメントありがとうございます。
あなたが書き込みをされた記述ですが、結論から言うと、地名や人名は実在するのですが、できごと自体は間違っているところが多いようです。印象的には、アメリカ人の、それも宣教師や牧師にとって都合のいいように話が変えられているという印象です。

この話は、戦後の沖縄キリスト教史のなかでは割りと有名な話しです。実際には、南部のような激しい戦闘ではなかったようですが、北部に向かって進撃中の米軍が北中城村字島袋にさしかかったときのことです。住民の代表として小学校の教員をしていた喜納昌盛という人物が、戦前からもっていた聖書をかざして米軍に投降してきました。その喜納を迎えたのが、喜納のかつての教え子で、ハワイに移民し、日系人として米軍に参加していた比嘉太郎という人でした。

感動的な話しではありますが、喜納は一か八かで聖書を掲げて投降してきたわけですから、「村の長はこの兵隊達をキリスト教の仲間、と歓迎した」というのは、書き手(Hallさん)の願望というか、思い込みです。

また、「そこでは住人全員がクリスチャンで」という事実もなかったと思います。ただ、このように話しが作り替えられてしまったことについては、思いあたることがあります。

島袋の住人は喜納がクリスチャンだからといって。特別扱いされることなく、米軍によって民間人捕虜収容所に入れられます。それから、1947年頃には島袋に帰ってくるわけですが、そのとき、喜納と村長かどうか立場は不明確ですが中村孟順という人物が、仲里朝章を牧師として招聘し、島袋教会ができました。島袋教会は当時としては大きい方だったと思いますが、教会員は多くて30〜40名程度だったので、村全員がクリスチャンであったわけではありません。

なお、仲里朝章は、戦中は那覇商業学校の校長先生で、戦後ができたばかりの宜野座高校の校長先生でした。宜野座高校の校歌は仲里の作詞です。仲里は戦前からの信者(戦前の日本基督教会首里教会)で、当時、牧師になったばかりでした。仲里は、このあと1950年代には沖縄のキリスト教会の指導者になり、沖縄キリスト教学院設立時には初代の学長にまります。学院には「仲里朝章記念チャペル」があります。

また、島袋教会は、現在沖縄市に移転し、日本基督教団上地(じょうち)教会となっています。

これぐらいでよろしいでしょうか。

投稿: one(管理人) | 2014年9月18日 (木) 10:45

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