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2010年3月7日 - 2010年3月13日

2010年3月13日 (土)

沖縄の新聞

調査実質2日目。沖縄県公文書館に来ている。目的は、これまで5回にわたって行われてきたベッテルハイム記念のための集会が新聞でどう報道されているかを探ると言うことだった。それで、手はじめに公文書館にきたのだが、①1926年5月と②1937年5月の2回、戦前に行われたベッテルハイム記念行事の新聞は見つからなかった。

②の記念行事に参加されたある人の戦後の回顧によると、②の集会は当時かなり詳細に報道されたらしいとのこと。残念である。8月に沖縄県立図書館で調査した時には、「天野鉄夫文庫」のなかの新聞のスクラップブックに、神田精輝(沖縄県立三中校長)の「苦闘の宣教師 ベッテルハイム」(一)〜(六)(『琉球新報』1937.5.2-7)というベッテルハイムの紹介記事が発見されたに過ぎない。

公文書館の職員によると、県立図書館にはあるかもしれないとのこと。戦後の3回、③1954年9月、④1966年5月、⑤1996年5月の記念行事の戦後の記事を調べた。細かい分析はまだだが、③では『琉球新報』『沖縄タイムス』とも約半年にわたるキャンペーンが展開されたが、④では米軍関係者の中にベッテルハイムの子孫がいて、その関係者がベッテルハイムの史料を公開したことを紹介するなどにとどまっている。

それと、1983年に初代のベッテルハイム記念碑(1926年建立)の拓本が発見されたことを契機に幾つか回顧記事が見られる。

いずれにしろ、これらの新聞記事では、ベッテルハイムの表象をみていくと、占領軍と沖縄の地域住民のあいだにあるベッテルハイム伝道の評価についてそれぞれの思惑があったことがみられるのではなかろうか。「思惑」というと、悪意や損得勘定が透けて見えるような表現だが、それを含めて、ベッテルハイム離琉後のベッテルハイム表象を歴史のなかに位置づけていきたい。

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2010年3月12日 (金)

「いつまで…」の気持ちに

F16は、つまるところ、人殺しに兵器である(なんか陳腐な表現だが)。そして、それにふさわしい、この世のものとも思えない“叫び声”を発する。地獄のものとも、怪獣の雄叫びとも………。

そして、それがときどき沖縄・嘉手納に来ては、その聞くに堪えない、耳を塞ぎたくなる“叫び声”を上げている。それに、心臓が震えている。

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「仲里朝章文庫」、沖縄キリスト教学院図書館に設置予定

沖縄フィールドワーク第1日目(実質)。午前中、沖縄キリスト教学院図書館におじゃました。旧知の研究者との再会あり、新しい出会い、たくさんあり。収穫の多い訪問であった。

そして、近日中に同図書館に「仲里朝章文庫」が設置されるという。同学院の初代学長である仲里朝章については、このブログでもここで採りあげている。残された文書から分かるのは、彼は、よく学ぶ人であり、よく書く人であった。今度できる「仲里朝章文庫」には300点近くの文書が所蔵されると思うが、彼が書いた文書は恐らくその数倍に上るだろう。そう、彼が戦前、東京に学び、長崎や東京で教師をし、富士見町教会で長老や日曜学校の教師をしながら書きためた文書は、ほとんどすべて、沖縄戦で灰燼に帰したという。

もし、その文書群が今も存在していたら、沖縄の戦前のキリスト教の、特に東京での活動の実態がよく分かったに違いないし、仲里朝章自身の思想形成、そして、植村正久や日本基督教会(旧日基)と沖縄の関係(植村自身が沖縄に関心を持っていたのではないかと思うのは、戦前、植村の弟子である小塩力(つとむ)が八重山伝道を行っているし、富士見町教会には仲里を頼ってか比嘉盛仁や沖縄の青年たちがたくさん通っていたからである)がもっと鮮明に分かってくるのではないかと思い、とても、とても残念である。

その意味で、「仲里朝章文庫」がゆかりのある沖縄キリスト教学院で保存・保護されることになったことは大変意義深いことである。加えて、個人の日記や書簡を含む史料を公開されることを決断された御家族のご英断に、深く感謝するものである。

仲里朝章は、戦後の沖縄キリスト教の指導者のひとりであり、同時に教育者、研究者、思想家と多面的な側面を持った人物であり、もっと研究、評価されていい人物である。

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