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2011年7月31日 - 2011年8月6日

2011年8月 6日 (土)

惨禍の忘れ方、再考〜原爆から原発事故をつなぐ「歴史の時」〜

今年の8・6では、福島の原発事故後のことで例年とは違った発言が目立つ。それらに触れながら再認識させられたのは、戦後、この国では核戦争と核の平和利用が分けて考えられてきたという事実だ。

この二分法について、今でも忘れならない出来事がある。それは、今から20年以上も前、当時通っていた広島の教会(日本キリスト教団広島教会)の社会委員会主催の勉強会でのことだった。このと詳細は覚えていないのだが、原発か核の平和利用のことを採り上げた勉強会の席上、発題者のひとりが日ごろはまったく礼拝で見かけない(これも記憶に頼ったことなので、もしかすると礼拝には良く出席していたのかも知れない)教会員であった。聞けば、その方は中国電力に勤務しており、どうやら専門的な技術者として原子力部門で働いた経験がおありのようであった。

その勉強会の席上、わたしたち若い参加者は原発には懐疑的、あるいは、批判的、否定的であったが、その方は頻りに自分の専門的な知見に基づいて「原発は安全」という主張をくり返していた。当時は、社会経験も、教会での経験も少なかったために、被爆地の広島で、そして、クリスチャンで、原発関連の仕事をしており、こうも堂々と核の平和利用を肯定する人物がいることに衝撃を受けた。その他、その教会には戦後米占領軍の政策でつくられたABCC(放射線影響研究所)で被爆直後から原爆の被害状況に調査をしてきた一方で、在韓被爆者の渡日治療に協力もしてきた医師がいたりした。

被爆地の広島で、被爆者が核の平和利用に肯定的であること。

このことはその原発専門家であった方の個人的な問題としてではなく、わたしのこころに疑問として残ってきたことの一つであった。そして、その疑問への答がつい先日のテレビでのインタビューで明らかないなった気がした。それは、核の平和利用については、被爆者のなかでは「希望」であると受けとめられてきた場合もあるということだった。

戦争に使えば「悪」だが、平和裡に利用すれば人類の発展に貢献する。
また、平和利用を成功裡に行うことで原爆で受けたダメージを回復できるのではないかという淡い「希望」があった。

人間の心情とは複雑なものである。しかし、こうした納得のしかたは、今回の東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で通用しなくなった。あるいは、そのように納得してきた人びとに少なからぬ動揺を与えている。まさに、「核」や科学技術の発展の本質についての、根源的な不信がわたしたちの哲学や神学を変えようとしている。

そして、66年経っても、なお、新しい事実が発見される。今晩、小学生の息子と「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」を見た。彼とは、2年前、広島を旅をしたのだ。番組では陸軍情報部が長崎の原爆投下5時間前に確度の高い情報をつかんで、上層部にその情報をあげていたにもかかわらず、結果的にそれが黙殺されたという新事実が紹介されていた。

このように、これからも、なお、新しい現象(事件、事故)が起き、局面が劇的に変化することもあるだろう。また、新しい事実も発見される。そこでは、「希望」を掲げた「惨禍の忘れ方」について、その前提となっている「希望」そのものが実は不確かであったり、意図的政治的に操作された者であったりすることが、歴史の検証を経て明らかになり、その再考が迫られる「歴史の時」がくるのだ。

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2011年8月 4日 (木)

今さらながら、キリスト教と戦争

きょうの朝日新聞に、米軍内でのキリスト教の理容についての記事が出ていた。リンクは、以下の通り。

米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育

沖縄のキリスト教史を研究していると今さら驚くことはないのだが。それに、見出しの「聖戦教育」だが、「教育」の言葉はどうだろうか。不適切に思える。「洗脳」は言い過ぎだろうか、これは「牧会カウンセリング」の一環だろう。キリスト教徒の兵士は子どもの頃から教会で「人を殺してはいけない」と教えられてきたのだ。当然、自分が今やっていることとその教えは矛盾し、戦闘行為に疑問をもつ。その精神的な負担を軽減するために、牧師が軍務を肯定する。それは、核戦争に限られるものではない。

新聞記事中の「従軍牧師」は軍隊では「チャプレン」と呼ばれている(「チャプレン」自体は学校や病院にもいる。だから、「従軍牧師=チャプレン」ではな い)。このチャプレンは、記事の場面だけに限定された「カウンセリング」をしているわけではなくて、米軍基地外での「宣撫工作」を含めて、幅広い戦闘の精 神的後方支援をになっている現役将校である。だから、牧師(聖職者)であると同時に現役の軍人でああり、牧会よりも軍務を優先させる「牧師」である。

これは、沖縄で聞き取りをしていたときのことだ。沖縄人牧師に軍務への 疑問や仕事の愚痴を語った米兵に、沖縄人牧師が「そんな悩みだったら、基地の中のことだから、チャプレンに相談したらどうだ。彼も牧師なのだから」と語っ たところ、

‘He is the another Officer.’

「彼は、もうひとりの将校に過ぎない」。これが、米兵のチャプレン評である。この時米兵が沖縄人牧師に告白したのと同じことをチャプレンスにする、即座にMP(Military Police、憲兵)を呼ばれ、矯正キャップにおくられて、思想教育をされるのだそうだ。

このようなチャプレンと沖縄の教会との関わり、そして、米国人宣教師については、部分的に拙稿「軍事占領下における軍隊と宗教─沖縄地域社会とキリスト教を事例に─」(『甲子園大学紀要』第36号、2009年3月)に論文化している。その際に参照したのは、以下の二つの論文であった。

  • 石川明人「アメリカ軍のなかの聖職者たち─従軍チャプレン小史─」(『北海道大学文学研究科紀要』第117号、2005年)
  • 田中雅一「軍隊と宗教─米軍におけるチャプレン─」(京都大学人文科学研究所『人文学報』第90号、2004年)

キリスト教と戦争 ── このふたつの良縁・悪縁は歴史的なものである。そして、戦争に反対するキリスト教もあれば、戦争を奨励するキリスト教もある。そして、戦争を奨励するキリスト教は、当該新聞記事を執筆した記者氏(ロサンゼルス=藤えりか、ワシントン=望月洋嗣)の見立てとは違って、ブッシュ・ジュニアを支持してきた「米国の宗教保守層」に限った特殊な事例ではない。

つまりは、キリスト教を信仰すること自体が重要なのではなくて、どのような信仰をもつかが重要なのだ。

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