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2012年11月18日 - 2012年11月24日

2012年11月18日 (日)

新しい出会いと、新しい課題〜あるシンポジウムに参加して〜

昨日、下記の関西大学3研究所合同シンポジウム「個人、民族、国家の関係を問う」に参加して、研究発表を行いました。
http://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/pdf/sympo20121117.pdf

シンポジウムは、「個人、民族、国家の関係を問う」というテーマで、ジンバブエの国家形成や憲法制定過程での国民の創出、「アラブの春」のにおける宗教や政治行動の問題、日本人ムスリムが日本で直面する生活上・宗教上の諸問題、琉球ナショナリズムと琉球独立運動等、多彩な内容でした。

自分が沖縄出身でないにも拘わらず、なぜ沖縄にこだわり続けているのかについて、問い直すいい機会になりました。また、あららしい出会いもあり、そこから与えられた新しい研究課題も自覚することができました。

わたしの研究発表の要旨は、実際の発表の内容とは少し異なりますが、以下にアップしておきます。(※ これらは今後論文や著書として刊行する予定ですので、「取扱注意」でお願いします。)

《発表要旨》

米軍占領下における沖縄人キリスト者の忍従と抵抗

 

 

 沖縄県のキリスト教徒の比率は、3%強だといわれている。これは、全国平均が0.8%程度であることを考えると、かなり高い。また、米軍基地が集中している沖縄島中部地区で比率が高く(4%)、教会数も多いことから、戦後の米軍占領統治が沖縄のキリスト教に伝道に大きな影響を与えているといえる。また、教育や社会事業を通して、キリスト教は沖縄の地域社会のなかで一定の地位と影響力を占めてきた。このような地域社会と教会の関係、また、関係者の米軍への接近は占領開始当初まで遡ることができる。

 沖縄のキリスト教と駐留米軍のつながりは深く、その関係は複雑である。占領下沖縄の牧師たちはクリスマスには米軍の基地に招かれて、将校主催のパーティに参加することが恒例になっていた。1960年代中頃のある年のクリスマス、牧師たちはパーティのあとで米軍司令官の案内で那覇エアーベースにあるスクランブル・エリアに通された。そこで、司令官はスクランブル発進をする米軍機のレーダーを指しながら、米軍がいかに沖縄と日本本土を守っているかについて説明をはじめた。そして、この“事実”を市民に示して、占領軍の存在意義を説得して欲しいということを、司令官は牧師たちに暗に求めたという。この時、参加した牧師の何人かは、自分たちは米軍に利用されていると確信した。そして、それを契機に反基地闘争と復帰運動に参加することになる。

 このように、軍事支配地域や植民地において支配国が被支配地域で平穏かつ有効に支配を実行するためにとられる懐柔策を「宣撫工作」と呼ぶ。沖縄戦で壊滅した沖縄の教会が、占領がはじまると急成長を遂げた背景にはこの宣撫工作があった。その宣撫工作の核となったのは、基地中のチャペル(教会堂)とチャプレン(従軍牧師)であった。チャプレンは、米国人宣教師を介して沖縄の教会やキリスト教指導者にアプローチし、次第に沖縄の教会に浸透していったが、実際には民情に関する情報の収集と牧師をつうじての世論操作に従事していたと思われる。

 一方、沖縄のクリスチャンは占領当初から戦後政治に深く関わってきた。戦後復興期には、沖縄の伝道者たちは文化部の指導員という公職に就き、沖縄島各地で伝道集会をひらき、「新沖縄建設運動」の先頭に立ったのである。また、文化部の事実上の下部組織である沖縄キリスト聯盟では、米国本土やハワイの沖縄人キリスト教団体からの援助の窓口になって、その再配分の役割を担った。

 1940年代後半には、米軍から利益を引き出して教会の復興や伝道活動を展開していくグループと距離を置き、米軍からの物的・神学的自立を目ざし、独自の教会形成を模索するグループも現れる。そして、1950年代になると次第に後者が主流になっていく。60年代に「沖縄キリスト者平和の会」などを組織し、反基地闘争に加わるのはこの系譜に属する牧師たちであった。また、次のエピソードも同様の歴史的文脈の中にある。

 19669月、アンガー高等弁務官就任式で、当時沖縄キリスト教学院の学長であった平良修牧師は、「神よ、願わくは、…(中略)…新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように」という祈りを捧げた。平良牧師も占領軍と距離を置く牧師たちの系譜に属する。彼はもともと、基地内のチャペルからの献金で奨学金を得て日本本土と米国の神学校に留学をした牧師であった。牧師としてはじめて赴任したコザ市内の教会にいたときには、彼は特に反軍的な立場をとっていたわけではない。しかし、ときおり現れる近くの基地のチャプレンの態度に違和感を持っていた。そして、米国留学中にたまたま出席した黒人教会での礼拝が彼を次第に変えていく。このような一部の牧師の反軍的行為は、占領軍の警戒心を引き起こした。そして、以後は、これらの牧師に対して、露骨な圧力が加えられることになる。新任の挨拶と称して武装して教会に乗り込み、話し合いを提案して牧師たちを基地内に引きずり込もうとした。

 ところで、平良牧師等反基地闘争の参加した牧師のほとんどは、米軍関係者から奨学金を得て、日本本土や米国への留学経験がある。留学先での在沖米軍兵士とは全く違ったアメリカ人との交流は、理不尽な米軍統治への根源的な批判を彼らのなかで引き起こした。それがこの時代のひとつの原動力になっていくが、一方で、彼らは教会としての復帰運動(日本キリスト教団との合同)を沖縄で主導していく。しかし、そこには復帰後を見通すことができなかった陥穽があった。

 実は、留学経験のある彼らは戦後の「第二世代」にあたる。「第一世代」の牧師は戦前・戦中に本土や朝鮮半島、台湾、旧満州等で生活経験のあった信徒で、戦後の混乱の中で神学教育を受けずに伝道者となった人びとである。この「第一世代」と「第二世代」との間には日本本土や日本人に対する認識において根本的な違いがあった。「第二世代」が教会合同の突き進む中で、「第一世代」は日本の教会や牧師たちへの警戒と猜疑心を口にして、「第二世代」に対して忠告した。結果として、教会の合同は「第二世代」の期待に反して、本土教団の一方的な沖縄の教会の「併合」に終わったといえる。また、現時点で、80歳前後になった「第二世代」の牧師たちは、本土教団に距離を置いて、沖縄の教会の自立を模索している。

 このような「第二世代」の牧師たちの沖縄回帰の動向を見ていると、戦後、復帰まで沖縄の教会の指導者として活躍した一人の牧師の歩みが想起される。沖縄キリスト教会の理事長や沖縄キリスト教学院の初代学長を歴任した仲里朝章(「第一世代」)は、19458月からの日記をはじめ、300点を超える説教原稿やメモ、草稿等を残している。それらを検討していくと、戦後の混乱期に、仲里は牧師でありながら沖縄の経済的自立のための方策を模索し、一方では琉球の歴史や文化の独自性を基盤とした沖縄の再建を企図していた。仲里は説教のなかでは直接的表現で占領軍の批判をすることはなかった。ただ、米国の民主主義や米国における理想的なキリスト者像をくり返し提示することで、占領軍や米兵たちの行為の悪質性を際立たせるような手法をとって、間接的に占領体制を批判してきた。

 戦後における異民族支配を経験し、本土復帰後も同様の状態が継続している沖縄で、キリスト者たちは同じ信仰をもつものとして米国人とつながりをもちつつ、ある者は米軍に接近し、他方ではそれと距離を保つことで全体の均衡を保ってきた。また、琉球の独自性や周縁性を、聖書の中のイスラエルの民に重ねて、大国の支配のもとで忍従しつつも、沖縄のキリスト者は自らの信仰を抵抗の原理に変えてゆく柔軟性とたくましさを占領下の状況で獲得していった。

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