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2013年6月30日 - 2013年7月6日

2013年7月 2日 (火)

〔告知〕学会発表「帝国日本における移動と越境からみたキリスト教交流史の研究─南島周縁地域としての喜界島と植民地伝道─」

以下は、来たる9月13日(金)〜14日(土)に東京の明治学院大学で開催されるキリスト教史学会2013年大会で研究発表をします。先日の「宗教と社会」学会の続編です。

以下は、わたしの研究発表要旨です。
 
  帝国日本における移動と越境からみた
        キリスト教交流史の研究

南島周縁地域としての喜界島と植民地伝道

喜界島は、鹿児島県の奄美群島の一部で、奄美大島の東約25㎞に位置している。周囲は約50㎞で、人口は約7,700名である(喜界町)。『キリスト教年鑑』によると、喜界島にはプロテスタント3教会(日基教団、ホーリネス、イエス之御霊)とカトリック1教会があり、信徒数は702(2013年度版による)で、人口比は9.16%となっている。

本報告の目的は、この喜界島における20世紀以降の伝道をキリスト教交流史という方法論を用いて多角的に分析することである。

キリスト教交流史という方法論は、「越境」「地域」「学際」という三つの視角から主として東アジア地域のキリスト教史を分析するためのものである。まず、「越境」とは、移民や植民、軍事侵略などによって国境を越えて生じた人口(労働力)移動に即して、信徒や伝道者の越境の実態を捉える視角である。「地域」は、地域における教派横断的な統合的歴史像の形成と地域間の連携や連帯を構想している。そして、このようなキリスト教史研究を実施するためには隣接諸科学の成果や学知を応用する必要がある。「学際」とはその謂いである。

東アジアキリスト教交流史の視点から南島キリスト教史を展望すると、近代以降、少なくとも奄美が米軍占領下にあった1950年代の前半までは、沖縄島を中核(中心)として、宮古島と徳之島が半周縁にあたり、石垣島と本報告が対象とする喜界島は周縁にあたる。その喜界島にはじめてキリスト教が伝えられたのは、1908年、同島花良治出身のホーリネス教団の伝道者・兼山常益によってであった。また、1914年には、磐井静治の周旋により日本基督教会の伝道がはじまる。

喜界島が属する奄美群島は「カトリックの島々」という印象が強いが、喜界島では1930年代にカトリックの伝道が行われるものの教会形成には至らなかった。また、ホーリネスは1890年代と1900年代初頭に名瀬で伝道が行われていた。しかし、明確な教会形成にまでは至らなかった。したがって、奄美群島のプロテスタント伝道は喜界島からはじまったといえる。

また、ホーリネスの兼山が残した直筆の履歴(兼山常益「我が家庭 兼山家」私家版)によると、彼は当初は鹿児島や東京のメソヂスト教会に通っていた。また、植民地下の朝鮮では信徒として仁川などの教会の責任をもったという。190581日、小田原修養会でバックストンより洗礼を受け、その後、東洋宣教会聖書学院を経て奄美大島・喜界島に赴任する。また、『喜界教会五十年の歩み』によると、旧日基の磐井静治は台湾(台南市旧日基教会)で洗礼を受けている。この両教会は鹿児島の旧日基教会や本土のホーリネス教団の支援を受けつつ、時に合同で集会をもちつつ、1930年代以降の厳しい迫害に耐えてきた。

このように南島キリスト教の周縁部分では石垣島と同様に帝国日本の植民地で生活経験を持ったものが教会形成に深く関与している。喜界島では、戦後も中国・熱河伝道の経験者である福井二郎が日基教団の牧師として赴任している。

以上、本報告では、南島キリスト教のなかの喜界島伝道を東アジアキリスト教交流史の文脈で考察する。

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