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2011年7月3日 - 2011年7月9日

2011年7月 4日 (月)

言葉尻をとらえる社会について〜「出過ぎる杭」を「ヤクザ」と揶揄する方法論再考〜

「これは、オフレコだ」といって周りを見渡すと、新聞やテレビの記者たち。その中での発言だから、きっと確信犯なのだろうと思う。

松本龍氏。それにしても、おもしろ人物が現れたものだ。「3月11日以来、わたしは民主党も、自民党も、公明党も嫌いです」には共感しただろう人びとも、マスコミも、今度の岩手と宮城での発言では集中砲火の体である。そして、ワイドショーではコメンテーターがまたしても訳知り顔で「解説」もどきを行い、被災者に自らの怒りを代弁させている(なんと、自分の言葉のない、卑劣なやり方だ、毎度毎度)。そして、人を批判する口調は、やはり、批判する(「批判される」ではなく)人の品性をも貶めていることに、まったく気がつかないでいるのだ。ああ、人を口汚く罵る人の、なんと醜い事よ。そして、「正論」とやらに陶酔を極めている。松本氏の発言を真に批判できる人は、被災した方々だけなのだが。その発言が何か、別の意図で、利用されようとしている気がしてしかたがないのである。

さて、この社会では「出過ぎる杭は、打たれる」というが、「出過ぎる杭は、放っておかれる」ともいう。わたしは「出過ぎる杭」が好きで、自らも「出過ぎる杭」でありたいと思っている。そして、そう生きてきた。確かに、松本氏の言葉遣いの品性のなさや、復興担当大臣としての場や地位をわきまえない発言は教養を疑われる。しかし、大事なのはその破天荒な言葉を行動に生かすことができるかどうか。つまり、「出過ぎる杭」として、破天荒に行動し、獅子奮迅のままに被災地の復興という利権渦巻き、思惑が堆積する難事業をなし得るかどうかだ。行儀が良く、品性卑しからずして、教養豊かな人間が、実に多くいたにもかかわらず、彼ら/彼女らがいったいこれまで何をしてきたのか。

それから、今頃、ネット上を飛び交っているであろう「ヤクザ」という言葉は、やはり、言葉尻をとらえる以前に差別的で、暴力的でもある。わたしは、先頃ささいな“つぶやき”でネット上である人物とやり合うことになってしまった。そして、自分の意の通らないその人物から「まるでヤクザ」だといわれた。そこでのやりとりは、客観的に見ても、わたしの方が紳士的であったと思うが、そうではない(紳士的ではない)人物から投げつけられた「まるでヤクザだ」という言葉は、やはり、差別的で暴力的であった。それだけに、「ヤクザ」呼ばわりされている者に、ついつい同情的なのは、悪いことなのだろうか。

「ヤクザ」には、「ヤクザ」の生き様があり、そこに行きあたるにはそれなりの理由があってのことである。社会の矛盾や悲しみ、苦しみを背負って、なお、それを、暴力という形でしか、表出できない不器用な生き様。そうした生き様は、この社会から排除され、それでもなお、繰り返し繰り返し、妻子、兄弟、家族までも「裏」の者として指を指され続けているひとたちである。そのような人をたとえにすることは、決して生産的な議論を呼ぶものではない。そのような生き方を知らず知らずのうちに踏みつけてでる言葉を、わたしは恐怖するのだ。

恐い社会になってきた。なんでも、かんでも、「ヤクザ」のレッテルを貼って排除する。いつか、突然、なんの理由も示されずに排除されるかも知れない人たちも、やはりマスコミがたたく者をターゲットにしている人物を「ヤクザ」のレッテルを貼り排除する社会になった(前からそうだったかも)。

さて、松本氏のこと。批判者は、そうではない方法で批判はできないものだろうか。発言をするから大臣として適切ではないのか。国と地方自治体がどのような関係なら、復興が進むのか。「神戸はこうやってきた」と胸を張れるようなことをわたしは何もしていないが、しかし、自分の住んでいる地域を愛するが故に、先ず、一義的に、自分たちで自分たちの問題を解決する他はない。「知恵を出したところは助けるが、知恵を出さないやつは助けない。 そのくらいの気持ちを持って」と大臣が言ってくれたのがから、少なくとも岩手県では住民や自治体、その他の組織が、知恵を出したらそれを国が財政的にバックアップするという言質はとれたわけだ。

だから、この社会の皆が知恵を出すのを手助けをして、いいプランができて、なお、ごにょごにょと金を出さないというのであれば、「ヤクザ」ではなくて、「詐欺師」として告発しようではないか。

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