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2014年9月26日 (金)

わたしたちは どこへ

わたしたちは どこへ

 

こどもをかえしてと なみだにくれた ははのどうこくも

おしえごを せんじょうに かりたててしまった きょうしの かいごのねんも

 

このくにが かつて けいけんした かなしさや むなしさから

それでもたっていこうと てをたずさえてと 

つつましやかに そして けんきょに おもいたって

それぞれが それぞれに むねのなかで たてたちかいは

こうして いともかんたんに おおぜいのこえに かきけされ

なかったかのように なっていくのだ

 

  ──たたかいに いって 死んでこいよ

 

じぶんは 死なないところにたっていながら

これから だれかが わたしたちのために ちを ながしてくれるのだと

そう おもいこんでいる としよりや おんなや おとこの

したなめずりと うすわらいがきこえてくる

そのものたちは きっと おやであったり きょうしであったりするだろう

 

わたしたちは ゆうかいされて うちすてられた おんなのこの

その死を かなしむ そのくちで

あいつらを ここから たたきだせ と いっている

そうして 殺してしまえ と さけんでいる

 

いのちのねうちは こんらんしている

 

なんだか さいきん やけに まちじゅう そうぞうしく うきあしだってはいないか 

その たかぶった 心で すべてを おしきろうとしているのでは ないだろうか

そうして

いえもなくして おやも亡くして こどもも亡くして じしんもなくして 

すべてのものを きれいさっぱり うしなって

はっときがついた あの 8がつのあついひに 

わたしたちは はたして ふたたびもどるしか ないのだろうか

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