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2012年1月11日 (水)

希望の先の深い絶望について、考えてみると、涙が出た。〜9.11。女川町立病院の建つ丘に立ってみて〜

本日、2012年1月11日で東日本大震災から10か月になる。そして、はじめて被災地を訪れた昨年9月11日からもう4か月も経ってしまった。その間、書かなければならないと思い続け、下書きを書いては訂正し、また書いての繰り返しをしていたことがある。それを、なんとかことばにしたい。

以下は、そのひとつの結果である。

……………☆……………☆……………☆……………☆……………☆……………

9月11日。あの大震災の後半年の節目の日に宮城県の被災地を訪れてから、ずっと考え続けていることがある。それは、希望と絶望についてだ。そして、神様は、本当にいるのかということだ。その答えは、いまだにでていない。しかし、書かなければ、前に進めないのので、書けるところまで書こうと思っている。

その日の朝、宿泊していた松島を発った。松島は、いまから20年近く前、友人と訪れたことのある思い出の地だ。松島は、島が多く、それが防波堤の役割をしていて、他所よりも津波の被害は少なかったようだ。旅館やホテルも残っていて大部分がボランティアの宿泊所になっていた。むろん、被害が少ないからといって悲しみや苦しみがなくなるわけではない。それは、軽くなるわけでもなく、かえって別の種類の苦しみ(例えば、サバイバル・シンドロームのような)になるだけであることは、わかっている。

そして、最初の目的地の女川漁港に向かった。石巻方面から女川街道を行き、峠のような所を越える。すると、かなり内陸部まで津波の痕跡が残っている。そして、人がいない。人影もない。そして、女川の役場もある女川漁港に出た。いくつかのビルが残っている他は、何もない、更地が広がっている。

バスの窓から見たあるビルに私はずっと違和感を持っていた。何かが違っている。すると、運転をして頂いている方が、「このビルは、横倒しになっているんですよ」と言われたのを聞いて、その違和感の正体がわかった。

P9110032_7

写真を見てわかるように、建物の向かって左側に非常階段がある。ビルが横倒しになっているので、何かとても不自然な模様のように、それは見えた。角度を変えると、次のように見える。

P9110066

これは、後述の女川町立病院から撮った映像だ。ちなみに、女川町でわたしが見たのと同じような光景は現在(2011年12月)Google Earthやストリートビューで見ることができる。 さて、女川漁港があった場所でバスを降りて、しばらくあたりを歩いてみた。何もかも本当に流されてしまっていて、建物はほとんどが土台の一部だけを残して何もなくなっている。残ったビルは先述のビルのように横倒しになって流されて止まっていたり、立っているだけで、津波が貫通したあと、向こうが見通せるような、異様な状態になってしまっている。

P9110051

横倒しになったビルは、地震で液状化現象がおこり、浮き上がっていたところに津波が来たので、そうなったらしい。

しばらくして、バスの運転手の方の案内で女川町立病院が建っている小高い丘に向かった。途中、その丘の崖にかかる緊急避難用の階段では、海側の手すりは根本からちぎれており、陸側の手すりは海から内陸へ大きく折れ曲がっていた。

P9110071_2              (写真は崖の上から撮影)

病院前の広場について手すりに近づくと、女川漁港が一望できた。側には花やお供え物があり、傍らでは震災半年目の取材のためのテレビの照明や撮影の準備が進んでいた。天気は曇で、暑くはなかったが、港近くにいたときから、魚の腐ったような臭いがしていた。聞くと、被災当初の臭いはもっと強烈で、とても我慢できなかったという。

女川町立病院が勝手いる高台は、ビルの5,6階の高さはあるだろうか。津浪で流され、ほとんど何も残っていない平地を眺めながら、「ここまで来れば、津波も大丈夫だったのだろう」と何となく、「救われた」という感慨がこみ上げてきた。

しばらく写真を撮りながら、漁港の方を見ていたが、やがて奇妙なことに気がついた。

P9110064

ご覧の通り、柵は仮設のものである。写真にはよく写っていないが、よくみるとその仮設の作の外側にはパイプが根元からねじ切れて、コンクリートに等間隔で穴が空いている。それを見つけたとき、はじめはその意味するところがわからなかったのだが、やがて、ここも津波に襲われ、柵がねじ切れたのだということを悟った。

その高台のすぐ近くに残っていたビルを見ると、

P9110030

このビルなのだが、その屋上は、

P9110063

その他課題と同じ位の目線になるのだが、屋上には木ぎれや鉄製の瓦礫、そして、名瀬かソファーまで引っかかっているではないか。

また、後ろを振り向くと、駐車場の案内板も折れて壊れかかったいる。

P9110072

確かに、わたしたちの立っているこの高台の駐車場に津波が押し寄せていたのだ。そのとき、本当の恐怖とはなんであるのかわかったようで、恐怖で身体が震えてきた。

本当の恐怖と絶望………

それは、最初の恐怖に襲われてそこから無我夢中で逃れた。そして、「救われた」「助かった」吐息を抜いたところにやってきた、さらに大きな恐怖に直面することだったのだ。

後でYouTubeをみると、
http://www.youtube.com/watch?v=BLLcNitr3cg&feature=related
人びとはさらに上の山に向かって逃げており、映像では女川町立病院まで津浪が挙がってくるのわかる。つまり、人びとはさらに高台に逃れており、そこまで辿りついた人は助かったと言うことだ。

しかし、ひとは一度目の恐怖から逃れることができても、一度安心し、気を抜いた後に襲ってきたさらに大きな恐怖に堪えられるのだろうか。

あの時、他に石巻や七ヶ浜などで見た光景はいまでも忘れることができない。希望のあとの絶望といえば福島もそうだろう。地震や津波でやっと生き残って希望の光が差し込んできたところに、原発の事故と放射能汚染………。

この女川町立病院でのわたしの経験は、恐怖を乗り越えた後の希望の先に訪れた絶望の深さや過酷さを痛みとしてわたしの心に刻むことになった。そして、それから逃れ、それらを克服することは決してたやすいことではないのだろう。人が立ち直ることも、街が復興することも、このような深い絶望をまず克服しなければならないという、とてつもなく時間のかかる、また、精神的に負担のかかることなのだと、その時のわたしは考えていた。

そして、あれから、ずっと考えている。もうすぐ、1.17。その時のわたしの記憶と上記の体験と、それらを往還しながら考えてきたことを、これからも答を見つけに考え続けたい。

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