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2010年3月14日 - 2010年3月20日

2010年3月14日 (日)

「ベッテルハイム宣教163年感謝会」

15:00から沖縄キリスト教学院シャローム会館大教室で「ベッテルハイム宣教163年感謝会」に出席。
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第Ⅰ部は礼拝で、山里勝一牧師の司式。神山繁實沖縄キリスト教学院理事長の説教「時がよくても悪くても」。

第Ⅱ部は日本キリスト教団沖縄教区の平良修牧師と沖縄バプテスト連盟の饒平名長秀牧師の対論(「ベッテルハイムの琉球伝道とプロテスタント宣教『150年問題』についての対論」)であった。

参加者は主催者発表で94名。知った顔あり、知らない方もあり出会ったが、ほとんど沖縄の教会関係者と思われる。本土からは、大嶋果織・日本キリスト教協議会(NCC)教育部総主事が出席。

さて、平良・饒平名両氏の対論は約2時間に及び、次第に熱を帯びてきたのが印象的であった。その内容はベッテルハイムの事蹟を顕彰したり、検証したりすることではなく、専ら「日本プロテスタント宣教150年」の「150年」問題に終始した観があった。そして、その問題を検証するために「日本」の範囲や琉球王国と薩摩・日本本土との関係のとらえ方に時間が費やされた。

饒平名氏は、琉球王国は1609年の「薩摩入り」以降、実質的に幕藩体制に組み込まれていたのだから1859年の宣教師横浜・長崎上陸をもって「日本プロテスタント宣教」のはじまりととらえることは「けしからん」という立場。平良氏は琉球王国は内実はどうあれ、独立国であったのだから「150年」と「163年」ははどちらも認めるという立場であった。会場からの質問用紙による質疑応答を含めて議論はしだいに「沖縄独立」論に向かっていきそうな勢いはあった。

しかし、両者の意見は、基本的にかけ離れてはいなかった。その一方で、「平良さん、あなたは横浜で行われた「150年」の集会に行かれましたか? わたしは行きました」というような発題者をやや揶揄したような質問が読み上げられもした。これは、おそらく「150年」肯定(=これのみが唯一で、「163年」は一切認められない)の立場の発言であろう。ここにも、沖縄の教会の複雑な事情があらわれていたと思う。

さて、この場での議論で欠落していた論点とすれば、ベッテルハイムの伝道が現在の沖縄教会(日基沖縄教区やバプテスト連盟、聖公会等教派を問わず、カトリック・プロテスタントを問わない)の起点、源流、原点であるとするならば、ベッテルハイム離琉以降、沖縄の地域社会のなかでベッテルハイムがどのように表象されていったかを、まず、問わなければならない。しかし、その重要な点が、実は、この日の対論にかけていたと思われる。

それで、

ベッテルハイムは数人の信者を得たといわれているが、それは今日の沖縄教会につながっていない。それを評してベッテルハイムの伝道は失敗であったといわれている。しかし、その時の信者が信仰を守れなかったのは、ベッテルハイムが悪いのでも、指導者(牧者)が去って信仰を維持できなかった「信者」が悪いのでもない。その責任は、ひとえに宣教師とその派遣団体にあるともう。つまり、中国大陸の次の伝道地を日本本土に求めた宣教師たちは、禁教が続くあいだ、その伝道戦線の橋頭堡としての琉球にとどまったが、日本伝道の目処が立つと琉球の民の魂の救済をないがしろにして、本土に殺到した(「殺到した」は言い過ぎだが…)。そして、日本本土の伝道が一段落したあとも、琉球=沖縄の伝道はないがしろにされてきた。「辺境」としての琉球=沖縄は、日本本土よりも早く、プロテスタントのキリスト教に出会い、そして、その後は「辺境」として軽んじられてきた。

しかし、琉球の住民は、「琉球国」が「沖縄県」になってもベッテルハイムのことを記憶し続けた。それは、洗礼を受けるとか、教会を建てていくとかといった記憶のしかたではなかった。戦前、2度にわたって行われたベッテルハイムの記念行事にはベッテルハイムと直接接した経験のある人びとが参列していたという。また、2度目の記念会には琉球=沖縄での体験のないベッテルハイムの孫娘が祖父から父へと語りつがれてきたベッテルハイムによる琉球の思い出を回顧した。このような記憶のあり方は、キリスト教の日本への「土着」のひとつの類型になりはしないだろうか。

これが、わたしの今回の研究テーマである。

さて、意図しなかったとはいえ、わたしは歴史的瞬間に立ち会った。

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