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2009年2月22日 - 2009年2月28日

2009年2月22日 (日)

「恩返し」の場を求めて

部屋の整理をしていたら、古い手紙が出てきた。日付は、1993年6月1日。今から15年以上前。差出人は、以前の「母校」・H大で現在も教鞭ととっておられるM先生。H大に在学中のわたしは、指導教官の留学や転出で、何度も指導教官の変更を余儀なくされていた。M先生はそんなわたしの直接の指導教官ではなかったが、専攻が近いこともあって、しばしばわたしの研究について有益で、的確な助言を与えて下さっていた。その後、わたしは、新しい師を求めてH大(修士課程)を出て、O大(博士課程)に移った。そして、一年後、初めての活字論文(大学の学科の紀要)を書いた。この手紙は、その抜き刷りをM先生に送ったときに返事であった。

その中で、M先生は、わたしの成長を認めつつも、その論文の矛盾点を的確に指摘された。そして、

自分にとってどんなに思い入れがある資料でも、論理の命ずるままに資料を捨てる勇気がなくてはいけません。

  最後に、お手紙には、「毎日、楽しい日々を過ごしています」とありましたが、論理や資料を無視して、自分の好きなことをレトリックに酔いながら書き散らすのなら、こんなに楽しいことはないでしょう。論文とは、自分の立てた論理(筋道)と資料との間を行きつ戻りつしながら、目を通し得た資料の全てを可能な限り整合的に解釈できる論理を求めて求め得ず、恥を忍んで、歴史を偽造したのではないかと恐れおののきつつ、書くものだと私は了解しています。はたして、この論文を書きつつあったあなたに、おごり高ぶりはなかったか。いかがでしょうか。
 あなたの信仰が気高く強くあることを期待しています。神の御恵みがあなたに与えられんことを!

当時のわたしの慢心を見事に言い当てたことばである。「毎日、楽しい日々を過ごしています」といあるのは、追われるようにしてH大を逃げだしたわたしの、当てつけのような、ちっぽけな自尊心の醜い発露であったのだが、M先生はそれを見抜いていたに違いない。そして、このことばがその後のわたしを支え、博士論文として結実したのだった。

さて、先日、本務校で卒業論文の口頭試問があった。わたしのゼミの学生も2名、卒論を書いたので口頭試問をした。わたしの勤務する学科には研究者を志す学生は全くいない。しかし、自分が興味を持っていたり、大切に思っていることを出発点にして、問いを立て、その問いの解答を4年間かけて求め続けるということは、彼ら/彼女らのその後の人生にきっと役に立つだろうと考えている。事実、子どもの頃から抱いていたけれども、自分では実現できるはずがないと考えていたらしい「夢」を、卒業論文を作成する過程で探究し、遂に、その「夢」を実現させた学生も少なからずいる。また、自ら深刻な問題をかかえていながら、辛くてそこら眼をそらして生きてきた学生が、それに向きあう知恵と力を次第に獲得し、その問題に正対する勇気を得て卒業していった学生もいる。

わたしは、学部生や院生であった頃から何人もの研究者から多くの学恩を受けてきた。研究者として自立してからも、所属や研究分野にかかわらず、多くの研究者から多くのものを得てきた。そして、それらは、簡単に返しきれるものではない。自分のゼミの学生に上記の如く向きあうのは、これらの恩ぬ報いるためのほんの小さな試みのひとつだと、わたしは思っておる。

わたしは、渡り歩いたいくつもの「学びの場」で、ありがたいことに、人として平等に、温かく扱われてきた。わたしが、こうして、ここにあるのは、実のそのおかげである。だからこそ、それらの恩返しとして、自分が受けたとおりのことを自分でも実践し、その「恩人たち」がわたしに接してくれたのと同じしかたで、学生に接してきたつもりだ。厳しく、毅然として、そして、温かく。

こうして、学生とともに護ってきた学問の場だ。わたしは、せめてそのささやかな場を、精一杯護っていきたいと考えている。しかし、それがかなわないのであれば、他所にそれを求めるほかはない。自分が人として扱われていないところで、人間を教育することはできないと思う。

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