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2011年4月17日 - 2011年4月23日

2011年4月18日 (月)

キリスト教伝道とキリスト教史研究の接続〜「信徒が織りなすキリスト教の歴史」への返答〜

先日Facebookでわたしの論考(一色哲「『一国伝道史』から『キリスト教交流史』へ ――『日本』キリスト教史の対象と空間・再考――」(日本基督教学会第58回学術大会発表原稿、2010年9月、立教大学))を丁寧に紹介していただいた。

林巌雄氏「信徒が織りなすキリスト教の歴史

上記はFacebookのメンバーなら閲覧できると思う。林氏の投稿の後、他のお二人を交えて、議論がなされた。わたしもその議論の途中で登場をうながされたが、このブログで最近述べた如く、いろいろごたごたしていて、きちんとお返事できなかった。

さて、この論考は上記のとおり学会発表の原稿である。しかし、その執筆の直接の動機は、わたしがこれまでのしてきた高梁や沖縄のキリスト教史研究のまとめとして、その問題意識と方法論を整理しようと思ったことによる。また、書いている途中で、最近の学会での日本キリスト教史の分野での発表について思うことが再三頭を過ぎった。それは、「はじめに」の「戦後65年を経過し、日本キリスト教史研究は今日の世界状勢や社会状況、そして、教会やキリスト教、あるいは、宗教を取りまくさまざまな問題に対してそれらと対峙し、解決の道を模索するという歴史的使命を果たしているのだろうか」という一文に凝縮されている。

わたしは伝道者ではない。一介の(不出来な)信徒にしか過ぎない。また、研究と伝道を結び付けて考える立場でもない。しかし、大学でキリスト教と特に関わりなく、関心もない学生に日本や沖縄のキリスト教史を講じている。大学の講義は伝道はない。だから、自分の研究と伝道を結び付けることはなかったのだが、昨今の特に日本キリスト教団内の混迷を傍観する過程で、それでも等閑視できないという意識が芽生えてきて、自分の研究が日本のキリスト教の伝道に参与できるのではないかと考えはじめた。

わたしは、この論考の中で日本のキリスト教界に蔓延る「ファースト・インパクト」の神話化や欧米宣教師の植民地主義的まなざしと日本人牧師によるその内面化を批判してきた。それに関しては、上記の議論の中で共感を呼んだようである。

とくに宣教師と日本人牧師の文明観や植民地主義的思考に基づく伝道は、現在の日本のキリスト教全体の歴史観をゆがめている。それでは、そのゆがみはいつごろから生まれたのだろうかという質問があった。これについてはいろいろ考え方はあろうが、最もラジカルな観点からいうと、わたしは、「キリスト教が誕生してから」としか答えられない。つまり、この問題はキリスト教の伝道という構造に端を発するのであって、宣教師や牧師の個性に依るものではないと考えている。だから、神学校の教師や牧師に女性を増やすとか、特定の牧師の言動を見習うことで克服できる問題ではないのだ。

キリスト教は、そして、他の多くの宗教はより多くの信者を獲得する場合に他の宗教よりも自分たちのものが教義的にいかに優れているかを力説しなければならない。近代のキリスト教の場合はそれに西洋文明の優越性(優秀性ではない。圧倒的な経済力と軍事力に支えられた優越性である)が重ねられて伝道が行われたのである。だから、こうした歴史観のゆがみはキリスト教伝道の宿命である。

だからこそ、そのことをいつも肝に銘じながらキリスト教を語らなければならない。わたしは、自戒を込めてそう思っている。そして、いくつもの出会いによる地域のキリスト教の変容を丁寧に追い、沖縄や宮古・八重山のキリスト教史を史料の発掘からやり直すことで、それらを克服しようと考えているのだ。

そう。地域のキリスト教史を教派・教団という縦割りではなく総体的に捉えると、そこでのキリスト教や約150年前の横浜・長崎に伝えられたキリスト教と余り関係がなく、歴史のなかでのいくつかの出会いで変容していくのがよく分かる。それから、教団中央からではなく、周縁地域のキリスト教を自立的にとらえることで近代キリスト教伝道の宿痾である「一国伝道史観」をある程度抑止できるのでは開花と考えているのだ。

最後に、わたしは岡山の高梁や南島のキリスト教史から実に多くのものを学んだ。
 

 



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