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2011年9月4日 - 2011年9月10日

2011年9月 7日 (水)

穿ち続ける、ということ

2日間にわたる日本基督教学会第59回大会が終了した。

感心したこともあり、腹に据えかねることもあり、また、驚いたこともあった。しかし、大切なことは穿ち続けることであると、実感した大会でもあった。

さて、わたしたちはキリスト教の内外に存在する周縁的・周辺的・辺境的課題に挑戦し、穿ち続けるいわば「辺境的研究者」である。わたしは、そのひとりとして、今回は宮古群島のキリスト教史について報告した。そして、一度も言葉を交わしていないし、相手も私の存在に気がついていないかも知れないが、勝手に同じ志を感じている研究がいくつもあった。そのひとつについて、若干、感想を述べたい。

もう何年もキリスト教に内在する同性愛に対する嫌悪感や敵意について丁寧に研究してきた研究者がいる。その研究者の発表に対して、ある「旧約学者」と称する人物がソドムでの物語で語られている「知る」という動詞の性について指摘し、暗に「ソドムの町は同性愛という背徳を行ったので滅ぼされた」という見解を指摘した。この指摘自体は従来から行われていて、発表者も動詞の性については知っているはずだ。その上で、このような指摘をする行為は、とても卑劣だと思った。

学会発表をしたときにしばしばあることだが、真意を隠して質問や指摘をして、暗に発表者を非難する。上記の行為は、正にこれである。発表者は質問者の指摘を承知の上で、こうしたことを根拠にして牧師等の聖職者や聖書学者、信徒が説教や聖書研究を通して教会の内外でホモフォビアを形成したことを批判している。だから、質問者も、「しかし、聖書にそう書かれているのだから、同性愛者を差別するのは当然のことだ」と言わなければならないはずだが、そこの所を完全に逃げているのだ。その行為が、とても卑劣に感じられた。そんな質問者の態度に接するたびに、キリスト教なんて、あるいは、聖書学なんてどうしようもないモノだという感が強くなる。

さて、最初の問題に戻ろう。

「穿ち続ける」主体は自分たち辺境的研究者だが、さて、「穿ち続けられる」モノ(客体)のはなんであろう。また、何者であろう。そして、問題は、正にその客体にあるのだ。

一義的にはわたしたち辺境的研究者が挑んでいるのは研究課題であるが、本当は保守的で体制的、強権的で強圧的な中心・中央の研究者群ではないかということだ。こうして穿ち続けていると、必ず共感は広がっていく。くだんの研究者の論考も、この学会の今年の学会誌に掲載された。わたし自身も、最初は、なんで「沖縄のキリスト教史?」という反応だったが、最近は違ってきている。

わたしは、こうして穿ち続けるのが、性に合っている。なによる、穿ち続けることが好きだ。そして、わたしは穿ち続けている研究が、とっても好きだ。

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