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2009年11月18日 (水)

キリスト教(特にプロテスタント)の排他性〜寛容で協調的なキリスト教は存在するか〜

民主党の小沢一郎幹事長が、先日の仏教関係者との会談で、「キリスト教は排他的」と述べたとのことである。実際には、キリスト教だけではなく、イスラム教も排他的であると述べたという。この件に関して、記事の最後は「キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある」とあるが、この記事を読んで、反発するキリスト教関係者もいるだろうが、内心その通りだと思っている関係者もいると思う。

実は、わたしも、キリスト教はだいぶん排他的な宗教で、その排他性を売り物にしてこれまで日本で伝道してきているのではないかと思う。先の小沢氏の発言は無論キリスト教やイスラム教の内実を知った上での発言ではなく、仏教の寛容性を強調したものだろう。その仏教は寛容かといえば、それはすべてそうとは言えないが、頷ける側面もある。だから、少なくともキリスト教は世間様から排他的と見られているということを、キリスト教関係者は肝に銘じるべきであろう。

さて、そのキリスト教の排他性であるが、それは、「外部」に対する排他性だけではない。キリスト教、特にプロテスタントでは、他教派や教派内の対立するものどうしは相当対立しており、互いに排他的でもある。その排他性が、宗教としての伝道活力にもつながってるのだろうが、しかし、この問題は相当深刻でもある。その対立や排他性に関するいくつかの例をあげて、それでも、協調的で寛容なキリスト教のあり方を模索したい。

まず、「プロテスタント日本伝道150周年」をめぐる問題である。わたしの理解では、「日本」のプロテスタント伝道は、欧米の宣教師たちが、ベッテルハイム等による琉球伝道を足がかりに、今から150年前に横浜・長崎に上陸したことするという、琉球伝道と日本本土伝道が連結された“一連”の出来事により開始されたと思われる。そして、日本でのプロテスタントの本格的伝道はそれから数十年を待たなければならなかった、ともいえる。

しかし、プロテスタントの内部にはこうした琉球におけるベッテルハイムの伝道を認識しつつも、頑なに横浜伝道150周年が「日本伝道150周年」であると主張しつづける人びとがいる。この件については、以前にも批判的に述べた。重ねていうが、わたしはこの人たちの排他性が気になってしかたがない。彼らの排他性の刃は、明らかにキリスト教、プロテスタント、そして、日本キリスト教団の内部に向かっている。

そして、最近になって、ベッテルハイムが離琉したあと、ベッテルハイムが沖縄社会でどのように表象されてきたかを調べている。実際には、文献史料は乏しいわけだが、それでも、戦前から少なくとも以下の5回にわたってベッテルハイムに関する記念行事が開催されている。

  (1) 19265月:「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念伝道講演会」「博士ベッテルハイム渡来満八拾年記念礼拝」(5/2)「ベッテルハイム渡来八十年記念運動」(5/18-20)

  (2) 19375月:「ベッテルハイム来島90周年記念式典」と関連行事。ベッテルハイ ムの孫・ベス・プラット夫人来沖。

  (3) 19549月:「ベッテルハイム百年祭行事」:1)頌徳碑修復(琉球政府文教局)2)ベッテルハイムに関するパンフレット出版、3)頌徳記念碑除幕式(9/1)4)「ベッテルハイム百年記念式典並講演会」(9/1)

 (4) 19665月:「ベッテルハイム師沖縄上陸百二十年記念式」(5/3)

 (5) 19965月:「ベッテルハイム来沖15096おきなわ 聖書展」:聖書展・ミニ講演会・特別講演会・ビデオ上映(5/8-13)

そして、特に(1)(3)では沖縄の政界や医師会などを中心にキリスト教徒ではない市民が多数参加している。(2)では、護国寺の名幸芳章住職外2名の仏教関係者の名前も見える。本土復帰後開催された(5)では、本土やカトリック関係から招いた講演者による連続講演会が、教会施設ではなく、複合商業施設で市民に公開された。

こうした、公開性や開放性、エキュメニカルを越えた、宗教の枠を越えたつながりは、「閉鎖的」の対極にあるのではないか。

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コメント

初めてコメントします!貴殿のブログを興味深く読ませていただいております。「日本宣教150年」に関する事柄ですが、私見としてはそのような歴史認識もありかな?です。琉球王国は、日本の領土ではありませんでした。今は日本に返還し、沖縄県になりました。今の歴史観では沖縄も含むということになりますが、それでは近代日本の推し進める同化政策を容認することにならないか・・・と。かつて台湾、朝鮮半島がそうでした。教会は、時代を相対化する視座があります。それの史観に立つ故に、やはり「皇民化政策」を援用するような宣教観には立ちたくないと判断します。あくまでも私の私見に基づく史観です。貴殿のブログを通して学ばせていただきとう存じます。アジア的な視点に立ては、琉球王国を経由して、「日本宣教150年」という理解に立ちたく願うものです。

投稿: ツハ | 2011年7月26日 (火) 09:21

ツハさん(津覇さんですか?)、コメントありがとうございます。
「150年」論の問題点はキリスト教が伝わった時点よりも、むすろその後の伝道過程にあるのだろうと思います。つまり、1859年に「日本(この時点で、「琉球王国は、日本の領土ではありません」というのはその通りで、「日本」という国自体がありませんから)」に伝わったキリスト教が、そこを起点として、さらに「地方」に日本人の牧師によって伝えられたというところです。
これだと、沖縄を初めとする各地のキリスト者による教会形成の独自性を認識することができなくなると考えます。その点で、地域の教会史やキリスト教史を教派・教団史のなかにエピソードに分割して回収していくという「植民地主義的」な歴史観を「150年」論はもっているということです。
ツハさんの言葉を借りると、こうして地域の教会史・キリスト教史を中央の教派・教団の都合のいいように「同化」していくことに他ならないと思いますが、いかがですか?

投稿: AI(one) | 2011年7月26日 (火) 16:28

仰る通り「プロテスタン日本宣教150年」の宣教史は「同化の歴史そのもの」だと思います。残念ながらベッテルハイムの琉球伝道は彼自身の伝道で完結(中断)しているように思われます。従ってその後の沖縄伝道は、皇民化政策を否とせずの歴史認識に立つ日本人伝道者(牧師・宣教師)たちが担い手でした。そのような土壌の中から信仰に導かれた沖縄人キリスト者(牧師含む)たちの多くは、べテルハイムの琉球伝道が彼自身において途絶しているにもかかわらず歴史の連続性の中で捉え直したいのでしょう。もはや沖縄伝道の独自性はなく同化の歴史そのものと思われます。私は首里の没落士族の末裔なのかも知れませんが、今(明治以後)の沖縄人の大多数は同化志向の歴史観に立っているように思われます。「同じ日本人なのに」という意識ですネ。だから「プロテスタン日本宣教150年」+「べッテルハイム琉球伝道」をにしたいのかも知れません。貴殿の研究に期待しつつ学ばせていただきます。ありがとうございます。

投稿: ツハ(津波) | 2011年7月27日 (水) 00:40

「津覇」ではなく、津波さんでしたか。
丁寧なコメントありがとうございます。
ベッテルハイムと沖縄については、このブログにも以下の記事がありますので、お読みいただければと思います。
「ベッテルハイムと沖縄」(http://onecolor.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-19bc.html)
「学会発表予告〜「ベッテルハイムと沖縄」〜」(http://onecolor.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-67dd.html)
「『ベッテルハイム宣教163年感謝会』」(http://onecolor.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/163-73e6.html)
また、上記の学会報告を元に、「ベッテルハイムと沖縄」という論考を『キリスト教史学』(キリスト教史学会、第64集、2010年7月)に掲載しておりますので、ご覧いただければと思います(ご住所等、メールで連絡いただければお送りします)。
戦前の沖縄キリスト教史についてはこれから本腰を入れて研究しようと考えております。それで、きっと、戦後のそれと同じように戦前の沖縄のキリスト教も決して単一ではなく、様々な流れと相貌をしているのではないかと考えております。
これからも、よろしくお願いします。

投稿: AI(one) | 2011年7月27日 (水) 17:28

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