« 2009年7月19日 - 2009年7月25日 | トップページ | 2009年8月9日 - 2009年8月15日 »

2009年8月2日 - 2009年8月8日

2009年8月 6日 (木)

わたしたちは、「夢物語」を語り合おう。〜ことしの「8・6」〜

2009年4月5日、チェコのプラハで行ったオバマ米大統領の演説が、今年の「8・6」に力を与えている。

米国は、核兵器のない世界を目ざして具体的な方策をとる。

確かに、こういっている。そして、核廃絶は、「おそらく、わたしは生きている間にはできないだろう」としながらも、そのための具体的な段階を示した。

オバマ大統領がこのような演説をした背景はいろいろあるだろう。また、演説の内容からすると核廃絶は、核兵器の廃絶のことであって、核拡散を防ぐ手だて(「核燃料バンク」)を講ずる発想はあるが、核燃料の使用は否定していない。また、オバマ大統領は平和を希求しつつも、核兵器の廃絶のプロセスのなかでは、従来型の集団安全保障の手法をとっていて、それが完全な平和(「積極的平和」)を実現するものではないだろう。

しかし、1989年11月の「ビロード革命」を引きながら

一発の銃弾を撃つこともなく、核武装した帝国を倒すことに力を貸したチェコの人びと………

と述べた、オバマ氏のことばは、わたしたちの視点を変換させるのに十分だ。

そして、今年の「8・6」。秋葉忠利広島市長の「平和宣言」でもオバマ氏の演説が引用されている。

核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました(強調は、引用者)。

そして、核廃絶のための具体的プロセス(「2020年ビジョン」など)も提示している。また、こうしてオバマ氏に共鳴した世界中の人びとから具体的な動きができている。

しかし、そのような世界大での試みを「夢物語」だと嘲笑する人もいる。先日、このブログでも触れた田母神俊雄氏とその後援者である「日本会議広島」の人たちである。『中国新聞』によると(「田母神氏が広島で講演 『被爆国として核武装すべき』」)、彼は“伝統的”な「恐怖の均衡」による核抑止論に基づき日本も核武装すべきとしている。これは、冷戦時代の“遺物”で、まさに、時代遅れ!! である。

わたしは、この講演会には批判的であったが、このような中身や具体性のない田母神氏の主張を知って、かえって「8・6」にこの講演会が開かれてよかったのではないかと思う。現実に平和を希求する人びとの試みと彼らの言論を比較して、彼らの意識がいかに虚偽で空疎であったかが明らかになったと思う。

時代は、明らかに「軍縮」、「核拡散抑止」に動いている。それから、田母神氏は核兵器や運搬手段(戦略爆撃機や大陸間弾道弾など)を開発するだけではなく、維持するために年間いくらの予算がかかるのか、コストや費用対効果の計算をしているのだろうか。

このような時代遅れの暴論を「現実的」と評価する人びともいるのだろう。しかし、田母神氏が主張するような“現実”は、実は「ありもしない脅威」(例えば「北朝鮮」)から捏造されたものであったりする。それで、人びとを煽動するのが、「現実論」なのである。そして、そのいうな似而非「現実論」がネットのセカイ等で、特に若者たちの間で持て囃されている。

だから、若者たちよ、実現するのが困難であると思われているような「夢物語」を語ろうではないか。ここ数年、「現実論」の元で実現してきた「現実」の悲惨さを見ればいい。その「悲惨」に対して、誰が責任をとったというのだろうか。それでも、「現実論」を強弁し、より弱いものをターゲットに、ネットで憂さを晴らすのはやめてはどうだろうか。

「夢」や「希望」を掲げて、とても実現しそうにないゴールに向かって歩きはじめる努力は、あなたやわたしの個人を成長させるだけではない。そのような努力こそが、人類を「進歩」させてきたのだし、今後もそうさせるのだろう。核兵器もそのような努力の「成果」ではあったのだが、だからこそ、それをわたしたちの思索の前進と信頼の構築で、克服することもできるだろう。

だから、わたしは「夢物語」を語りたい。あなたは、………。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 5日 (水)

学会発表予告〜「ベッテルハイムと沖縄」〜

※ この11月に東京・ICUで開催されるキリスト教史学会での発表要旨です。

〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

ベッテルハイムと沖縄

今を去る163年前の1846年4月末、英国海軍琉球伝道会の宣教師であるB・J・ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)が、琉球王国・那覇の港に上陸した。彼については照屋善彦の研究をはじめ、キリスト教伝道とその際の新文化の伝播や民衆との接触、聖書の琉球語訳等々についていくつかの研究がある。しかし、ベッテルハイムがその後の琉球=沖縄にどのような影響を与えたかについては、ほとんど研究がない。そこで、本発表では、彼の離琉以後、その活動がその後の沖縄人のなかにどのように残っているかに注目して、沖縄にとってのベッテルハイム来琉の意義について考察したい。

1937年4月〜5月に、ベッテルハイムの孫であるベス・ベッテルハイム・プラットが沖縄人の有志の招きで那覇を訪れている。彼女を横浜で出迎えたのはメソジスト教会信徒の島袋源一郎(当時、沖縄県教育会主事)であった。那覇では、ベッテルハイムより種痘法を伝授された仲地紀仁の子孫である仲地紀晃医師をはじめとして市政幹部や知名人たちがその接待に当たった。そのうち、志喜屋孝信は戦後沖縄民政府知事等を歴任した「元」キリスト者であり、通訳の英語教師外間政章は戦後高原教会を再建した人物であった。

この時、このような知名人たちは当時の新聞や出版物等に多くの言説を残している。また、ベッテルハイムは数人の琉球人に授洗したといわれているが、それらの人々が今日の沖縄の教会につながっているか否かについては明らかになっていない。したがって、本報告では、まず、戦前の沖縄に彼の事跡がどのように伝えられ、それがどう解釈されてきたかについて論じたい。

第二に、戦後の沖縄でのベッテルハイム伝承について論じる。彼は英国海軍琉球伝道会から派遣された宣教師であった。この伝道会は直接英国海軍と関係がある組織ではない。しかし、ベッテルハイムの派遣は、彼の数年前に来琉したフランス人カトリック宣教師と同様、欧米の強国による帝国主義的な軍事的政治的圧力を背景にしたものであった。この点で、伝道の端緒については戦後のキリスト教伝道と共通点がある。ベッテルハイム来琉100周年である1946年は、沖縄戦の直後であったため、記念行事等は行われなかった。しかし、彼の離琉100周年に当たる1954年には占領下の沖縄を挙げて「百年祭」が行われた。この時、先述の仲地紀晃を中心に「ベッテルハイム会」が復活し、沖縄キリスト教会は記念委員会を組織して「百年祭」を主導した。また、沖縄文化協会、医師会、各新聞社、琉球放送も主催者に加わった。ここでは、それぞれの立場でベッテルハイムの琉球伝道の意味が語られ、それが横浜・長崎へのプロテスタント宣教師による伝道の先駆けであるとの認識がしめされている。本発表では、この時の沖縄人たちの言説を集め、ベッテルハイムの事跡等の伝承がどのように進められていったかを論じたい。

その後も、彼の来琉120年前後に当たる1966年にも沖縄キリスト教団で記念会が開催されている。ベッテルハイムの蒔いた種は琉球王国が摘み取ったと言われ、それは後の沖縄の教会形成に直接結びつくものではなかったが、ベッテルハイムの琉球伝道は沖縄にとってキリスト教界だけではなく、その他各方面に大きな影響を与えたと推察される。

〔附記〕
この夏、8月の後半は多忙です。中旬と下旬に北海道で開かれる学会(東アジア宗教文化学会と日本基督教学会)で発表。その合間に沖縄で調査です。

最後になりましたが、みなさん、暑中お見舞い申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 2日 (日)

他人の空似〜「田母神」殴り込み講演と「小林」中傷漫画に寄せて〜

総選挙が、近づいている。最近、街中に貼られている公明党のポスターをみて、何度もどきっとしている。そのポスターには同党の太田昭宏代表の顔写真が使われている。その写真を見て、思わず「田母神」と声が出かけた。しかし、よく見ると違っている。

さて、くだんの田母神俊雄氏。8月6日に「ヒロシマの平和を疑う!!」という講演会をするそうだ。招いたのは、「日本会議広島」の 「日本の誇りセミナー」実行委員会。基本的に核抑止論を唱える者を、怒りと祈りの日に、わざわざ招いて講演させなければならない戦略や意図は、いったいどこにあるのだろうか。この件は、今後とも注視していきたい。それにしても、このような「厚顔」で「破廉恥」な行為が強行される時代になったのだな。

講演会のチラシには軍隊の必要性を説きながら、戦争を回避するために何をすべきかを述べるという。日本がより強力な軍隊ももてば「緊張する東アジア情勢」が意味するところの日本の周辺のいくつかの国の脅威から逃れることができるであろうという主張である。このように「恐怖の均衡」の下で戦争がかろうじて抑止されている事態は、真の平和な状態ではない。しかし、敢えて8・6に、そういう主張をしようとすることも、させようとすることも、全く理解できない。

「広島の市民が、田母神を招く」構図は、沖縄でも見られる。沖縄人が沖縄戦での「集団自決」の軍命を否定する。また、沖縄人が米軍基 地を肯定し、米軍や日本軍(自衛隊)の基地を誘致する。しかし、これらの多くは、本土のある思想的傾向を持った人たちの誘導である。そのような日本人たちは、「沖縄問題」にも「平和問題」にも主たる関心があるのではない。彼ら/彼女らは、それら「現地の人々」に自らの主張に沿った発言をさせることで、自らの主張を正当化しようとしているだけなのだ。

最近、NHKで「“集団自決” 戦後64年の告白〜沖縄 渡嘉敷島〜」(沖縄 慰霊の日特集、2009年6月22日)が放映された。これは、金城重栄氏と金城重明氏兄弟の「集団自決」に関する告白を中心とした内容である。これにたいして小林よしのり氏が『SAPIO』(2009.7.22号)誌上でこのご兄弟を口を極めて罵っている。わたしは、それについて異論が大ありだが、まじめに論評するに値しないのでほおっておこうかと思った。でも目取真俊のブログ「海鳴りの島から」のなかの「金城兄弟への攻撃を許してはならない」を読んで、勇気づけられた。そうです。沈黙してはならないのです。

金城重明牧師には、これまで何度もお会いしている。那覇中央教会では、金城牧師の説教を何度もうかがっている。何度もお会いしているのだけれど、わたしは金城牧師が笑っているところを見たことがない。金城牧師とほぼ同世代(若干、若いかもしれないが)の沖縄の牧師たちは実に快活に、屈託なく笑い、時には熱く怒りを充満させることがある。しかし、わたしは金城牧師が声を荒げたところを見たことがない。金城牧師の穏やかな表情や仕草の向こう側に、わたしは深い悲しみとそれを乗り越えた静謐さしか見出すことができない。

また、金城牧師には、2002年には2度にわたって聞き取り調査をさせていただいた。聞き取りの内容は、「集団自決」のことではなく、当時わたしが調査していた敗戦直後の沖縄のキリスト教と1950年代、とくに1955年のいわゆる「信仰告白」問題とその後の沖縄キリスト教会信仰告白制定過程に関することであった。

それによると、金城牧師は終戦後しばらくは渡嘉敷島にとどまっていたが、1947年頃、南洋群島からの引き揚げ者でキリスト者であった棚原俊夫氏に出会う。そして、棚原氏が糸満教会の与那城勇牧師を招き、渡嘉敷島伝道行われた。そのとき、金城青年はそこではじめて牧師の説教を聞き、糸満教会との縁をもつことになった。そして、47年の2月18日、冬の海をサバニ(小型の刳り舟)にエンジンをつけた小船で糸満に渡り、糸満教会で与那城勇牧師より洗礼を授けられた。

そして、しばらくは土曜日に渡嘉敷島から糸満に渡ってきて、教会に宿泊して与那城牧師の『ゴスペル』編集や教会の仕事を手伝い、日曜の例はに出て帰るという生活をされていたようだ。そして、玉城弘英氏の紹介で軍政府でメッセンジャー・ボーイとして勤務することになる。そして、1950年に宣教師として沖縄キリスト聯盟(後にすぐ、沖縄キリスト教会に改組)に派遣されたオーティス・W・ベル宣教師と比嘉善雄が主催した修養会で伝道者として志願をする。翌年、ロスアンジェルス在住の沖縄人クリスチャンである仲村権五郎らの集めた奨学金で日本本土の青山学院に留学をする。

金城重明牧師の歩みについては、本人の記述以外にまとまったものがあるわけではない。金城牧師を観る人のまなざしは「集団自決」や最近の発言のみに集中している。金城牧師が「集団自決」のあと、どのような戦後を迎えられたのか。《体験》と《証言》の間にはそれらの歴史があるのだし、それを踏まえた上で、最近の《証言》を考えなければならないのに、金城牧師を見る人々のまなざしからはそれらがそっくり抜け落ち、《体験》と《証言》が短絡している。

さて、先の小林よしのり氏の発言にもどろう、たしかに、彼ら(田母神氏、小林氏、その他その取り巻きや同調者)の言うとおり、言論の自由は何人にも保証されなければならない。しかし、それは彼らに反論する側にも保障されるものであって、批判するとヒステリックに「言論の自由」を持ち出してくるのは、反論の圧殺を企図するするものに過ぎない。彼らがよく「沖縄には言論の自由がない」という論法は、実はこの種の質の悪いレトリックだ。いずれにしろ、正しくない事柄には反論しなければならないし、その権利はどちらの側にも保証されなければならない。

それから、「正しい」。これも、実は、彼らによって操作されている。

(1) 自分(たち)の主張のみが「正しい」のであって、その「正しい」言論に反対するのは、言論の弾圧である。

(2) 自分(たち)の主張の根拠となる部分的証言を全体的、あるいは、唯一絶対の真実にすり替え、反論をする者にはその部分的証言に適合しないということで「捏造」のレッテルを貼っていく。

これらを、彼らは「集団自決」での「軍命」の有無についての議論にも当てはめていくのである。

しかし、こうしていろいろなレトリックや揺さぶりを多用してていても、そこで使われているからの論理は、至極単純な論理的な帰着として、成立し得ない無理なものである。つまり、「軍命があった」ということを証明するためには、論理的には1件だけでも「あった」という事実を確認すれば、少なくとも1件はあったということが証明される。しかし、「軍命がなかった」というこのと証明は本来とても難しいのだ。つまり、あらゆる場合に「なかった」と証明できなければ、それは「なかった」ことにはならない。

それは、ほとんど不可能だ。だから、彼らは考えた。そして、「『なかった』という人がいるのだから、『あった』という人の証言はウソであるという、何の根拠もないレッテルを貼ることで、あったはずの「事実」を否定しようとするのである。そして、それはどんどんエスカレートしている。最近では「嘘つき」だけでは飽きたらず、証言者を殺人者呼ばわりをして、人格的に傷つけ、貶めていくことで、その証言を無か使用と目論んでいるのだ。「嘘つきが言っているのだから、これはきっとウソだ」。「殺人者の言っているようなことは、信用できない」。そして、自分に都合のいい証言をする人は正直者で、殺人などしない善良な市民で、そして、なぜか、戦場では錯乱もせずに、60数年前の出来事を生き生きと思い出すのだ。そのコントラストに、幻惑されてはならない。

わたしは、これまで様々な立場での発言を耳にし、著作に目を通してきた。そして、自分の眼で確かめてきた「事実」もある。金城兄弟には全くアプローチをせずに、その人格を否定するような手法はとってこなかった。そして、これからも、新しい史料や証言に注視しつつ、それらを総合して判断してゆきたい。しかし、わたしが得た結果は覆りそうにないと思うのだが………。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2009年7月19日 - 2009年7月25日 | トップページ | 2009年8月9日 - 2009年8月15日 »