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2012年1月1日 - 2012年1月7日

2012年1月 1日 (日)

日本の近代と消される故郷、残る故郷

昨年末、3年間にわたって放映されてきた『坂の上の雲』がやっと完結した。3年前にはわたしの故郷である松山(愛媛県であるが、往々にして「四国・松山」と紹介されることが多い)が舞台になっており、主要な登場人物が高校(旧制中学とその前身)の“先輩”であったので、多少興味を持ってみていた。原作の『坂の上の雲』は、たしか、高校時代(高校3年の2月、受験勉強中の最中)に読んだ記憶がある。

さて、物語の内容だが、高校から大学にかけて『竜馬がゆく』などを含めて司馬遼太郎作品をかなり読んだ。しかし、歴史、とくに、日本の近現代史を研究するようになってから司馬作品に通底する歴史観には問題を感じてきた。

今回のドラマはハイビジョンで見ると迫力があり、見応えがあった。それから、広瀬武夫や高橋是清などの人物像やその行動も相当に準備や資金をかけて撮影されていたと思う。しかし、日本海海戦から歴史を振り向いてみれば一種の「成功物語」になるが、そこから先の歴史をたどると、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争の破局の遠因がこの「成功=勝利」の物語に隠されているのだが、そこを司馬作品を越えて描ききることはできなかったのだろう。そして、折悪しくも(とわたしは思っているが、NHKは「折良く」と思っているのだろうか)東日本大震災後にこうした無批判な「成功物語」を見せられ、国民の間にただよっている閉塞感と妙な高揚感、そして、一体感を刺激せねばいいと思っている。

それとはべつに、とても気になったことがもう一つあった。それは、秋山兄弟の「ことば(ことばづかい)」であった。最初の一年、特に、秋山真之は松山にいたこともあって、かなりきつい訛りで話していた。「ガイナ」「ガイナ」と「ガイニ」くり返していたなぁ。「ガイナネヤ」は、とてもなつかしい響きだったが、そんなに再々は使わんだろうと思う。それども、わざとらしく、単語だけ強烈な「伊予訛り」で話をしていた本木雅弘にちょっとだけ違和感があった。

それが、東京に出てからしばらくするとすっかり標準語っぽくなり、兵学校に入ってからは「軍隊方言」で話しはじめた。もっとも、同郷の正岡子規を訪ねるととたんにあのわざとらしい訛りでしゃべていた。わたしも普段は「伊予訛り」で話したりしない。故郷を離れてもう30年以上がたち、数年に一度しかふるさとには帰らない。普段は関西系のことばと標準語のちゃんぽんで話をしている。だから、秋山のこの行動は、とてもよく分かる。それにひきかえ、薩摩出身の東郷平八郎などは最初から最後まで「薩摩訛り」の渡哲也だった。それから、「長州訛り」はあまりよくわからないのだが、乃木希典は児玉源太郎よりも訛っていたのではなかろうか。

明治政府にとって「地方出身者」であった秋山真之や好古はふるさとのことばを捨て、一方で薩摩出身者の訛りはそのままにする。そういう描き方に、とても違和感を感じた。でも、実際はどうだったのだろう。現実に薩摩出身者は軍隊で薩摩訛りを通していたのだろうか。長州出身者は「〜であります」という山口弁を「軍隊方言」に加えたと言うが、全体的にも訛ったままでとうしたのだろうか。そんなはずはないと思うのだが。

こうして、ふるさとのことばを自分の身体から取り除いて、戦争という手段で国家に奉仕しようとする中央からの歴史の描き方は、単に司馬遼太郎の原作によるものだけではないだろう。NHKやいまの政府、官僚のなかにも、やはり薩摩閥、長州閥的な集団意識が残存しているのだろうか。明治維新からかれこれ、150年近くになるが、いまだにこの国の近代は薩長が作った近代にままなのだろうか。

ふるさとをはなれ、時々、なつかしく思い出すことがある。こうして、郷愁をかき立てるのは城山を中心とする松山の風景と父や母が話していた訛りである。このふるさとのことば・それが、近代化に直面すると、その権力関係でのこされるものと消される(消す)ものとに二分される。ことばは、支配−被支配の関係性を常に規定していくという意味で、極めて政治的な存在である。

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新年のご挨拶にかえて〜反「一色」主義宣言〜

みなさま、新年、あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。2012年の年頭に当たり、ひと言、ご挨拶にかえて。

ことしは、反「一色」主義宣言

わたしの名前は「一色(イッシキ)」なのですが、何もかも「一色(いっしょく、ひといろ)」に染めていくやり方は嫌いです。だから、反「一色」主義。

昨年は、3月に東日本大震災があり、その後の事象をわたしなりに注意深く観ていると、気づいたことがあります。歴史は点で事象を観るで線や面で事象を観るのです。つまり、過去・現在・未来のつながりや広がりやつながりで歴史事象を観ていくのです。

それらの見方で気づいたことは、昨今の「一色」主義の増殖です。確かに、破局的な大災害に直面して人びとが心をひとつにして被災者の救援や災害からの復興を目ざすことはわかります。しかし、この大震災を点としてみるのではなく、線、つまり、ここ十数年の出来事の流れのなかでとらえ、面、つまり、今年(あるいは震災の前、1年ぐらいに)同時に進行していた事象との関わりでみると、ひとがひとを助けるという単純だけど重要なこと以外に、その「ひとつになる」というエネルギーが何か別のことに使われ、これまでのこの社会のあり方が変えられようとしているように思われてなりません。

阪神大震災のときには。「頑張ろう!KOBE(神戸)」でした。しかし、今回は「東日本」、または、単に「日本」です。確かに災害の被害や規模が違います。しかし、この声「一色」に国中が染められていくと、結果的にせよ、「日本(人)」以外のもの(者)が排除されたり、他の地域にもあるとても大事な出来事が隠蔽されてしまうのではないかと、わたしは危惧しています。沖縄の普天間基地の移転問題で行われた姑息や新燃岳の噴火はどうなったのでしょうか。尖閣諸島や竹島の問題を然り。その他、社会や経済に様々な問題は、いまだに解決されないままになっており、震災で一挙のその関心が世間的に薄れていっています。

これは、一連の震災的事象のなかでもみられます。例えば、東京・首都圏に直接的関係がある原発と放射能問題が強調されると、津波や地震そのものの被害とそこからの復興の問題が薄められてしまいます。

それから、おそらく、小泉政権の頃からの傾向ですが、異なる意見を持つ者どうしがとことん議論して結論を出すという一種の「根気」のようなものが政治から失われてしまっているのではないでしょうか。なんでもかんでも、議論なし(あるいは、少なめ)での多数決で押し切り、反対意見を「民意」を掲げて切り捨てていく手法がこのところ顕著です。自分たちの意見が通らなければすぐに「離党」というカードをちらつかせて、議論をしない政治家は、政治は議論ではなく、数だと思っているのでしょうか。そして、そのような雰囲気や手法がこの社会のここかしこに見えています。これは、一種の「一色」主義でしょう。

さて、この動きは、震災とまったく関係がないかという塗装ではないと思っています。災害の救援と復興でひとつになろうとしている人びとの心理を利用して、仮想敵をつくったり、改革幻想をちらつかせたり、あらゆる手練手管をこの際につかって、わたしたちを動員し、社会の雰囲気を「一色」に染め上げ、反対するものを排除していこうとする。これは、100年前の明治三陸大津波(1896.6.15)の前後にも起こったことです。100年(ちょっと)前、世紀転換点には大きな災害や二つの対外戦争(日清・日露戦争)があり、その後、第一次世界大戦を経て、関東大震災(1923.9.1)がおこります。その間に、災害救援のために動員された人びとの善意がやがて狭隘なナショナリズムに絡め取られていくのです。

さて、そのような轍は二度と踏まない。そのためには、その圧力に対峙し、その正体を見極め、そこから抜け出していく。そのための反「一色」主義宣言です。

わたしは、これまでも、決して、大通りの真ん中を歩いてこなかった。むしろ、好んで周縁的存在であろうとしてきた。それを、今年も、貫いてゆきたいと考えています。

さて、そのためには、まず、自分の身近からはじめようと思っています。ひとつは、生活の安定。もうひとつは、これまでの自分の研究成果を公にすることです。

では、みなさん、ことしも、よろしくお願いいたします。

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