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2009年7月 8日 (水)

対話をしよう。〜「150周年派」の方々に〜

きょうから、くだんの「日本プロテスタント宣教150周年記念大会」がはじまった………らしい。それに併せて、わたしのブログのアクセスが増えています。そして、本日未明当たりからあるリンクからのたくさんのひとたちが来るようになっています。

このリンクですが、どうやら山梨県在住の牧師がかいた[mixi]の日記らしいのです。「らしい」というのは、そこにアクセスしても、日記がブロックされているようで、わたしにはみることができません。その日記が既に削除されている可能性もありますが、わたしが閲覧を試みてしっぱつしてからも、そのリンクから訪れる人があるので、おそらく、この時点ではまだ削除されていないのでしょう。その牧師が書いたその他の日記はわたしにも読むことができるので、おそらく、その日記だけなんらかの制限をかけていて、一定の人々しか読めないようになっていることが推察されます。

こういう行為は、意図が見えないだけに、なにか、とても不気味です。それよりも、わたしのブログに対してどのような見解を持っているのか、それをわたしはとても知りたいと思っています。そして、その牧師の日記からわたしのブログにやってきた人は、どのような感想を持っているのでしょう。それも、もても知りたいと思います。

だから、皆さん、対話をしませんか。
異論があるのならば、おっしゃって下さい。この場をよろこんで提供いたします。
記念大会のことを教えていただけるだけでも、その感想を寄せていただくだけでも結構です。

わたし自身、この件に関するいくつかの日記やブロブを拝見しました。そのほとんどは、わたしがこのブログで「150周年派」と呼んでいる方々です。そして、そのいくつかに非常にナショナリスティックな主張が「日本プロテスタント宣教」ということばにひいきつけられて主張されていることに、危惧を抱いています。これと同様の言説が明治初年の「基督教信徒大親睦会」等でも繰り返し強調されてきたことです。

そして、このような日本のキリスト教伝道に内在するナショナリスティックな側面は、「文明の宗教としてのキリスト教を、野蛮で非文明的な地方に宣教する」という西欧流の帝国主義的な文明観を日本のキリスト教の指導者のなかに育てます。そして、彼らは欧米人宣教師から自己に向けられたまなざしを内面化し、自らを文明の高みに立ったつもりになり、結果的に「地方」を見下し、「地方」で澎湃と起こったリヴァイヴァルを冷笑し、その灯を消していったのです。それは、キリスト教が日本社会に深く広く根をはる契機をつみ取ってしまったのです。

そして、今日、皮肉なことに、この西欧流の帝国主義的文明観によるキリスト教宣教を唱道してきた人々の「末裔」の方々が、この「150周年」を期にリヴァイヴァルを呼び起こそうと主張しているのです。また、彼らは「明治期以降、幾多の迫害にあった」と主張していますが、それは真実なのでしょうか。日本の主流派のキリスト教界は、内村鑑三の「不敬事件」や田村直臣に関する「日本の花嫁事件」などを経験し、迫害を恐れて時の権力に迎合的な伝道姿勢をとったが故に、延命してきたのではなかったのでしょうか。

これらは、いずれも、日本の民衆的キリスト教の体験や歴史の簒奪に他ならないとわたしは考えています。

わたしは、今回の出来事がわたしたち日本の教会の歴史を見つめ直す契機になればと、願ってやみません。ですから、対話をしませんか。

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